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テラスでの不穏な朝食の後、私は逃げるように自分の部屋に戻り、荒い呼吸を整えていた。
ドレッサーの鏡に映る私は、まだ気高く、冷徹な公爵令嬢としての仮面を保っている。
震える指先を隠すようにドレスの裾を強く握りしめ、自分に言い聞かせた。
主導権を握っているのは、この私。
ギルバートはあくまで私の復讐という望みを叶えるために利用した
都合のいい「犬」に過ぎないのだ。
自分にそう言い聞かせ、私はあえて虚勢を張り、いつも通りに傲慢に振る舞うことに決めた。
「ギルバート、昨夜のことは忘れてあげるわ。今日からはまた、私の望む通りの完璧な夫として動いてもらうから」
執務机に向かう彼の書斎を訪れ、私は最高に不遜な笑みを浮かべて言い放った。
彼はデスクで書類に目を通していたが、私の声を聞くとゆっくりと顔を上げ
唇の端に得体の知れない、底深い微笑を浮かべた。
「ええ、もちろん。私はあなたの夫ですから、望むままに甘やかして差し上げましょう」
彼は椅子から立ち上がり、音もなく私に歩み寄る。
その足取りはどこまでも優雅で、けれど同時に
狙いを定めた獲物を追い詰める捕食者のような静かな威圧感を放っていた。
「そ、そんなこと言ってな……!」
言葉を続けようとしたが、声が上擦る。
彼は私の肩に大きな手を置くと、そのまま羽毛が触れるような軽い手つきで、熱を帯びた私の頬をなぞった。
「ソフィア様、そんなに硬くならずに。いい加減素直になってはどうですか?」
「なっ……何を……っ」
抗議しようと唇を動かしたが、その隙間は、即座に彼の唇によって無慈悲に塞がれた。
それは朝の挨拶のような軽いものでは決してなかった。
逃げ場を完全に断ち、魂まで吸い尽くすような、深く、執拗で、熱い口づけ。
ギルバートの腕が私の腰を鉄の鎖のように固定し
もう片方の手が後頭部の髪を優しく、けれど強引に抱え込む。
「ん……んんっ……!」
押し込まれた彼の熱い舌が、私の口内の隅々までを蹂躙し、支配の証を刻みつけていく。
肺の中の空気が急速に薄くなり、頭の中が真っ白に染まっていく。
主導権を取り戻すための理屈も、彼を言い負かすための傲慢な言葉も
すべて彼の唾液と混ざり合って溶け、喉の奥へと消えていく。
絡み合う舌の動き、粘着質な水音
そして鼻腔を突く彼の濃厚な香水の匂い──。
五感のすべてが「ギルバート」という存在に塗りつぶされ、いつの間にか私の腕は、抗うためではなく
彼の首に縋り付くように回されていた。
数分、あるいは数時間にも感じられる、狂おしく長い時間の後、ようやく唇が離される。
銀の糸が引くのを呆然と見つめながら、私は膝の力が抜け、無様に彼の胸に崩れ落ちた。
「……ふふ、口では威勢がいいのに、身体はこんなに素直で、可愛らしい」
耳元で囁かれる、嘲笑気味の甘い声。
熱に浮かされた瞳を上げれば、そこには完璧に立場を逆転させた、慈悲なき支配者の顔があった。
気づけば、私の実家の領地経営も、再興のために頼るはずだった人脈も、取り戻した財産も──
そのすべてがギルバートの手によって、いつの間にか「管理」という名の鎖で縛り上げられていた。
私が外の世界と繋がるための糸は、今や一本残らず彼によって断たれている。
物理的にも、社会的にも、そしてこの熱く昂ぶる身体さえも。
私は彼なしでは、一秒も生きていくことができない絶望的な状態にまで追い込まれていたのだ。
「そんな目で見ないでください……もし、私に甘やかされるのがそんなに嫌なら、今すぐここを出て行ってもいいのですよ?」
ギルバートの指先が、私の喉元を鋭い猛禽の爪のように、愛おしげに、けれど冷たく撫でた。
彼の声から温度が消え、氷のような冷たさが書斎の空気を満たしていく。
「まあ、そしたらあなたは、明日には名前も持たない野良犬になってしまいますが」
「路地裏で泥を啜り、かつて見下した者たちに踏みにじられる……。それもまた、一興かもしれませんね」
「……っ!!」
心臓がひゅっと縮み上がった。
彼が本気で私を放り出し、この豪華な檻の外へ捨てる可能性を想像した瞬間、目の前が真っ暗になる。
彼に守られない私。彼の熱を知らない私。
彼という名の檻がない外の世界は、もはや私にとって、死よりも恐ろしい虚無でしかなかった。
「やだ……っ! 待って、行かないで……!」
プライドなんて、どこかに消え失せた。
私はなりふり構わず、彼のシャツの胸元を力任せに掴んだ。
その逞しい胸板に顔を埋め、幼い子供のように泣きじゃくりながら、私は彼の身体に縋り付いた。
「やだ……ギルバートしか頼れる人がいないのに……無理よ、もう友達も誰もいないのに、一人なんて……っ!」
私の震える慟哭を聞きながら、彼は私の背中をあやすように優しく、けれど逃がさない強さで撫でる。
「おや、あんなに私を犬呼ばわりしていたのに?私がいなくては生きていけないと、認めるのですか?」
「みと、認める……認めるから……っ、だから、捨てないで……どこにも行かないで……っ」
しゃくり上げながら、私は彼を強く、強く抱きしめた。
その瞬間、ギルバートが満足げに
そして勝利を確信した狂おしいほどの情熱を込めて、私を抱きしめ返してきた。
「……よく言えましたね、ソフィア様……」
その声は、もはや先ほどまでの冷酷なものではなかった。
獲物を完全に仕留め、自分だけのものにした悦喜に震えている。
彼は私の頬を両手で包み込むと、親指で涙を拭った。
「すみません……いじめすぎてしまいましたね。ほら……泣かないで」
私は泣きながら、けれど同時に、言いようのない圧倒的な安堵感に包まれていた。
この美しくて残酷な怪物の腕の中で
すべてを委ね、甘やかされ、壊されるまで愛され続ける。
もう、それでもいい。
むしろ、それがいい。
「愛していますよ、ソフィア様。死ぬまで、この檻の中で仲良く暮らしましょう」
甘い、破滅の誓い。
私は彼の首に腕を回し、差し出された唇を今度は自分から、渇望するように求めた。
外の世界で誰が私を蔑もうと、叔父がどうなろうと、もう知ったことではない。
私にとっての全世界は
今、この温かくて残酷な腕の中にしかないのだから。
私は微笑み、彼という永遠の檻に、自ら鍵をかけた。