玄関の扉を開けた瞬間、空気が違うことに気づく。
靴の並び、キッチンから響く包丁の音、テレビの音量。
「帰ってきた」というより、「戻されてきた」という感覚。
遥は、乱れた制服の襟を直すことさえせず、ただ足音を立てないよう廊下を抜けた。
階段の途中で、声がした。
「──で? あいつ、今日どっちだったん?」
晃司の声。低く、笑っている。
「家? それとも“学校の分”?」
玲央菜の声も混じっている。軽く、何かを揶揄するような調子。
「まあ、どっちでも。どうせ夜は“ウチの番”でしょ」
そのまま遥は階段を上りきれなかった。
下から、父の声が響いた。
「おい、遥。こっち、来い」
足が止まる。息が止まる。
──どうせ、断るという選択肢はない。
リビングの明かりの下、晃司がソファに腰かけて足を組んでいた。
玲央菜はカウンターにもたれ、紅茶を口にしている。
父は酒を片手に、ただ黙ってテレビを見ていた。
その視線が、リモコンより遥に向いた瞬間、空気が裂ける。
「今日、教師から電話あったぞ。顔が腫れてたらしいな?」
言葉の裏に、“言い訳すんな”が貼りついている。
「……」
「おい。何も言えねぇのか?」
横から晃司が口を挟む。
「別にいいんじゃね? 顔腫れるぐらい学校でやられてたら、夜の分が減らせるし。な、父さん?」
「ふざけんな。誰がそんなこと決めた」
次の瞬間、父の掌が遥の頬を打つ。
今日すでに何度目かの衝撃で、視界がまた揺れる。
「──学校でも殴られて、家でもって……オマエ、ほんっとに“選ばれし受け口”だよな」
晃司が楽しそうに笑いながら立ち上がる。
「でさ。“どっちが痛かったか”くらいは、はっきり言ってくれよ?」
「今日のあれ、日下部の指示だったんじゃねーの? なんか、あいつも“飼い主”っぽいし?」
遥の中で、何かが軋んだ。
──あいつが? ……日下部が、言った?
否定する根拠が、何もない。
日中、聞こえたあの笑い声、スマホを見ていた加害者の態度。
全部が、繋がってしまう。
「……違う……」
掠れた声がこぼれた瞬間、晃司の拳が腹にめり込んだ。
「は? 今、なんか言った?」
「違うって……あいつは……」
「“違う”? ──何が?」
言葉を続けようとした瞬間、後頭部を殴られた。父の掌だった。
「オマエの口から出てくるのは、“言い訳”か“嘘”しかねぇんだよ」
倒れた床の冷たさが、まるで自分の存在を突きつけてくる。
その横で、玲央菜が微笑んだ。
「じゃ、せめて今日の“ノルマ”、こなしてからにしようね」
──そのあと何をされたのか、断片しか覚えていない。
意識が飛びかけるたび、誰かが戻してきた。
それもまた、毎晩の「当番」だった。
部屋に戻されたのは、日付が変わる少し前。
スマホに目を落とすと──新しい通知が来ていた。
差出人:日下部
内容:
「明日、昼休み。南棟、資料室前。おまえが忘れたくても忘れられない場所。わかるよな?」
遥の指先が微かに震えた。
支配は、場所を変えて、また始まる。