「二人称の不在」
📡🧪 ※死ネタです、苦手な方注意
1
「……はい、5分間は安静にしてくださいね」
空架の優しい声を聞きながら、レダーはまだ節々が痛む身体を引きずり起こす。
先程まで盛り上がっていたアーティファクト強盗は一応成功で終わった。金持ちを逃がすことは出来たがヘリが限界を迎え、車に乗り換えようとして出血でダウンしたのが数分前。犯罪現場近くで待機してくれていた空架がすぐに駆けつけてきて事なきを得たのだった。
「安全な場所に送りましょうか?」
医療道具の入ったメディカルバッグを肩にかけ、空架はレダーに手を差し出す。その手を取ると体を起こし、レダーは藪に突っ込んだままの車を見る。この車は仲間がトランクに盗品を移し替えている。まさか空架に取ってくれとも言えない。
「いや、動けるようになったらすぐ行くから」
「そうですか」
ふらふらと立つレダーの横に空架は一歩近づく。微笑しながら顔を見上げた。
「この時間、結構好きですよ。あなたと落ち着いて話せますから」
「いつもは多動ってこと?」
「察しが良くて助かります」
「動いてるほうが落ち着くんだよ」
「でも人の車の上乗るのはやめてください」
「はぁい」
つまらなそうに口を尖らせるレダーを見て空架はクスクスと笑った。こうやってレダーが拗ねているとき、空架はいつも嬉しそうに笑う。その愛情深い笑みが嫌いではなかった。
「……また随分顔色悪かったな」
空架の肩にわざとらしく寄りかかりながらレダーは言う。空架は少し目を見開いて、それから首を振った。
「そりゃあなたのダウン通知で血相変えないほうがおかしいじゃないですか」
猛スピードで狭いフェンスの隙間にバイクを滑り込ませ、駆け寄ってきた空架の姿が思い出される。白い顔をもっと蒼白に変え、肩に掛けたメディカルバッグを下ろすやいなや診断を始め「出血に銃創」と呟く横顔は切羽詰まっていた。
今もその時のことを思い出したのか空架の顔色は悪い。レダーは身体を起こしてその頬を冗談めかしてつつく。
「大丈夫だよ死ぬわけじゃないし」
「……レダーさん」
しかし明るく振る舞ったレダーとは裏腹に、空架は今にも泣きそうなほどに顔を歪めていた。
「私は本当に命を救ってるんでしょうか」
そしてすがるような目でレダーを見た。その思いつめたような顔を前に言葉が出なくなるが、レダーは心配性な恋人に声を掛ける。
「お前が命救ってなかったら誰が救ってんだよ」
「私が一番恐れているのは、誰かが「本当に」死んでしまうことなんです。毎回通知に駆けつけて、ああ、今回も死んでなかった、って胸を撫で下ろして」
憂いが晴れないままの顔で空架は言う。
「私がやっていることは命を救うことじゃなくて、ただ、これが死ではないかを確認するだけの作業なんじゃないかって、そう、思うことがあります」
最近はこの街の常識に染まりつつあるが、空架の言葉の端々から彼が常識の違う場所から来たのではないか、とはレダーも思っていた。そして空架が「本当の死」というものを極端に恐れているということも。普段は見せない弱気な顔を、恋人の前だからと晒しながら空架は嘆く。
「誰でもいいんですよ、誰でも……死ななければ、誰でも」
「だから毎回この世の終わりみたいな顔して駆けつけてくるんだ」
「そうですよ。……特にあなたのときは気が気じゃない」
レダーは倒れた自分に駆け寄る空架の悲痛な顔を思い出した。もしこれが永遠の別れになるとしたら、その危惧が1ミリでもあるのであれば、自分もそうするのだろうか。
うなだれた腕を掴んで顔を寄せる。空架も気づいて目を閉じる。ちゅっ、と音を立てて唇が触れ合う。
「……お前は偉いな、医者の鑑だよ」
「話聞いてました?私は、本当は命なんて……」
「それでも俺を救っただろ、それでよくない?」
「まあ、結果論的にはそうですけど」
「今際の際で結果論以外に大事なものある?」
優しく頬を撫でられ空架は目を丸くする。
「そう、ですね」
少しだけ、心に刺さったトゲが抜けたような顔をして安堵のため息をついた。
そうするうちに大体5分が経ち、レダーは普段の調子を取り戻す。それを見て空架は自分のバイクに向けて先に歩き出す。その後を追おうとしたときにチクリと左足の裏に痛みを覚えた。
「痛ってぇ」
「どうしました?」
「石でも入ったのかな、もー」
身をかがめて靴を脱ごうとしたレダーに、仕方ないなぁという顔をしながら空架が近寄る。
その瞬間、銃声がした。2発。
慌てて顔を上げるレダーの目に、驚きに歪んだ表情で体勢を崩す空架の顔が見えた。胸と脇腹に空いた穴から赤い血が吹き出す。
懐の銃を抜いて振り向く。どさりと空架の身体が地面に叩きつけられる音が背後から聞こえる。
「なんで残ってんだよ」
建物の影でスーツを着た心無きが銃を構えていた。追撃をスライディングでかわし、撃ち返す。サイレンサー付きの籠もった銃声が響き、いつもよりも正確な弾道を描いて弾丸が頭を突き抜ける。血を吹き上げて倒れる姿を見届け銃をしまった。普段もこれくらい当てられればな、と腹の中でため息をつく。
「個人医呼んだ?」
倒れた空架に声を掛ける。アーマーも着ていないのだからすぐにダウンするのは当然だ。
だが空架から返事がない。ダウンしていたって意識不明にならなければ会話はできる。それが普通なのに、返事どころかうめき声の一つも聞こえない。
「……ぐち逸?」
じわじわと、赤黒い血がアスファルトの溝にそって溢れていく。黒いベストを貫通した弾痕は、一発は左胸を抜いていた。白いワイシャツとコートも徐々に赤に侵食されていく。
何が起きたのかわからない。靴底が血の海を踏む。足裏を刺す痛みなど忘れ、レダーは空架の横にしゃがみ込む。
苦しそうに曲げられた眉の下、翡翠のように綺麗な目はぎゅっと閉じたまぶたに隠されている。少し開いた口からは空気の出入りはない。
肩から転げ落ちたピンク色の可愛いうさぎのぬいぐるみに血の水際が迫る。とっさにうさぎを持ち上げるが、その頃にはすでに前足の生地が血を吸っていた。
「ぐち逸?……起きて?」
心を不安が蝕む。均衡を取るかのように、口から引きつった笑みがこぼれた。この状況を示す言葉が思い浮かんだが、希望を求める心によって何度も否定される。
顔から薄ら笑いが取れない。血の池に投げ出された手を取る。血は黒く粘り気を帯び固まりつつあった。白い手をいくら握っても自分の熱が奪われるばかりでやがてそれすら消える。
返ってくるものは何もなかった。
不快な砂塵が舞う。耳鳴りのように無線がなにか騒ぎ立てる。
空架は二度と目を開けなかった。
2
空架は死んだのだ、と、レダーが理解するのに2日かかった。
個人医に見せ、指名手配を覚悟でピルボックス病院に連れて行って医師たちに見せた。それでも信じられず市長も呼びつけた。だがどれも同じ所見だった。
生命活動の完全な停止、すなわち死。このロスサントスではほとんど例のない現象がここにあった。
しかし腐敗以前に死後硬直もない。空架は撃たれたときのまま、二度とは動かなかった。それは死というステータス異常を許容し得ないシステム、いや世界のわずかな抵抗のようでもあった。
そして今、空架は豪邸の個室のベッドの上に安置されていた。
足がつるほど奔走した後に仲間たちに説き伏せられ、物言わぬ横で思い出話をするうちに眠りにつき、しかし寝たうちにも入らない睡眠から覚め、それでもなお変わらず青ざめたまま動かない空架の姿を見てレダーはついに理解した。彼は本当に死んだのだ。
白いタコの描かれたピンクの服についた空架の血はもうずいぶんと黒くなっていた。
サイドテーブルには前足に血のついたうさぎと、いつもかけていた眼鏡が置かれていた。
空架は病院を出るときに新しいワイシャツに着替えさせられていた。その白さが血の抜けた肌の不自然な白さを際立たせる。まるで眠っているようだが青黒く血の気を失った目尻がそれを否定する。
声をかけても答えはない。ふざけてくすぐったって何も言わない。キスをしてみても冷たいばかりでおとぎ話のように魔法は解けない。
もう二度と起きない白い顔を見続けることは、土の下や炎の向こうに見送るよりもある意味残酷だった。
*
豪邸の一階では仲間たちが次の犯罪の話し合いをしていた。服を着替えてレダーもそこに合流したが、憂いと睡眠不足の頭にはあまり内容が入ってこない。
「……聞いてますか?店長」
ケインの声がしてハッと我に返った。仲間たちはみんな心配そうな顔をしていた。
「え……ああ、薬練る話だろ?」
「それはもう終わった、このあと客船並ぶかの話してんのよ」
「ああ……そっか、いいんじゃない?ヘリやるよ」
レダーは音鳴に不器用に笑い返す。その精神の不安定さは誰もが気づいていた。しかし声をかけることをためらった。この容易に本音を見せない男の前で見栄も恥もなく、本心に割って入れた人はもうどこにもいないのだ。
話し合いが終わるやいなや、準備もそこそこに再び2階、つまり空架のいる部屋に向かう後ろ姿を見て音鳴はトピオと顔を見合わせる。嫌な沈黙が続く。
「ちょっとの差だったらしいんですよ」
ようやく切り出したトピオの言葉に音鳴は眉をひそめる。
「ちょっとかがんだ隙に、目の前で撃たれちゃったらしくて……」
「それさえなけりゃ自分だったのに、ってことね。あー、そりゃ……」
シリアス耐性がない音鳴でもこの状況はまっすぐに受け止めるしかなかった。だからこそ言葉が出ない。
レダーが空架をどれだけ大切に思っていたかは、868のメンバーなら誰でもよく知っていた。きっと心に穴が空くような喪失感だろう。崩れた年長者を支えるのは難しい。こういうことには正解がないからこそ放っておくことも、声をかけることもためらわれた。
「フロガーでいい?先に上空で待機しとくよ」
上階から降りてきたレダーは汚れ一つない新しい大型服に着替えていた。顔はいつもの人を喰ったような模様の仮面で隠されていて、表情を見ることは出来なかった。
*
他の大型犯罪と被ったこともあり、客船強盗は警察が集まりきる前に順調に進んだ。
レダーは屋上に駆け上がったトピオのことをピックし、すぐさま空へとヘリを離陸させる。後ろを警察のヘリがすかさず追いかけてくる。
「こっち食いついた!金持ちは逃げられそうですね」
「ああーそうだね」
潜水で逃げた音鳴は追われていないようだ。ではこのついてくる警察ヘリをどうするか、とぼんやり考えながらレダーはもう何度持ったかわからない操縦桿を握る。
「先生!!」
同乗するトピオの必死な声で我に返った。運転席のガラスのすぐ向こうに警察のマーベリックの鼻先が見えた。迫りくる死から目を離せなくなるが、とっさに機体をひねって回避する。揚力を失った機体が少しの間制御を失うが、なんとか体勢を立て直す。
「ふぅ~あぶねぇ」
「流石です先生!あれで墜落しないのすごいです!」
トピオの無邪気な称賛がどこか遠くで聞こえた。
迫ってきたヘリの顔がまるで鳥を喰む蛇のように見えた。普段なら恐れる死のひと噛みがあまりにも甘美に思えた。
頭の片隅に死が住み着いて離れない。今まで決して現れることはなかったのに、人生の選択肢の中に死が存在するというのは恐怖であり、そして信じられないほど甘い救いだった。
その後のことは記憶が曖昧だ。どうにかしてレダーは警察を振り切って、ヘリを豪邸横のガレージに入れた。浮つく足で2階の空架の様子を見に行こうとしたが、その前に玄関でケインに呼び止められた。
「店長、その、ぐち逸さんのことですけれど」
「ん、なに?」
「店長はどう思ってるか聞いてもいいですか?これからどうしたいとか」
「どうって……なにが?」
重苦しい沈黙が流れる。鼓動が聞こえるくらい心臓が強く鳴る。
「ああつまり、ぐち逸を……」
レダーはケインの言わんとしていることを察したが、それ以上言葉にできなかった。知らないうちに自分の手を強く握りしめていた。手のひらに爪が食い込む痛みが感情を悪化させる。
「ケイン、ケインってさあ、死ぬってわかる?」
「私はロボットですので……そうですね、電源を切られるような感覚でしょうか」
胡乱な目で迫られても平静を保ってケインは答える。てっきり「わからない」と返ってくると思ったのでレダーは拍子抜けした。
「でも電源入れたら生き返るよね」
しかし逆にこみ上げた激情が言葉になって溢れ出した。レダーはケインの襟首を掴む。
「てかデータをコピーしたら何度でも生き返れるんじゃない?壊れたって作り直せばいい、どうせお前は死んだりしないんだろ」
怒りとも憎悪ともつかない怒声が吐き出される。そんな自分の歪んだ顔がケインの無機質な顔に写っていた。罵声を吐く口は怒りに満ちているのに、目だけは悲痛に震えている。なんとも矛盾した顔だ。その顔が口を開く。
「本当はわからないだろ?!死なんて!」
叩きつけるようにレダーは言った。暴風のような言葉を前に、ケインはなにも言わなかった。
「……ごめん、どうかしてた」
レダーは力を込めすぎた手を離す。
震える目、その深い悲しみの奥にあるのは後悔だった。今ぶつけた怒りも憎悪も後悔も、本当は全てレダー自身に向けられた感情だ。
「いえ、こちらこそすみませんでした。失礼な質問でしたね」
ケインがなにか言わなくてもレダーは先に気づいてしまった。
なまじ大人になってしまうと犯した失態もすぐに気がついてしまう。無責任に言葉を投げ続ける子供とは違う。だからこそ逃げ場がない。まるで子供に返ったかのように、無邪気な言葉を投げかけられた人はもうどこにもいないのだ。
「いや本当にごめん、言い過ぎた」
ゆるく首を振るとレダーは気まずそうにケインから離れた。
ケインが他のメンバーが聞きにくいことをあえて聞きに来たことも、それが正論であることもわかっていた。
だがそんなに早くには心の整理がつかない。もし空架がただ眠っているだけで、なにかの拍子に起き上がるのだとしたら、そんな奇跡が残されているのだとしたら、土や炎の向こうに見送るわけにはいかなかった。
3
ケインと別れ、レダーは吸い込まれるように空架の部屋へと向かった。返事がこないことはわかっている。それでも顔を見たかった。
軋む音を立てながらドアが開く。室内に踏み込んだレダーは息を呑んだ。
空架がベッドから体を起こしていた。
「レダー、さん…?」
「は…?ぐ、ぐち逸!!」
乱暴にドアを閉めて空架の元に駆け寄る。なにも言えないまま安堵でその場にへたり込んだ。
「そうだよ、そんな事ありえないって……死ぬなんて、そんなわけないって思ってたよ」
布団の上に投げ出された手を取る。まだひんやりと冷たい手を温めようと両手で挟む。
それを空架はぼうっとした目で見ていた。
「お前に言いたいことがいくらでもあるし、一緒にやりたいことだってたくさんあるんだよ。お前だけいなくなるなんて、そんなの……」
いざ再会できたとなると思うように言葉が出てこない。気持ちばかりがはやってしまう。空架はそんなレダーに向けて口を開いた。
「レダーさん」
「なに?」
「どうして避けたんですか」
冷水を浴びせるような声だった。レダーは驚いて空架の顔を見る。メガネの奥の目はまるでガラスのようで、温度がない。
「あなたならよかったのに」
淡々と責める声はどの記憶とも食い違う。空架はこんなことを言わない、そう気づいた瞬間に悟った。
違う、これは夢だ。
「っ……!!」
気がつくとレダーはベッドの横に膝立ちしていた。ベッドでは変わらず布団をかけられた空架の顔だけが見えていた。メガネは血のついたうさぎと一緒にサイドテーブルに置かれている。
なにも変わっていない部屋で一人芝居をしていただけだ。それも、自分にとって都合のいいことを言わせるための傀儡まで用意して。なぜ自分だったのかと他ならぬ空架に責めてもらえれば、それがレダーにとっての一番の救いだったからだ。
レダーは力なくその場に座り込んだ。幻覚まで見るほどに心は均衡を失っていた。
ふと空架のメガネを手にとってみる。冗談でかけようとするが、耳にかけるまでもなく度の強いレンズで視界がぐにゃりと歪み頭痛がした。そういえば医大卒なんだっけ、と少しだけ笑ってメガネを戻した。
その話をしたとき、空架は得意げに笑っていた。だが記憶の中のその顔がうまく思い出せない。
スマホを取り出してみてすぐに諦めた。二人とも撮られることは好まず写真はほとんど撮ってこなかった。「そんなものがなくてもそばにいればいつでも本物が見れる」と言った過去の自分は、別れが訪れるとは思わなかったのだろう。それも突然に。
「なあ、お前、どんな顔で笑うんだっけな」
物言わぬ空架に問いかける。青ざめた顔は死に際の痛みをそのままに、今も少しだけ眉間にしわが寄っていた。
レダーは二人でいた記憶を思い出そうとする。呆れたような顔で横に立つ空架が、必死な顔で駆けつけてくる空架が、自分の下で快楽に喘ぐ空架が、撃たれて倒れるあの苦悶の顔で塗りつぶされていく。
空架はこんなことを言わない。ではどんなことを言うのか?空架はこんな顔をしない。ならどんな顔をするのか?美しかった記憶が、不在になった二人称に蝕まれていく。
「いる」が「いない」に変わっただけで、世界はこれほどまでに姿を変える。うまく思い出せなくなっていく恐怖と、他になにかできたはずという後悔が心を食い散らかしていく。
振り向いても前を見ても、残ったのは孤独という言葉だけだった。
「……いま死ねば、お前に会えるかな」
普段なら絶対に考えない希死の言葉が漏れた。
一度は警察官を志したとはいえ心無きを殺し、犯罪もいくつも犯した。自分は間違いなく地獄に落ちるだろう。だが空架は違う。清廉な彼には天国の席が用意されているのだろう。
死後の世界でも二度と会うことはできない。だが今ならまだ、まだ追いつけるのではないか。そんな幻想が頭に浮かぶ。
「はは、でも絶対お前怒るよな、命を大事にとか言うよな、絶対」
乾いた笑い声が部屋に落ちる。
長生きがしたいというのは未来に展望のある人間の贅沢な願望だ。早く身をすり減らし、命の蝋燭が溶け落ちるのを願う人間には咀嚼すらできないご馳走だ。
この先の道をともに歩みたかった二人称は永遠に不在になった。
返ってくるものはもうなにもない。ひたり、と冷たい感触がこめかみに当たる。引き金に指がかかる。
孤独を抱えて歩むには、その道は長すぎた。
パン、と軽い銃声がした。右手から銃が落ち、レダーの身体がどさりと床に崩れ落ちる。
ゆっくり広がっていく血溜まりを、顔に血しぶきが飛んだうさぎのぬいぐるみだけが見ていた。
4
「出血に銃創……」
意識の端で声がする。手際よく傷の処置をする音がぼんやりした頭にも聞こえてくる。
レダーはこの声が誰なのかを考える。とても懐かしいのに、身体に力が入らずどうしても目が開けられない。
「5分間は安静にしてください」
その声で突然目が開いた。倒れるレダーを覗き込んでいた人影が立ち上がる。
「ぐち逸?!」
急いで身体を起こすと横に立つ空架はすっと手を差し出した。その手を取ってレダーも立ち上がる。
前にいるのは間違いなく空架だった。緑がかった白い髪も、透き通る翡翠の目も、凛とした顔も全てレダーが見たかった空架そのものだった。
また幻覚かもしれない、とレダーはあたりを見渡す。周りは何もない真っ白い空間だった。遠くに行くほどに光量が減って薄暗く、そして暗闇が広がっている。きっと臨死の世界だろうな、とレダーはうっすら思った。
空架とレダーの間の白い地面に赤い線が一本引かれていた。その線を挟んで目の前に立つ空架が、急に怒りをあらわにして睨みつける。
「私が一緒に来てほしいなんて言うと思いますか?」
そして強い口調で言った。
レダーはこれも幻覚か、と一瞬思った。唇をわななかせ泣きそうな顔で睨む、こんな姿はほとんど見たことがない。
「命の大切さなんて私が嫌ってほど言い続けましたよね。あなたはわがままで自分勝手で、本当にわかってないですね。……わかってないです」
細い体から絞り出すように言った。こんな顔をさせないように優しく愛し合ってきたはずだった。強い感情のままに言う空架はどう見ても本物だった。
「ごめんな、でも、でも……会えて嬉しいよ」
その言葉で空架の目が揺れた。しかしそれを振り払うように強く言う。
「私の願いなんて、「私の分も長生きしてほしい」に決まってるじゃないですか。こっちに来ないでください、願い下げです」
言い捨てると腕を組んでそっぽを向く。くだらない喧嘩をして一日口を聞いてくれなかったときもこんな顔だったな、とレダーは懐かしく思った。
周囲はとても静かで、二人以外の音はなにもしない。黙ってしまうと落ち着かない呼吸や、感情をこらえる息遣いがよく聞こえる。
「でも俺の気持ちはどうなる?置いていかれた側の気持ちは」
レダーの言葉で、空架はびくりと身体を震わせた。
「お前のことこじらせた結果、こんなところまで来たんだけど。頭ぶち抜いてさ」
夜闇のような色の目が空架を捉えた。空架は一度だけ目を逸らそうとして、それでも逸らせずその目を見つめ返した。
「お前のいない世界で長生きする理由があると思う?」
「っ、そんなのいくらでもあるでしょう!?あなたには……」
「いるよ、仲間たちが。いるけど、お前がいない」
ひゅ、と息を呑む音が無音の空間に響いた。震える翡翠色の目にたちまち雫がこみ上げ、こらえるようにぐっと歯を食いしばる。
レダーは思わず笑った。この恋人はこうやっていつも健気だった。それが愛おしくてたまらなかった。
「そうだよ、俺はわがままで自分勝手だよ。だから自分勝手ついでにさあ」
両手を広げる。空架の目が見開かれる。
「これぐらいいいよね?」
一歩踏み出す。足が赤い線を踏んだ。広げた手に迎えられるように空架もその腕に身を預けた。腕に収まる温かさはいつもと変わらず、服に染み付いた医薬品と花の懐かしい香りを吸い込んだ。
「お前が強がりで見栄っ張りなことくらい知ってる」
レダーは腕の中で声を殺す空架に優しく言う。変なところで強がって、図太いのに抜けていて、実はとても繊細な恋人を説き伏せる。
「あーまさか死んだら逃げられると思った?俺がこれくらいで諦めるって?」
胸に顔を突っ伏す空架の顎に指を添え、顔を上げさせる。潤んだ目から涙がこぼれ頬を伝う。それが服にしみを作るより先に、唇を重ね合わせた。
死人にしては温かいキスだった。もっと奥をとせがめば空架もねだるように口を開け、ゆっくり舌を絡ませる。舌先を噛むといつも声が漏れる。その愛しい声を聞きながら角度を変えて何度も口づける。
何かを確かめあうようなキスだった。呼吸が苦しくなって口を離す。名残惜しそうに舌を繋ぐ唾液の糸が切れる。
「……本ッ当、話が通じないですね、この人は」
途端に不快感をあらわにして空架は吐き捨てた。その心底嫌そうな顔が徐々にくしゃっと崩れ、しゃくりあげるような呼吸が声を震わせる。
「どうして好きになったんでしょうね」
もうほとんど涙混じりの声でそれだけ言うと、空架はレダーの胸に顔をうずめて静かに泣きじゃくった。
レダーは空架が落ち着くまでその背中を優しく撫で続けた。初めて抱いた日の朝も、嬉しくて泣く空架をなんで泣いているのかわからずとにかく抱きしめたことを思い出した。
抱きしめながらレダーはあたりを見る。空間は空架の背後が黒く、自分の背後は白が強い。そしてこの一本の赤い線。おそらく踏み越えてはいけない線だ。
「ここ、たぶん三途の川的なやつだよね。お前のこと引っ張ったら連れて帰れるんじゃない?」
呼吸の落ち着いてきた空架の顔が曇る。抱きしめる手を離すと暗い顔のまま言う。
「私の知っている世界とこの世界がズレていることは話したことあると思いますが、私のいた世界にはあったんですよ。「死」というやつが」
「ああ、そういえばそうだったね」
「……私がこの世界に持ち込んだのかもしれません。だから、私がここにいれば、これ以上死が入り込むことはないと思うんですよ」
空架はこんな時までも真面目だった。真面目な顔で、正しいことを言う。いつもすぐに自分を殺して誰かのために生きようとする、それがレダーは悔しかった。
「ふーん、だからお前ここに残るって?」
思わず声がきつくなる。あふれる愛と信頼が抑え込んでいた独占欲が、別離を前に首をもたげる。
「そう、思ってたんですけど。駄目ですね、あなたに会えたら全部、……全部、溶けてしまいました」
まつ毛を涙で濡らしたまま空架はふにゃりと笑った。
「失いたくないです。ずっと一緒にいたいに決まってます」
目にたまる涙を拭う。別離の苦しみと独占欲に苛まされているのは空架も同じだった。
徐々に空間の明暗が濃くなる。空架の後ろの闇は深まり、レダーの背後の光は強さを増す。
「……そろそろ5分経ちますよ」
空架に言われてレダーはハッとする。もう決めないといけない。
「今戻ればあなたは帰れますよ。こちらに来れば……言うまでもないですね」
「簡単だ、一緒に帰ろう」
レダーは手を差し伸べるが空架は取ろうとしない。
「私が戻れば世界に死が入り込みます。きっと沢山の人が死にます。でも私がここにとどまれば、それを選んだら、……レダーさん、あなたも一緒に来てくれますか」
「行くよ。一人になんてさせやしない」
即答するレダーに空架は満足そうに微笑みかけた。
置いていく世界と仲間や大切な人たち、その温みが頬を撫でて通り過ぎる。せめてなにか言ってくればよかった、そんな小さな後悔は一瞬で消えた。
最愛の人をこんな場所に1人で残すわけにはいかない。その身体を抱きしめようと手を広げ、足が線を踏み越えて向こう側に着こうとする。
空架はレダーの胸に両手を置き、
そして突き飛ばした。
後ろにふらついた身体を光が絡めとる。慌てて手を伸ばすが後ろに引かれる力が強く、体勢を立て直せない。
「……本当に優しい人ですね。私はね、レダーさん。あなたにだけは死んでほしくないんですよ」
「待て、ぐち逸……っ!!」
それでもなんとか手を伸ばす。ここで諦めたら魂の一部を諦めるようなものだ。なのに体が思うように動かない。強い力で現世へと引きずり戻される。
そんなレダーを見ながら空架は優しく微笑んだ。
「あなたがこの先も生きて、そして満足したら。あなたの残りの命を私にください」
慈愛のこもった温かい声で空架は言った。
「それまでは、どうか良い旅路を。地獄で待ってます」
「お前、お前は天国だろ?!もう二度と会えない、だから…!!」
身体が引き裂かれそうなほどの痛みに耐えてレダーは手を伸ばす。こんな彼岸でこうして会えたことだけでも奇跡なのだ。ましてあの世での行き先は絶対に違う。この汚れた手があの清廉な手を取れたのは現世でだけに違いない。今別れたらもう、この最愛の人とは二度と逢えない。
空架はわずかに苦しそうな顔をして、静かに微笑んだ。
「あなたの命を欲しがるのに、そんな呪いをかけるのに、天国の席が空いていると思いますか?」
頭を殴られたようだった。言葉を失うレダーの前で、少しだけ寂しそうな顔をしてから空架はすぐに笑みを浮かべた。
それは間違いなく呪いだった。自分がいない世界でも生きてほしいという残酷で、愛に満ちた呪いだった。
すぐに自殺して追いかけるなど許されないし、許せない。この身体はもう呪われたのだ。この先の道を1人で歩むしかない。その呪いと、ありったけの愛とともに。
「ありがとうございます。大好きです、レダーさん」
涙一つない満面の笑みが遠ざかる。最後まで愛しい人へと伸ばした指先が光に飲まれ、レダーの意識は掻き消えた。
*
レダーはベッドの横で目を覚ました。床に血痕はあるが頭に触れても傷はなく、よろよろと身体を起こす。
ベッドを見る。空架の身体は消えていた。残されたのは新しい血のついたうさぎとメガネだけだった。
胸を押された感触がまだ優しく残っている。
穏やかに笑う笑顔が目に焼き付いた。ああ、思い出した。あの顔だ。空架はああやって笑うのだ。
レダーは二人分の血のついたうさぎを抱いて、声を殺して泣いた。
ーーーーーーーーーー
イメソンは鬼束ちひろの『夏の罪』
日和って生き返るバージョンも考えていたのですが、死ネタをやるからにはちゃんと死んだほうが醍醐味なのでこのエンドで。
ちなみに生き返った場合はあの世界(ロスサントス)に🧪を経由して本物の死が入り込んで、普通に死んだら死ぬようになって色んな人たちが死にます。でも二人はこれからも一緒に生きれるね、ってメリバ。
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