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すぐ間近。 ソファに腰かけたままの尽を思いっきり見下ろすようにして、明らかな怒気を全身にまとったスーツ姿の男が、上司を睨み付けている。
普通ではあり得ない状況に、天莉はとにかく落ち着かない。
それなのにさすがと言うべきか。
「……直樹、意外と早かったな」
尽が、いつも一緒にいる秘書の男にさらりとそう返すのを見て、その男から強引にソファの背もたれへ押し戻される形にされて固まったまま、天莉は一人息を呑んだ。
高嶺常務の秘書――確か伊藤直樹と言う名だったはず――が、ノックもなしに、急に上役の個室の扉を押し開けるようにして室内へ入ってきたことにも驚いたけれど、いつもは『高嶺常務』と慎ましやかに呼び掛けているはずの尽のことを、無遠慮に呼び捨てにしている事にも驚かされた天莉だ。
よくよく考えてみれば、尽もそんな秘書のことを親し気に〝なお〟なんて呼んでいる。
さして接点があるわけではない雲上人のふたりなので、実際尽が普段直樹のことを何と呼んでいるのか天莉は知らない。
だが普通に考えて『伊藤』とか苗字辺りで呼び掛けているのではないだろうか。
「は? 意外と早かった? 一体全体どの口がそんなことを言うんだろうね? 『まずいことになった。悪いが戻って来てくれ』。――お前からこんなメールをもらってのんびりしていられるほど、僕は肝が据わってないんだけど?」
スマートフォンの画面を尽の方へ突き付けながら盛大な吐息を落とした直樹に、尽の背中越し。
天莉は、まるで自分が責められているような気持ちになってキュッと小さく縮こまる。
「いや、まぁそれはそうなんだが……。もう少し遅くたって俺は一向に構わなかったぞ? 大体そんなに急いで戻って来て、事故でもしたらどうするんだ」
「なぁに、尽。僕の心配をしてくれたの?」
そこでわざとらしくククッと喉を鳴らすと、直樹が声の調子をワントーン落とした。
「どうせ心配してくれるんならこういうこと自体控えてもらいたいんだがね? なぁ、尽よ。僕が駆けつけるのが遅かったら、玉木さんにキスのひとつでも出来ていたのに、とか言うつもりだった? 大体急いで戻って来てみれば……お前ってやつは……。何で彼女をここに連れ込んでる? 僕は別れ際、下でお前に言わなかったか? ひとりになったからって妙な真似はするなよ?って」
「だから! さすがにこの状況はまずいと思ったからお前に連絡したんだろーが。それに心外だな。俺はまだ彼女に妙な真似なんてしていないぞ?」
相当怒っている様子の直樹を前にしてもなお、飄々とした様子で悪びれもせず言い返す尽に、天莉はとにかくソワソワと落ち着かない。
大体さっきからちょいちょい自分の名前も出ているのだ。
無関係です、と知らん顔をして成り行きを見守っていられるほど天莉の神経は図太くなかった。
「まだ? お前、本当にバカなのか? 第三者がいるわけでもないこの状況で……個室へ女性社員を連れ込んでたってだけでも大問題なのに! 彼女を抱きしめた後、何をするつもりだったんだ!」
「いや、あれは抱き締めたとかじゃなく――」
そう。それは全くの誤解だ。
尽は、ただ単に天莉がバランスを崩したのを支えてくれただけに過ぎないのだから。
それに――。
元はと言えば天莉がふらついた原因は直樹が突然部屋に押し入ってきたからというのもあるわけで……。
(伊藤さんも悪いです……)
一人心の中。
いつの間にか尽の肩を持ってしまった天莉だ。
(ああ、でも……)
自分が倒れたりしなければ……。
もっと言えばエレベーターの昇降ボタンを押し間違えたりしなければ……。
こんなことにはならなかったはずではないか。
そう思ったら、思わず謝罪の言葉が口を突いていた。
***
「……申し訳ありませんっ!」
突然尽の背後から、今までだんまりを貫いていた天莉が口を開いたから。
一瞬室内がシーン……と静まり返って――。
そのことが余計に天莉を落ち着かなくさせた。
「あ、あのっ……。高嶺常務は本当にちっとも悪くないんですっ。も、元はと言えば私が……」
それでもポツポツと事の次第を話し始めた天莉に、直樹はもちろんのこと、当事者であるはずの尽も口を挟まずにいてくれて。
そのことがとても有難く思えた天莉だ。
仕事の出来る人間と言うのは、言うべき時はハッキリと発言し、聞くべき時は相手の言葉に耳を傾けられるものなのかも知れない。
一生懸命話しながら天莉はそんなことをふと考えてしまった。
全て話し終えたあと、もう一度「申し訳ありませんでした! ……私、本当にもう大丈夫ですし、すぐにお暇しますので」と勢いよく頭を下げたのだけれど。
それがいけなかった。
回復しきっていなかった身体は、的確に眩暈を訴えてきて、天莉はいとも簡単にぐらりとバランスを崩してしまう。
「ひゃっ」
思わず悲鳴を上げた天莉を、尽が当然と言った様子で再度支えてくれて。
「ほらな、直樹。さっきのもこう言うことだ」
どこか勝ち誇ったように、高らかに宣言した。
***
「やっぱりまだ本調子じゃないんだよ。横になってなきゃ駄目だ」
結局尽によって再度ソファに横たえられた天莉は、当然のように彼が脱いだジャケットを着せかけられて。
尽が天莉を見下ろしたまま、すぐそばで上着を脱いだ瞬間、ふわりとシトラス系の清潔感溢れるシャボンのような香りが鼻腔をくすぐった。
「あ、あのっ」
「いいから。少し黙りなさい。さっきの約束は俺の中ではまだ有効だよ?」
尽のすぐ背後には直樹がいるというのに。
唇を塞いで黙らせることも辞さないよ?と言わんばかりの嫣然とした笑みを向けられて、天莉は慌てて口を閉ざした。
先程〝結婚〟などという文言で尽から縛られてしまったからだろうか。
眼鏡の奥から天莉を見下ろす尽の表情が限りなく甘やかに見えて……天莉は妙な気恥ずかしさを覚えてしまう。
尽のその過保護ぶりに直樹が申し訳なさそうに眉根を寄せたのを、天莉は見逃さなかった。
(伊藤……さん?)
尽の肩越し。こちらを無言で見詰めてくる直樹の視線に、薄っすらと自分に対する憐憫の情さえ垣間見えた気がして、天莉は心の中でひとり首を傾げたのだけれど。
「――な? 直樹。分かっただろう? 彼女、ずっとこんな有様なんだよ。どう考えてもこのまま一人、誰もいない家に帰らせるのは考え物だと思わないか?」
長身で、タイプこそ違えどスーツの似合う超絶美形な異性二人がすぐそばに立っている状態で、自分だけソファに寝そべっていると言うのは非常に居心地が悪い。
色々と落ち着かない気持ちで尽と直樹を交互に見つめる天莉を置きざりに、尽の暴走が止まらない。
「だからな、直樹。俺は今夜、このまま玉木さんをうちのマンションへ連れ帰るつもりなんだ」
「は?」
「お前はとりあえず俺と彼女の身の潔白を晴らす証言者になってくれたらいい。そのためにわざわざ戻ってきてもらったんだからな」
直樹があからさまに呆れた顔をして睨み付けるのもお構いなし。
そんな風に尽が続けたのを、天莉は『でも高嶺常務っ。私、まだそれについては承諾していませんがっ』と身を乗り出そうとして。
ちらりと向けられた尽の視線に、あっさりと反論を封じられてしまう。
そもそもそれよりも重大な問題――結婚云々についても有耶無耶なままなのだ。
ハッキリ言って、天莉には完全にキャパオーバー。
だけど大丈夫――。
「なぁ、尽。僕はお前に『分かった。すぐ戻るから僕が行くまで何も決断するな』って返信しなかったか?」
(ほら。伊藤さんは高嶺常務の案に反対っぽいもの)
きっと、この流れからして、お泊りに関しては勿論のこと、上手くいけば結婚云々に関しても高嶺尽の優秀な秘書が、当たり障りなくことが運ぶよう上司を言いくるめてくれるだろう。
「ああ、言ったな。だから俺は今、こうしてお前に相談してるんじゃないか」
(いやいや、高嶺常務っ! 今のは相談って言うより決定事項の伝達でしたよっ!?)
そんな風にそわつく天莉を置いて。
尽の悪びれない反論を聞いた直樹は、ちらりと天莉に視線を流すと「はぁー」とこれみよがしに吐息を落とした。
そうして、まるで何かを諦めたような雰囲気を漂わせるから。
その様子に一抹の不安を覚えた天莉だ。
「――粗方の事情は理解した」
ややしてポツンと直樹がつぶやいて。
天莉は『だけど常識的に考えて、そんなの認められるわけないだろう?』と、直樹が尚も尽をいさめる言葉を重ねてくれるのを期待したのだけれど。
天莉の予想に反して直樹が次の会話の矛先に選んだのは、何故か天莉の方だった。
「玉木さん、この男が部下たちの動きをしっかり管理し切れていなかったばかりに、貴女には大変しんどい思いをさせてしまったようですね。これは彼を補佐する僕の責任でもあります。――本当に申し訳ないことをしました。すみません」
直樹がさり気なくすぐそばの上司を非難する文言を交えながら発した言葉は、天莉への気遣いを多分に含んでいた。けれど、当然天莉が欲しいものではなかったから。
「――あ、あのっ」
それですぐには反応できなくて、戸惑いに揺れる瞳で直樹を見詰めたら、「ん?」と視線を返されて、ふわりとした営業用スマイルを向けられた。
髪をセンターパートに分けて軽く後ろへ撫でつけるような髪型をした尽は、鋭い眼光をした猛禽類のようなシャープさを持った美形だけれど、笑うとどこか人懐っこい大型犬みたいな雰囲気になる。
だが直樹は――。
ふわりと下ろされた前髪のせいだろうか。
一見幼くさえ見えるのに、その実いまみたいに視線を合わせると、爬虫類――とりわけ蛇――みたいな冷たさを兼ね備えた美貌の持ち主にしか見えなくて。
笑うとそれなりに表情は和らぐのだけれど、尽とは違って目の奥に常時冷え冷えとしたものが漂っているからだろうか。
(伊藤さん、何か怖い……)
底の知れない不安に、天莉はいつの間にか尽の上着の下で隠された両腕に、ぞわりと鳥肌が立っているのに気が付いた。
この上なく柔らかな笑みを向けられているはずなのに、この悪寒は何だろう。
天莉は尽のジャケットの下、所在なく組んだ手指にギュッと力を込めた。
***
(くそっ! 何で僕がこんな損な役回りをしなきゃけないんだ!)
笑顔で天莉に話しかけてはいたけれど、その実、直樹は尽に対する怒りでどうにかなりそうだった。
そういう押し殺したはずの感情が、まさか天莉に恐怖心を与えているなんてことにまでは思い至れなかった直樹だが、そこはまぁ直樹自身怒りをぶちまけないでいることで一杯一杯だったのだから致し方あるまい。
(こんなことがなければ、僕はとうの昔に家で……今頃は――)
だって、そんな叶わない〝たられば〟を考えて、(それはさっき、僕のメッセを無視して尽が暴走気味だと分かった時点で諦めただろ?)と心の中で自分に言い聞かせる程度には、直樹だって心の葛藤を繰り広げていたのだから。
***
「大変不本意ではありますが、今回玉木さんがこんなことになってしまった原因は僕にも非があると認めたうえで、ひとつご提案です」
〝不本意〟のところに思いっきり感情を込めてそこまで言って。
直樹は勿体付けたように一呼吸置くと、わざとらしく尽をちらりと見遣った。
そうして、尽と天莉二人の視線が存分に自分へ引きつけられていることを確認すると、おもむろに言葉を続けてみせる。
「――そういうことでしたら、今夜はとりあえず僕の家にいらっしゃい」
「えっ……?」
「ちょっ、直樹! お前いきなり何を!」
案の定、直樹がまいた種に、天莉はキョトンとした反応をし、尽はこの上なく苛立たし気な様子も隠さず直樹に噛みついてきた。
「玉木さん、ハッキリ申し上げます。高嶺尽の家に行くよりは、僕の家にいらっしゃる方が数百倍安全です」
「で、でもっ」
とりあえず自分が連れて行かれそうな先が変わっただけという認識程度で、根本的な状況の変化が呑み込めずに目を白黒させている天莉のことは一旦保留しておこうと心に決めた直樹だ。
(ま、彼女の方は尽を説得するのに話す内容で、簡単に懐柔出来るでしょうし)
直樹はそんなことを思いながら天莉に背を向けると、
「けど直樹、そんなこと勝手に決めたら璃杜が黙ってないだろ!?」
などともっともらしい理由を並べ立てて抗議する幼なじみを静かに睨み付けた。
身長一八〇センチの尽に対して、直樹は一八二センチ。
実質、差なんてほとんどないが、ほんの少しだけ直樹の方が高い。
その小さな身長差を存分に生かし切れるほどではないと思うが、尽がそこに少なからず自分に対する引け目を感じているのは、高校生の頃に彼の身長を追い越した時にしかと心得ている直樹だ。
意図的に尽の頭の先から爪先までを、呆れたように睨めつけてから、直樹はわざと業務的に「御心配には及びませんよ、高嶺常務」と呼び掛けてから、スマートフォンをひらひらと尽の前で振って見せて。
「璃杜には今から電話するので問題ありません。貴方と違って僕らのもう一人の幼なじみはとても聞き分けがいいの、ご存知でしょう?」と付け加える。
「そもそも家に帰るのが遅くなるって分かった時点で一度連絡していますし、貴方が何かやらかしただろうことは璃杜にも分かっていると思いますから」
反論の余地を与えず一気にそこまでまくし立てると、直樹はピッとこれ見よがしに尽の前でリダイヤルボタンを押して、自宅に電話をかけて。
「もしもし、璃杜? 連絡がおそくなってごめんね」
尽に対するときとは真逆。天莉が思わず目を見開いてしまうほど優しい声音で語り掛けた。