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カランカラン、と鈴の音が静かに響く。
扉の向こうは、現実より少しだけあたたかい空気に包まれていた。
「こちらへ、どうぞ」
あんずはマスター・ルイに導かれ、窓際の丸いテーブルに腰を下ろした。
窓の外には月が大きく浮かんでいて、どこか絵本の中にいるような気分になる。
「何かお飲み物をお持ちしますね。……”今日のあなたに必要な一杯”を」
ルイがそう言って、奥のカウンターで丁寧にお湯を注ぐ音が静かに響く。
店内には、ほかにも数人の客がいたけれど、誰もあんずのことをじろじろ見たりはしない。
それぞれが自分の世界の中で、穏やかに過ごしている。
やがてルイが、小さなトレイを持って戻ってきた。
「心が少し、急ぎすぎているようですね。
この“ラベンダーミルクティー”をどうぞ。あたたかいミルクと、やさしい香りが呼吸を整えてくれますよ」
あんずはそっとカップを手に取った。
柔らかな湯気の中に、ほんの少しだけ“泣きたい気持ち”が溶けていった。
「……これ、すごく落ち着く」
そうつぶやくと、ルイはうれしそうに微笑んだ。
「よかった。喫茶店というのは、心の体温を整える場所ですから」
すると、入口の鈴が再び鳴った。
「ただいまー……あれっ、新しい子?」
声の主は、栗色のふわっとした髪に、大きなマフラーを巻いた少女だった。
彼女はあんずの隣にすとんと座り、にこにこと話しかけてきた。
「ねえねえ、君、初めてでしょ?あたしはツバキ。ここの常連なんだ~。
学校帰りに時々来てるの。ていうか、制服からして……中学生?」
「うん、あまね中学校のあんずっていいます」
「わー、かわいい名前!よろしくね~」
ツバキは明るくて、ちょっとだけ不思議な空気をまとっていた。
話を聞くうちに、彼女は絵を描くのが好きで、美術部でコンクールに出しているらしい。
「……でもさ、うまく描けないときもあるじゃん。
そういうとき、ここに来てね、変な夢とか見るの。お月さまの船に乗って空を旅するとか。……ふふ、不思議でしょ?」
あんずは、なんだかその言葉が心に引っかかった。
ここには、ただお茶を飲みに来てる人だけじゃない。
それぞれの「迷い」や「想い」を抱えて、月灯りに引き寄せられてきているのだと気づく。
そして、自分もきっと――。
その夜、あんずはミルクティーの香りを胸にしまって、静かに喫茶店を後にした。
扉を閉めた瞬間、またあの木製の扉は、ただの古びた壁に戻っていた。
でも、あたたかさだけは、ちゃんと手のひらに残っていた。