氷上対決︰
紬はリンクへ向かっていた。昨日の余韻がまだ心のどこかに残っていたが、それよりも今日は凍くんと滑れることが楽しみだった。
リンクに入ると、すでに凍くんが氷の上を支配するように滑っていた。彼の動きは鋭く、余計な力のない正確な軌道を刻んでいた。その視線は冷たく、誰かを待っているようにも見えた。
「遅い。」
凍くんの言葉に紬は少しむっとする。だが、次の言葉で彼女は驚いた。
「山田のほうが早いのなんで?」
紬がリンクサイドを見た瞬間、そこに立っているのは昨日紬をからかった山田健太だった。
「えっ……なんで健太がここに?」
凍くんはリンクの上で静かに止まり、紬を一瞥する。「呼んだ。昨日は話が終わってなかっただろ。」
健太は腕を組み、ニヤリと笑う。「へぇ、わざわざ俺を呼びつけるとはな。何だよ、お前らにそんな暇があったのか?」
紬は困惑したが、凍くんはまったく動じていなかった。
「昨日のくだらない話の続きをしようと思ってな。」
健太は鼻で笑う。「なんだよ、それ。くだらないなら呼ぶなよ。」
凍くんの目が冷たく光る。「お前がまだ4級なら、口を動かすより氷の上で証明しろ。」
健太の顔が少し引き締まる。「……いいぜ。」
紬は息をのむ。氷上での対決が始まろうとしていた。
リンクに立つ2人。凍は冷静な目で健太を見つめ、健太は対抗するように強気な笑みを浮かべた。
「お前に負けるなんてあり得ない。」
健太が氷を蹴り、滑り出す。彼の動きはスタミナに満ち溢れ、迷いがない。助走をつけると、1回転サルコウを跳び、力強く着氷する。その後すぐに1回転トゥループ。スピードはある。しかし、ジャンプの高さは低く、どこか粗さが残る。
凍はそれを無表情で見ていた。
「……まあまあだな。」と思いながら。
凍が氷を蹴った瞬間、空気が変わった。
2回転アクセル——完璧な弧を描き、無音の着氷。
そして4回転ルッツ。
跳躍の高さが異常だ。氷上に影を落とすその姿は、まるで悪魔が舞うようだった。
高速スピンに入る。
回転が速すぎる。空気がねじれ、氷が悲鳴を上げる。形は美しく、恐ろしいほどの精度を持っている。
紬は息を飲んだ。
「……怖いくらい綺麗。」
リンクには、凍の冷徹な圧だけが残っていた。健太は息を切らしながら睨む。自分のスタミナは化け物級でも、この表現力には太刀打ちできない。
凍は最後の動きで演技を締めくくる。その瞬間、リンク全体に冷たい圧が走った。
誰もが、その悪魔的な演技を目の当たりにした。
凍はゆっくりリンクを降りると、冷徹な視線を健太に向けた。そして、淡々と口を開く。
「お前のスピン、前にも言ったが本当に見てられないな。ぐちゃぐちゃで氷削ってるだけだろ。」
健太は歯ぎしりしながら凍を睨む。しかし、凍は構わず続ける。
「同い年でも、お前より先に進んでる身として助言してやる。黙って聞いとけよ、4級の雑音は必要ないから。」
静寂が走る。健太は拳を握りしめるが、何も言い返せなかった。
凍の言葉には、圧倒的な実力が伴っていた。
凍の合図︰
健太を冷たく一瞥した後、凍は何も言わずに紬の手首を軽くつかみ、リンクへと歩き出した。
「行くぞ。」
紬は驚きながらも凍のペースに合わせて氷へと踏み出す。
リンクに乗った途端、凍の表情が変わる。冷徹さはそのままだが、氷の上では圧倒的な滑りが支配する。彼は紬の手を離し、無言で滑り始めた。
紬はその背中を追いながら、自分も滑る。
「凍くん……去年より速い。」
紬がそう思った瞬間、凍は振り返り、低い声で言った。
「お前も、遅れるな。」
紬は息をのんだ。
それは、挑戦の合図だった。
紬は静かに、呼吸を整えた。
力を込めることなく、軽やかに滑り出す。
彼女のスケートは、強さではなく柔らかさで魅せるものだった。スピードを求めるのではなく、しなやかな表現がすべてだった。
氷を蹴る足は優しく、衝撃は極力抑えられている。それでも、彼女の滑りは途切れることなく、流れるような美しさを持っていた。
指先まで意識された動き。静かにターンを重ねる。重心の移動は繊細で、氷の上をなぞるように進んでいく。
まるで桜が舞うように、紬は氷上の物語を紡いでいた。
紬が柔らかく滑る姿をじっと見つめていた凍は、ふっと笑みを浮かべた。
「スピードも何もかも変わってないな。お前らしい。」
その言葉に紬は少し驚きながらも、ふわりと笑った。
「……それって、いい意味?」
凍は肩をすくめる。「どうだろうな。でも、お前はそれで十分やれてるんだから、悪くはない。」
紬はその言葉を聞きながら、改めて自分の滑りの個性を考えた。凍のような圧倒的な力強さはない。でも、自分には自分のやり方がある。
「じゃあ、もっと綺麗に見せるように頑張る!」
凍は何も言わず、ただリンクの上で軽くターンを刻んだ。
「……ま、悪くはないけどな。」
紬はその言葉に、嬉しそうに氷を蹴った。
紬が柔らかく滑るのを一瞬横目に捉えた凍は、無言で加速し、スッと彼女を追い抜いた。
その瞬間、リンクに冷気が走る。
彼の動きは迷いがなく、完璧な助走の軌道を描く。そして、鋭く氷を蹴る。
4回転ルッツ——。
空中で異常なほどの高さを持ち、回転速度は目で追うことすら困難だった。凍の体は重力を無視するかのように舞い、着氷の瞬間、リンク全体が静寂に包まれる。
紬は息をのんだ。
「……速いし、高すぎる……。」
凍は無言のまま、余韻を残しつつリンクの上に立ち尽くしていた。
圧倒的な存在感。冷徹で、異質な美しさ。
紬は凍の背中を追いながら、自分とは違う次元の演技に震えていた。
凍は軽く息を整え、紬の顔を見ると、微かに眉をひそめた。
「……なんて顔してんだよ。」
紬は自分の驚いた表情に気付き、慌てて取り繕う。しかし、凍は構わず続ける。
「お前も6級なんだから、2回転ルッツ+2回転トゥループを習得するんだろ。4回転なんか気にする必要ねぇよ。」
紬は戸惑いながらも口を開く。「でも……やっぱりすごいから。」
凍はため息交じりに肩をすくめる。
「それに、小学生は4回転は使用不可だ。」
淡々とした毒舌に、紬は苦笑した。
「……分かってるけど、それでもすごいって思うじゃん。」
凍は氷の上で軽くターンしながら、つぶやくように言った。
「ま、勝手に驚くのは自由だけどな。」
紬はふっと笑い、改めて氷を蹴った。
紬は氷の上で息を整えた。凍から指導を受けながら、2回転トゥループのタイミングを試行錯誤する。しかし、彼は冷徹な表情のまま淡々と助言をくれるだけだった。
「踏切が甘い。もっと重心を意識しろ。」
紬は頷き、跳ぶ準備をする。氷を蹴る——その瞬間、凍がほんのわずかに近づいた。
いつも通りの冷たい目。迷いのない姿勢。だが、その距離が思ったより近い。
——ドキッ。
紬の体が一瞬強張る。氷の上で集中しているはずなのに、思わず意識が逸れた。心臓が跳ねる。
着氷はなんとか成功したが、微妙なバランスの崩れがあった。
「……。」
凍は腕を組みながら紬を見た。
「……何、今の?」
紬は顔を伏せながら、誤魔化すように笑う。
「な、何でもない!もう一回やる!」
凍は冷たい視線のまま、ふっと鼻で笑った。
「まあ、勝手にやれ。」
紬は息を整えながら、再び氷を蹴る。
しかし、さっきの鼓動がまだ少し残っていた——。
つづき
コメント
2件
ありがとうございます!
続きが楽しみです!