テラーノベル
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演習場に立った時から、妙な視線を感じていた。
剣を振るうたび、騎士たちの目がちらちらとこちらへ向けられる。
「……何だ」
「い、いえっ!」
近くにいた騎士が、びくりと背筋を伸ばした。
「本日の殿下は、たいへん気合が入っておられるなと!」
「そ、そうですとも! さすが魔物討伐で先陣を切る殿下だと思いまして!」
「…………」
明らかに怪しい。それからも――。
「おい、見たか……?」
「ああ……」
「でも、言えるか?」
「無理だろ……」
ひそひそ。ひそひそ。周囲では、小声の囁きが続いていた。
(何なんだ、一体……)
その理由が分かったのは、演習を終え、更衣室の鏡の前に立った時だった。
「…………」
頬に――口紅の痕が残っている。
「……よくも……!」
ソフィアの仕業だ。絶対に、わざと黙っていたに違いない。俺を困らせるために。
皇太子ともあろう者が、こんなものをつけたまま人前へ出るなど言語道断。すぐに拭うべきだ。そう思ったはずなのに――。なぜか指先は、その痕をなぞっていた。
「……っ」
(俺は、一体何をしている……?!)
***
一方――皇太子妃執務室。
「さて、と」
目の前に積まれているのは、過去三年分の皇宮予算書。 私の顔まで隠れてしまいそうな量だ。
「お嬢様……本当に全部確認するんですか?」
「当然でしょう?」
長い髪をひとつにまとめ、そこへ万年筆をかんざし代わりにザクッと差し込む。ドレスの袖を肘まで豪快に捲り上げると、アンナが引きつった顔をした。
「なんというか……急にお嬢様じゃなくなりましたね」
「失礼ね。これが私の『戦闘態勢』よ」
数字を見ていると、前世の記憶が蘇ってくる。
身体が潰れそうな満員電車。定時という概念が消滅した深夜のオフィス。一円の差異すら許されない、地獄の決算期。
(……懐かしいわね)
元夫の転勤を機に退職するまで、私はそんな地獄を五度も乗り越えてきた。
(あの経験が、まさか異世界で役立つなんてね)
眼鏡をクイッと押し上げた。予算を動かす権限がないなら――。
(実績を作って、奪うまでよ)
そのためには、まず皇宮のお金の流れを把握する。そして、不正を見つける。
(この規模の組織で、不正が一つもないなんてあり得ないもの)
しかも。私は、この先の原作シナリオを知っている。ゲームでは、カイル殿下と聖女シェリーが皇宮内の横領事件を二人で解決する。それをきっかけに二人の距離は急速に縮まり――やがて恋に落ちるのだ。
「…………」
私は万年筆を止めた。
(悪いわね)
花月夜れん
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#ロマンスファンタジー
百はな🍑
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(そのヒロインイベント、私が先にいただくわ)
二人が仲良くなるイベントなんて、他にいくらでもあるでしょう。なにせ、こっちは101回目の命運がかかっているのだ。
その時だった。
──コンコン。
「ソフィア」
「どうぞ」
扉が開き、カイル殿下が姿を現した。
「…………」
頬の口紅は――。綺麗さっぱり消えている。しかも軍服を、妙にきっちり第一ボタンまで留めて着ていた。
(……あらあら。気づいたのね)
ひょっとして、頬に口紅をつけたまま演習していたのかしら。そう思うと、吹き出しそうになる。
「……ふふっ」
「何だ?」
「い、いえ。何でもありませんわ」
私は咳払いで誤魔化した。
「それで殿下。何かご用でしょうか?」
「昼食がまだだろう」
「え?」
「庭園に席を用意させる。……一緒にどうだ」
声はいつも通り淡々としている。なのに……目だけが、ものすごく期待に満ちていた。
(……何、このワンちゃん)
尻尾があったら、ちぎれんばかりに振っているのが見えそうだ。
(いやいや、駄目よ!)
(今は逃走資金ゲットのための調査が最優先でしょうが!)
「申し訳ございません。今は、この帳簿から目を離せませんの」
「……帳簿?」
「ええ」
カイル殿下の眉が、ぴくりと動いた。
「……俺より、帳簿か」
「はい。急ぎですので」
「……そうか」
しゅん。肩が落ちた。
(ちょっと!)
(そんな顔されたら、私が完全に悪者みたいじゃないの!)
「……はあ」
小さく息を吐いた。
「アフタヌーンティーでしたら、ご一緒できるかもしれませんわ」
「……本当か!?」
ぱぁぁぁっ。表情が一気に輝いた。
(分かりやすすぎるでしょ!!)
「料理長に特別な菓子を用意させる!」
「そこまでしてくださらなくても――」
「いや……せっかく二人きりで茶をするのだからな」
「…………」
一瞬だけ、言葉に詰まる。
(……そういうことを言われたら……勘違いしそうになるじゃない)
「……楽しみにしておりますわ」
「ああ」
そう答えると、カイル殿下はほんの少し口元を緩め、部屋を後にした。
再び帳簿へ視線を落とすけれど――さっきまで追っていた数字が、一瞬だけ頭に入ってこなかった。
小さく咳払いをして、万年筆を握り直す。
(今は仕事よ!)
そのとき、アンナが一通の封書を差し出してきた。
「そういえば、お嬢様。ヴァンクロフト公爵様から、またお手紙が届いてましたよ」
「……また父から?」
封を切って目を通せば――案の定だった。
『世継ぎはまだか。皇太子妃としての務めを果たし、一日も早く皇室との血縁を確かなものにせよ』
ビリリッ!
「お、お嬢様!?」
手紙を真っ二つに破り、くしゃりと丸める。
「うっざ! 人を跡継ぎ製造機か何かだと思ってるわけ!?」
「今回も、いつも通りのテンプレですねぇ……」
「次は私に見せないで、そのまま暖炉の焚き付けにしちゃっていいわ」
「それはさすがにダメですって!」
アンナの抗議を聞き流し、私は再び帳簿へ目を落とした。
***
その数分後――。
皇宮の厨房。
「で、殿下が……なぜこのようなところに?」
「ま、まさか、私どもの料理に何か不備が……?」
“氷の皇太子”と恐れられる男が、わざわざ厨房まで足を運んできたのだ。料理人たちの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「お前たち」
「は、はいっ!!」
全員の背筋が、一斉に伸びた。カイルはいつもと変わらない鋭い目で、厨房を見渡す。
そして――。国家の命運でも懸かっているかのような、ひどく真剣な顔で告げた。
「頼みがある」
「な、何なりと……!」
ごくり。料理人たちが息を呑む。
「今日の午後――ソフィアと茶をする。初めて、二人きりで」
「…………はい?」
カイルは大真面目だった。
「ソフィアが喜ぶ、最高の菓子を作ってやってくれ」
「…………」
厨房に、なんとも言えない沈黙が落ちた。
コメント
1件
うわ〜、今回も面白かったです!特にカイル殿下が口紅つけたまま演習してたの、もう笑っちゃいました(笑)「尻尾があったら振ってそう」ってソフィアの心の声、最高でしたね。そして厨房で「初めて二人きりで茶をする」って大真面目に言う殿下…ギャップ萌えが止まらないです。ソフィアの「ヒロインイベント先取り宣言」もかっこよくて、次回が楽しみすぎます!