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「桜庭くん、ちょっと話があるから今いいかな」
2月下旬のある日、大使から声をかけられ、応接室に呼ばれる。
何事かと内心身構えつつ、後に続いた。
応接室に入ると向かい合わせに座り、大使が重々しく口を開いた。
「実は人事異動の話だ。桜庭くんは在チェコ日本大使館にもうすぐ5年目だね。結婚したばかりで生活が落ち着いてきたところで悪いんだけど、本省から帰還命令が出た。4月から日本の外務省勤務とのことだ。3月中に引継ぎや帰国準備を進めて欲しい」
そのうちくるだろうとは予想していたが、思ったより早かったというのが最初の感想だ。
次に環菜のことはどうしようと思った。
以前の僕であれば、ただ自分のことを考えていれば良かったが今はそうではない。
僕の状況が変わるということは、環菜にも影響を及ぼすのだ。
「奥さんにも伝えていいから、帰還準備をよろしく頼むよ」
大使とはそれで話が終わった。
その後一人になれる場所を見つけると、僕は深いため息を吐き出す。
今回の辞令はタイミングが最悪だと思ったのだったーー。
ある日いきなり僕の目の前から姿を消した環菜だったが、無事ストラスブールで見つけ出すことができた。
もう離さないためにどうすればいいかと考え、一番簡単なのは法的に縛ってしまうことだろうと思い付いた。
すでに約8ヶ月一緒に暮らしているし、環菜以外の女性はもう考えられない僕にとっては必然の選択だったと言えるだろう。
ただ、環菜はいきなり結婚ということに躊躇することは目に見えていたから、どう承諾させるかは頭を使った。
婚約者のフリを承諾させた時の流れで、一つ一つ説明し、納得させ、NOと言えない状況に追い込んでいくのが最善だろう。
それは実際功を奏して、環菜から納得を引き出したことによって承諾を得ることに成功した。
そのあとも、冷静になった環菜が考え直してしまわないよう、思い直す時間を与えずに次々に段取り良く進めた。
両親に結婚すると連絡を入れた時には驚かれた。
結婚するような相手がいる素振りが僕に全然なかったからだ。
「結婚するだって!?」
「本当なの、智行!!」
テレビ電話越しに父と母が仰天している顔が見える。
「本当だよ。すぐにでも入籍してしまおうと思ってるんだけど、彼女が両親に挨拶しなくていいのかって気にしててさ。でもベルギーに行く時間もないし、テレビ電話で問題ないよね?」
「本当はお会いしたかったけど、しかたないわね。ね、あなた?」
「そうだな。会うのは入籍後でも構わない」
「それなら近日中にテレビ電話するよ」
そう言って話を終わらそうとすると、「待て待て待て」と両親に止められる。
2人はもっと詳細を聞きたいようだ。
「私も外交官だから分かるが、日本と海外を行き来するような仕事で相手にも負担をかけることも多いが大丈夫なのか?」
「それは大丈夫だと思うよ。彼女は会社員でもないし、比較的融通が効くんじゃないかな。それに英語も話せるし」
父は自分自身の経験から、相手に仕事への理解があるのかが一番気になるようだった。
「あら?何のお仕事をしている方なの?お歳は?」
「日本で女優活動をしていた女性だよ。年齢は僕より5歳年下」
母は彼女がどういう人物なのかが気になるようだった。
「女優!?」
「なんていう女優さんなの!?私が知ってる人かしら?」
僕が環菜の芸名を告げると、ネット配信で日本のドラマを観ているらしい母が悲鳴を上げた。
「ええっ!あの朝ドラでヒロインの親友役を熱演してた子じゃないの!健気で心優しくって何度もヒロインの窮地を助けるあの子!本当に!?」
どうやら環菜はかなり好感度の高い役を過去に演じていたようだ。
母はテレビ電話越しでも会えることが嬉しいようで機嫌が良さそうに見えた。
そして千葉真梨花の件が記事になった数日後に両親とのテレビ電話をセッティングし、環菜と対面させた。
環菜はレセプションで初対面の人と会うことにも慣れているし、少し緊張していたようではあったがいつも通り笑顔で接していた。
父も母もそんな環菜に好感を持ったようで、すんなり対面は終わり、正式に両親の承諾も得ることができた。
両親の性格からして、始めからこうなるだろうことは想定の範囲内だったので僕としてはTo Doリストを1つこなした感覚だったのだが、環菜は心底ホッとしているようだった。
そして指輪も買い、入籍の手続きもさっさと終わらせて、ストラスブールのあの日から約1ヶ月後には桜庭環菜になってもらったのだった。
ようやく環菜を法的にも自分のものにできたところで、次は環菜の仕事のことだなと思い、皆川さんに連絡をとった。
日本で皆川さんに会うために事務所へ訪問した際に、ジェームズさんの話は聞いていた。
あの時皆川さんが言っていた「大きなチャンス」というのがNetfieldからのオファーだったのだ。
その話を聞いた時は驚いたが、さすが環菜だと誇らしく思ったものだ。
たぶん環菜は本心ではまた女優として色んな役を演じてみたいと思っている。
それはそばにいれば分かった。
そもそも僕の婚約者役を引き受けたのも、なんでもいいから演じたいと思っていたのではないかと今になってそう思うようになった。
ただあんなスキャンダルを経験し、日本で女優活動をすることや、日本で人目を気にしながら生活することに抵抗があるのだろう。
ならば、今回のオファーは願ってもない話なのである。
ジェームズさんと皆川さんと会う場を設け、迷う環菜に彼女の負けず嫌いな性格を利用して少し焚き付けてみれば、やはりオファーを快諾して女優活動を再開することになった。
あれ以来、環菜はやる気に満ち溢れている。
新しい挑戦を目の前に、台本を読み込んだり、Netfieldの過去のオリジナルドラマを観て勉強したり、英語の発音の強化をしたりと精力的だ。
もともと努力家だとは思っていたが、女優としての彼女を目の当たりにして、これまでこうして一心不乱に努力を積み重ねてきたのだろうなと尊敬する気持ちが新たに生まれた。
環菜の夫として、そばにいて支えたいし、応援したいと思っている。
「はぁ‥‥。それなのにこのタイミングで日本か」
そう、この日本帰還の辞令はあまりにも時期が悪い。
僕の日本帰還は4月からだが、環菜の撮影は3月末頃からチェコとアメリカを行き来しながら行われる予定なのだ。
それに環菜はしばらく日本に住むのは避けたいだろう。
そうなると、せっかく環菜を手に入れて一緒に居られると思ったのに離ればなれになってしまう。
環菜が女優として再スタートしている時にもそばにいられない。
(どうするかな‥‥。環菜も困るだろう。とりあえず早いうちに話さないとな)
せっかくやる気を出している環菜の邪魔をするような気がして、僕は気が重くなり、ため息を吐いてしまうのを止められなかった。
その日の夜、仕事のトラブルで帰宅が遅くなった僕は、シャワーを浴びると、先に寝ていた環菜を起こさないようにそっとベッドに潜り込む。
静かにしたつもりだったが、わずかなベッドの軋みで目を覚ましたのか、環菜が眠そうな目で振り向いた。
「おかえり。遅かったね」
「うん、ちょっと仕事でトラブルがあってね。起こしてしまってごめん」
「ううん、全然大丈夫」
問題ないというように首をゆるく振ると、環菜は身体を動かして僕に抱きついてきた。
腕を僕の背に回し、背中を撫でるようにしている。
「お疲れさま」
どうやら労ってくれているようだ。
ちょっと寝ぼけたようなトロンとした目をしながら、こんな可愛いことをされ、思わず僕も強く抱きしめ返した。
「今日ね、皆川さん経由でNetfieldから衣装イメージが届いたんだけど、豪華でビックリしちゃった。日本のドラマとは予算が全然違うんだなって思って」
僕の胸に顔を埋めながら、今日あったことを報告してくれる。
その話を聞きながら、僕も辞令のことを今言ってしまおうかと思った。
「あのさ、環菜‥‥」
「ん?どうしたの?」
僕の切り出しに、しっかり話を聞こうとしたのか、胸から顔を離して、見上げるように環菜が顔を上げる。
目が合って、環菜の瞳に見入っていると、日本に戻って離ればなれになったらこんなふうに毎日抱きしめたりすることもできないんだなと思った。
そう思うと言い出しづらくなり、珍しく僕が言葉に詰まってしまった。
「‥‥いや、なんでもない。もう遅いし寝よう」
「‥‥?うん、そうだね」
しばらくすると、環菜からは静かな寝息が聞こえてくる。
僕の腕の中で安心しきった顔で眠っているのだ。
その顔を見ていると、辞令なんて無視してこのまま環菜のそばにいたい衝動に駆られる。
外交官がこういう仕事だと理解し、日本でも海外でもどこへ行くことを命じられても粛々とこなしてきたが、初めてこの仕事のこういう部分を恨めしく思った。
辞令を言い渡されてから2週間が経った。
だけど僕は未だに環菜に話すことができていない。
辞令を覆すことはできないから、4月から日本というのは確定事項であり、職場ではすでに引き継ぎを進めている。
そろそろ日本で住む場所の手配など生活面も整え始めなければならない。
それに今住んでいる家も出て行く必要があるので、環菜の今後にも影響してくる。
もういい加減に話さないといけないとは思っていた。
(僕は何でこんなに躊躇しているのだろう?何かを怖れているのか‥‥?)
そう思い、自分の心情を客観的に考察してみる。
僕は環菜と離ればなれになりたくないし、そばで応援していたいと思っている。
でもそれは、離れるのが不安ということかもしれない。
現に過去、環菜は僕の目の前から去ったし、結婚だって法的に縛ってしまうために僕が無理矢理追い込んだようなものだ。
(つまり、離れてしまうことでまた環菜が去ってしまうんじゃないかと怖れている?たとえ法的に束縛できても心までは縛れないから?)
意外な自分の弱い一面を垣間見た気がした。
まさか言い出せないのは、環菜が離れて行ってしまうのが怖かったからだとは。
どうするかなぁと頭を悩ませた僕だったが、その悩みは他でもない環菜によってその夜にぶち壊されることになったーー。
その日は仕事が早く終わり、19時には家に着いた。
玄関を開けると、夕食のいい匂いが漂う。
最近はジェームズさんや制作スタッフ、皆川さんとの打合せでよく家を留守にしている環菜だが、今日はもう家に帰っているらしい。
「ただいま」と声を上げながら、玄関からリビングに移動すると、てっきりキッチンにいると思っていた環菜がリビングに立っていた。
しかも僕を待ち構えるように仁王立ちになっている。
「どうしたの‥‥?」
なんとなく違和感を感じて問いかけると、環菜は何も言わず僕の方へズンズンと近づいてくる。
圧を感じ、思わず後ろへ下がると、そのまま壁際まで追い詰められてしまった。
そして、環菜はさらに僕を囲うようにドンと両手で壁に手をついた。
「‥‥?」
わけがわからず、僕より背の低い環菜を見下ろすと目が合った。
その瞳には不満と怒りの色が浮かんでいる。
(こんな様子の環菜は初めてみる気がするけど、なにか怒らせるようなことしたかな?)
僕が疑問に思ってただ環菜の目を見つめていると、環菜が口を開く。
「私が何に怒ってるか分かる?」
「それが特に心当たりがないんだけど」
その答えはますます火に油を注いだようだ。
白い肌を少し赤らめて怒っている。
「‥‥今日、渡瀬さんと偶然街で会ったの。そしたら智くんが4月から日本に帰還することになったって言ってた。当然私は知ってると思って話されたから、私も知ってるふりしたよ?でも聞いてないよ‥‥。なんで言ってくれなかったの‥‥?私ってそんなに智くんにとってどうでもいい存在なのかなと思うと悲しくって‥‥」
「環菜‥‥」
怒っていたのから一転、今度はタレ目がちな大きな目には涙が浮かび、白い頬に一筋流れ落ちる。
自分が話さなかったせいで環菜を傷つけてしまったことに気付き、僕は苦しくなった。
傷つけるつもりはなかったと言うように、目の前の環菜に手を伸ばし、彼女の頭を抱えるように抱きしめる。
環菜の涙で僕の胸の辺りの服が濡れていく。
「どうでもいい存在なんて、そんなはずないよ。知ってるよね?僕が環菜のことを本当に愛してるってことは」
「‥‥じゃあなんで言ってくれなかったの?」
「言わなかったんじゃなくて、言えなかった‥‥」
「‥‥言えなかった?」
「‥‥そう。環菜はこれからチェコとアメリカを行き来しながら撮影に入るよね?それに日本にもしばらくは住みたくないと思ってるのも知ってる。ということは、離ればなれにならざるを得ない。‥‥けど、不安だったんだ」
「不安‥‥?」
「‥‥離れると環菜は僕のもとから去ってしまうんじゃないかって。新しい挑戦をしようとしている環菜には僕の存在は邪魔になって負担になってしまうかもしれないから」
腹に抱えていたことを珍しくすべて包み隠さずに吐露した。
僕からはすっかりいつもの作った笑顔は消えてしまっている。
「‥‥なにそれ!ねぇ、智くんそれ本気で言ってるの?」
「本気だけど?結婚だって僕が迫ったようなもんだし‥‥」
そうポロッと漏らすと、環菜はガバッと顔を上げ、ニッコリと笑顔を作りながら僕を見る。
「じゃあ、たとえ離れても智くんのもとからいなくならない理由を説明するね?」
まるで僕の真似をするかのように、環菜は理性的に順序立てて説明をし出した。
浮かべる笑顔もなんだか黒いものを感じる。
「まず第一に、私たちは法的に認められた夫婦だから。それに私の今後の女優活動は桜庭環菜という本名でやっていくことになったから、物理的に簡単には別れられないし、離れられないよ?」
法的に縛る、そして本名を使ってもらうことで仕事的にも縛るというのは僕の狙い通りでもある。
それはその通りだろう。
「第二に、邪魔でも負担でもなくて、逆に智くんがいてくれるから私は頑張れるの。智くんが応援してくれるから私は新しいことに挑戦しようって思えたし、頑張れているんだよ?智くんの存在のおかげなんだよ?それは離れたとしても変わらないもの」
「僕の存在のおかげ‥‥?」
「そうだよ。それにこれが最後だけど、どこに住むのか場所は関係ないの。智くんがいるところが私の帰る場所だから。撮影でしばらく離れてしまうかもしれないけど、帰る場所はいつでも智くんのいるところ。日本だとしても、智くんがいるなら私は構わないと思ってるよ」
まさか僕がいるなら日本に住んでも良いと考えてくれているとは思わなかった。
それに住む場所は関係なくて、僕のいるところならと言う環菜は、外交官という仕事を理解してくれているのだと感じた。
「結婚は智くんが迫ったって言ってたけど、それじゃあ私は望んでなかったみたいに聞こえた。それも違うからね?私も智くんのことが大好きで、智くん以外の人は考えられなくて、智くんとこれからの未来を歩みたいと思ったから結婚したんだよ?」
「環菜‥‥」
僕はなにを怖れていたのだろうか。
少しでも環菜の気持ちを信じられなかった自分が許せないと感じた。
「分かった?納得した?」
「怒ってた理由が分かったし、一時的に離ればなれになっても僕たちが離れられない理由にも納得したよ。僕が悪かったって反省してる」
「それなら良かったけど。もうこういうのはナシね!私たちは夫婦なんだから、なんでも話して。それで必要なら話し合おう?」
「分かった、約束する。今回は僕が全面的に悪かったからお詫びするよ」
いつもの調子を取り戻した僕は、ニッコリと微笑む。
環菜を抱きしめるため背に回していた手を、するりと服の下に滑り込ませ、直接肌に触れてそっと這うように撫でた。
その指先にビクッと環菜の身体が反応する。
「身体でちゃんとお詫びさせて?」
耳元でそう囁くと、くるりと身体を反転させ、今度は僕が環菜を壁に追い詰める形となった。
思わぬ展開に動揺して瞳を揺らす環菜に、僕が全身全霊でお詫びをさせて頂いたのは言うまでもないーー。