誰でもいいから殺したかった。殺人の動機でよくあるやつ。俺の場合誰でも良くはない。幸せな人を殺したかった。
ピンポーン
「あなたは今幸せですか?」
当たり散らすように色んな家のチャイムを押した。
シーン……
宗教だと思われて全無視された。
じゃあ宅急便の格好をして「宅急便でーす」って言えばいいのか?駄目だ、宅急便じゃ「幸せですか?」と聞くタイミングがない。頼んでる物がパーティグッズとかだったら幸せなんだろうが、確認のしようがない。
どうしてこうも面倒なのか。殺人は簡単じゃなかったのか。
「クッソ……クソ……クソがよ……」
クソばっかり言ってたら腸が痛くなってきた。ここは住宅街の奥地、近くにトイレは無い。無いと悟った瞬間、絶望で腸ごとずり落ちそうになった。
社会的に終わる。俺が俺に殺される。誰でもいいからトイレ貸してくれ。トイレ貸してくれたら殺さないから。多分。
適当なアパートの適当なドアをドンドン叩いた。叩いてから、これじゃ一層出ないだろ、チャイムの存在を忘れる奴があるか、何やってんだ俺、と自分を激しく責めた。
だがそのドアは開いた。初めて俺に開いてくれたドアだった。
「あっあざます!トイレ貸して下さい!」
嬉しくてつい声が大きくなった。「トイレ貸して下さい」という、あまり大きい声では言いたくない台詞ランキングの10位以内に入るであろう台詞が、アパートの端から端まで響き渡った。
にもかかわらず、目の前は空虚だった。冷たい風が流れる。冷たい汗も流れる。それは心霊現象に対する恐怖ではなく、借りられないことに対する絶望だった。
いくら不用心といえども、いくら殺人鬼といえども、無許可で人の家に入ることはできない。殺人以外の罪は犯したくないのだ。最初で最後の犯罪を、人生のクライマックスにしたいのだ。
でもあと5秒で確実に漏れる。今が人生のクライマックスかもしれない。そんなの4コマ漫画のオチでも許されない。漏らしオチと夢オチだけは決して許されないんだよ。
扉が開いたということは霊が承諾したということだろう。そう勝手に解釈して、それでも全部入るのは気が引けるので、上半身だけひょっこり覗き込ませた。
「あれぇ、おっかしいな〜」
心霊現象に思わず身体が動いた体で。誰もいなかったら去る体で。
そこまで演技してやったのに。暗闇から目にも止まらぬ速さで手が伸びてきて、胸ぐらを思いっきり引っ張られた。
人生って、本当に何が起こるか分からない。
(人生って、不思議だなぁ)
ピンチの時は光景だけでなく、考えることもスローモーションらしい。不思議だなぁ、と染み入るように繰り返しながら、気付けばベッドに押し倒されていた。せめてトイレに突っ込んでくれれば良かったのに。
あれ、ていうか床で良くね?なんでわざわざベッド?床の方が殴りやすくね?ベッドだと殴る度ボンボン跳ねんじゃね?
跳ねるようなことを、したいのか?
そこでスローモーションが止まって、上にいる奴の顔が見えた。
幸薄そうな女だった。髪が長いから貞子に見えなくもなかった。
「トイレになるのはあなたです」
「犯人はあなたです」みたいなテンションで言い放つと、女は勢いをつけて上の服を捲った。そして大きめの胸を顕にすると、俺の上でぴょんぴょん跳ね始めた。目を閉じ、無言で、且つ兎のように。何秒経っても何分経っても、ただ跳ね続けるだけだった。
良い夢なのか悪い夢なのかよく分からなかった。現実だということにはしたくなかった。胸が揺れているが、揺れているなぁとしか思えなかった。何せトイレに行きたくてしょうがないのだ。トイレになるのはあなたって本当にどういう意味だよ。なれるものならなりたいよ。
「……うん、良かったです」
女が言葉を発したので、終わったのだと気付いた。何が良かったのかと疑うほど幸薄い顔のまま頷き、シャッターを下ろすように服を戻し、女は控えめに向こうを指差した。
「あの、本当のトイレはあっちです」
俺は女を突き飛ばして走った。人の家に入った、人の胸を見た、人を突き飛ばした、これだけで3つ罪を重ねている気がしたが、漏らす屈辱に比べたらもうどうでも良かった。
だがトイレに入った途端、スンッと腹痛が収まった。何なら殺意も収まった。何事も、微塵もなかったかのように。
「あれぇ……おっかしいな……」
本日2度目の「あれぇおっかしいな」を呟きながらドアを開けると、すれすれのところで女が土下座していた。危うくドアの角を頭に激突させ、4つ目の罪を重ねるところだった。
「おい、何がしたいんだよ」
腹痛が収まったら言葉が喋れるようになった。
「……」
代わりに女が喋らなくなった。ここまで罪を重ねたらいくら重ねても一緒かと思い、女の頭をつま先で小突いてみた。
「ごめんなさい……」
か細い声が漏れた。
「何がごめんなさいなんだよ」
害悪クレーマーになった気分で詰めると、か細い声が心電図のように続いた。
「何が……ごめんなさい……なんでしょう……私にも……よく……分からなくて……」
「お前が分からないんじゃ誰にも分かんねぇよ」
調子に乗ってもう一度小突こうとすると、寸前でガッとつま先を掴まれた。結構強めに、爪が食い込むくらい。
「え?」
思わず間抜けな声が出た。こいつ、謝りながら反抗できる能力を持っているのか?
「ごめんなさい……本当は分かります……ちゃんと説明します……」
多分悪いとも何とも思っていない女は、心電図のままだらだら説明した。内容を簡潔にまとめると。
女は未亡人で、寂しくて、誰でもいいから襲いたかった。誰でもいいと言いつつも、亡き夫に似た背格好の男を求めていた。そんな時、近所を「幸せですか?」と彷徨き回る、夫にそっくりな俺の姿が。宗教だろうが何だろうがとにかく運命だ、と確信した女は、俺が訪ねてくるのを今か今かと待っていた。そして「あなたは今幸せですか?」と問われたら、心からこう答えるつもりだった。
あなたが幸せにして下さい。
「待て」
俺の待てで女は見事にぴたりと止まった。犬のようだ。可愛げのない犬だ。
言いたいことは色々ありすぎるが。
「……あれで襲ったことになるのか?」
女の心電図が恥ずかしそうに鳴いた。
「私……揺れる胸を見られるのが良くて……というかそれ以外良くなくて……」
「全然見てなかったけどな」
俺ははっきり反論した。
「じゃあ良くなかったです」
女もはっきり反論した。本当に何なんだこいつ。こんな未亡人いるのか。いてたまるか。
でも俺もこんなんで殺人鬼になろうとしてたしな。
何だ、そういうもんなのか。そう納得したら、納得するのが可笑しくて、可笑しいまま去ることにした。
「あっ、あの、全て忘れて下さい。特に『トイレになるのはあなたです』ってとこ。興奮でおかしくなっていました。忘れようと思わなくなるほどに忘れて下さい」
今更のように慌てた女が、パタパタとスリッパの音を立てながらついてくる。
「きっとトイレ行く度思い出すよ」
俺は苦笑を返し、今更のように赤面する女の顔を目に焼き付けながら、ドアを閉めた。
外はまだ冷たい風が吹いていたし、どこの家も幸せそうだった。
きっと人を殺しても変わらなかった。幸せも不幸せも変わらなかった。クライマックスなんてありはしなかった。
ならこれがクライマックスでいいか。死ぬつもりで空を見上げながら道路を渡ったが、運良く青信号だった。
「赤面って、なんであんなに幸せそうなんだろうな」
よく分からないことを呟きながら、よく分からない道を歩いて帰ったのだった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!