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第五話「永遠の作り方」
十二月の空は、薄い。
厚みがない、という意味じゃなくて、何かが透けている感じがする。夏の空は密度があって、秋の空は高くて、でも冬の空だけは膜一枚向こうに何か別のものがある気がして、灰次はいつも冬の空を見るとき、少し怖くなる。向こう側に何があるのかわからないから。
十二月の第二週、灰次の下駄箱に初めて手紙が入った。
最初、また嫌がらせかと思った。でも封筒を開けると、便箋に一文だけ書いてあった。
*お前のせいで、藍先輩に迷惑がかかってる。消えろ。*
藍先輩。
灰次は便箋を折り畳んで、ゴミ箱に捨てた。捨てながら、胃の中が重くなった。藍に迷惑がかかっている、という部分が。
二人で歩いているところを誰かに見られたのか。図書室を誰かに見られていたのか。藍はマドンナで、灰次はいじめられっ子で、その二人が一緒にいることへの違和感を、誰かが持っている。
当然だ、と思った。
藍のそばにいることで、藍が傷つくなら。
その考えが頭の中で育ち始めたとき、放課後、藍が廊下で待っていた。
「来て」と藍は言った。
図書室じゃなくて、屋上への階段の踊り場だった。人が来ない場所。灰次がそこに立つのは初めてだった。
「手紙、見た?」と藍は言った。
「……見ました」
「気にしないで」
「でも藍に——」
「気にしないで」
繰り返した。今度は少し低い声で。灰次は黙った。
「あれを書いたのが誰かは分かってる」と藍は言った。「私が話す。灰次は何もしなくていい」
何もしなくていい。
その言葉の向こうに、藍が何かを抱えていることが透けた。でも灰次には踏み込めなかった。
「……藍が」と灰次は言った。「面倒なことに巻き込まれるのが嫌です」
「面倒じゃない」
「でも——」
「灰次のことが面倒だと思ったことは、一度もない」
踊り場の窓から、曇った空が見えた。薄い冬の空。
灰次は何も言えなかった。
「……信じていいですか」
「信じて」と藍は言った。
その目はまっすぐで、揺れていなかった。
灰次は頷いた。
藍はその夜、自室で机に向かっていた。
勉強ではなかった。
白い紙に、何かを書いていた。書いて、消して、また書いた。
灰次をずっと手の中に置く方法を、考えていた。
十一月から考えていたことが、十二月になって輪郭を持ち始めた。曖昧だったものが、具体的な形になりつつある。
永遠の作り方。
灰次を傷つけたいわけじゃない、と藍は思った。傷つけたくない。だからこそ、逃げられない方法を考えている。物理的に、決定的に、灰次が藍の元を離れられなくなる方法。
もっと近くで見たい。
ずっと近くで。永遠に、自分だけのものとして。
愛の刻印、あるいは毒の白昼夢。
頭の中に、その言葉が浮かんだ。
どこから来た言葉なのか分からなかった。でもぴったりだと思った。これは愛だ。歪んでいても、暗くても、これは確かに愛だ。
紙を折り畳んで、引き出しの奥にしまった。
十二月の第三週、期末試験が終わった。
クラスは冬休みの話で浮かれていた。浮かれた空気は灰次を素通りしていった。いつものことだ。でも今年は、冬休みに藍と会えるかもしれないと思っていたから、いつもより遠い話として聞こえた。
試験最終日の放課後、藍から連絡が来た。
『今日、来られる?』
来られる、というのは藍の家のことだ。先月以来、灰次は何度か藍の家に行った。行くたびに、少しずつその場所に慣れた。藍の本棚の本のタイトルも読めるようになったし、紅茶のカップの置き場所も分かった。慣れることが怖かった。慣れたら、それを失ったときに、もっと大きく壊れる気がして。
でも来られる、と聞かれたら、行きます、としか答えられなかった。
『行きます』
藍の家は、今日も静かだった。
両親は仕事で遅い、と藍は言った。灰次は頷いて、ソファに座った。今日は紅茶じゃなくて、ホットミルクを出してくれた。甘かった。灰次の好みを、藍は覚えていた。
「試験、どうだった?」と藍が聞いた。
「……まあまあです。数学が」
「どこで詰まった?」
「積分の応用」
「教えようか」
「冬休み明けでいいです。今は頭が試験モードじゃないので」
藍は少し笑った。それから、
「冬休み、会える?」
「……藍次第です」
「私は毎日でも会いたい」
毎日でも、という言葉の重さに、灰次は少しだけ息を呑んだ。
「……私も」と灰次は言った。「会いたいです」
「そっか」
藍は嬉しそうな顔をしなかった。その代わり、何か確認したような顔をした。
冬休みに入った。二人は何度か会った。商店街を歩いたり、図書館に行ったり、藍の家でただ本を読んだり。灰次にとって、今年の冬休みは今までで一番穏やかだった。
三学期が始まる二日前、藍から連絡が来た。
『明日、会える?学校に用事があって。一緒に来て』
『行きます』
一月の朝、学校は静かだった。
廊下は誰もいなくて、足音が響いた。灰次は藍の後ろをついて歩いた。藍は迷いなく歩いた。いつもそうだ。どこへ向かうときも、藍は迷わない。
理科準備室の前で、藍が止まった。
鍵を持っていた。どこで手に入れたのか、灰次には分からなかった。でも藍はそういう人間だ。必要なものを、必要なときに持っている。
扉を開けて、二人で中に入った。
理科準備室は薄暗かった。棚に試験管やビーカーが並んでいて、薬品の匂いがした。窓は小さくて、曇りの空からは光がほとんど入ってこない。
「何の用事ですか」と灰次は聞いた。
「少し待って」と藍は言った。
棚の方に向かって、何かを確認するような動作をした。手が、棚の奥に伸びた。
灰次は部屋の中を見回した。
整然と並んだ薬品棚。ラベルの貼られた瓶たち。量りと、ピペットと、白衣のかかったフック。冬休み中の準備室は、時間が止まったみたいに静かだった。
藍が振り返った。
手に、何かあった。
灰次は最初、よく見えなかった。薄暗かったから。でも目が慣れてくると、分かった。
ナイフだった。
美術の授業で使うような、小さなものじゃなかった。刃渡りが長くて、光を吸い込むような色をしていた。
部屋の温度が、一度下がった気がした。
「藍」と灰次は言った。声が、自分でも分かるくらい掠れた。「それ、何ですか」
藍は答えなかった。
ただ灰次を見ていた。あの目で。暗くて、深くて、熱い目で。計算でも、観察でも、哀れみでもない目で。
「ずっと考えてた」と藍は言った。声は穏やかだった。穏やかすぎた。「灰次をずっと手の中に置く方法」
灰次の足が、一歩後退りした。
「待って」と藍は続けた。「傷つけたいわけじゃない。ただ、どこにも行ってほしくない。誰にも渡したくない。ずっと、私だけのものでいてほしい」
言葉は、静かだった。
静かだから、余計に怖かった。怒鳴っているわけじゃない。壊れているわけじゃない。ただ、穏やかに、当たり前のことを言うみたいに、言っている。
「それは」と灰次は言った。喉が詰まった。「それは——」
「大丈夫だよ」と藍は言った。一歩、近づいた。「私がいるでしょ」
いつもの言葉だった。
いつも安心させてくれた言葉が、今日だけは、全く違う意味を持っていた。
灰次の頭の中で、ここ数ヶ月の記憶が一瞬で流れた。図書室の窓際。川沿いのベンチ。泣いている自分の隣にいた気配。大切にする、という玄関の声。
この人が。
この人が、今。
藍がまた一歩近づいた。
灰次の背中が棚に当たった。
棚の上に手が触れた。冷たいガラスの感触。ビーカーか、何かの瓶か、分からないまま、ただその感触だけがあった。
藍の手が伸びてきた。
灰次の体が、思考より先に動いた。
棚の上のものを掴んで、前に向かって腕を振った。
ガラスが割れる音がした。
液体が飛んだ。
藍の声が——した。
声とも悲鳴とも言えない何かが、薄暗い準備室に響いた。
その後のことを、灰次はうまく覚えていない。
藍が崩れ落ちたこと。床に膝をついて、顔を押さえたこと。自分も床に座り込んで、動けなかったこと。廊下から誰かの足音がしたこと。窓の外の曇り空が、ずっと同じ色をしていたこと。
断片的に覚えているのは、藍の顔だった。
液体がかかった、左側の顔。
押さえた手の指の隙間から、右目だけが見えた。
その目が、まだ灰次を見ていた。
暗くて、深くて、熱い目で。
責めていなかった。
それが一番、灰次の中に残った。
掴んだのが何だったのか、灰次はそのとき知らなかった。棚の上の、ラベルの貼られた瓶。理科準備室に保管されていた薬品。
後から教えられた。
塩酸だった。
ぽんぽんず
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