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「わ、私は……助けてもらってばっかりで、八木さんに何も返せないのに」
情けなくて、弱々しい声が出たけれど八木は特に気にする様子もなく言った。
「じゃあ今返せ。どーせ借りがあるとかアホなこと思ってるんだろが。利害が一致するな」
……いや、気にしていないんじゃない。この言葉は、彼なりの優しさだ。今も、これまでも、真衣香は甘え続けている。
決して”忘れていた”のではない。忘れたような態度を許してくれる八木に甘え続けているのだ。
「い、いえ、私、こんなことで返せるなんて思ってないです……」
緊張と自分への嫌悪感で頭の中をまとめられないでいる。
そんな真衣香に業を煮やしたのか。八木は電源が入ったままの真衣香のノートパソコンに触れた。
そして暗記しているのか、真衣香の社員番号をシステムにささっと打ち込んで退勤入力を完了させてしまう。
「めんどくせぇ奴だな、お前はマジで。付き合ってたら朝まで帰れねぇんじゃないか」
「え……、そんな真顔でひどいです」
「酷いもんかよ、ったく。言い方変えるわ。お前俺に借りがあるだろ。拒否権ないんだからついてこい。わかったか?」
言いながらニヤッと笑った。真衣香からの返事を、もうわかっているかのよう。
――やはり八木は、真衣香の扱いが上手いのかもしれない。答えを委ねられると即答できなくとも、言い切られると途端に素直に返事ができる。
それでいいのか?と、そんな疑問はひとまず置いておくとして。
「わ、わかりました! 急いで着替えてきます!」
まるで心が軽くなったかのように大きな声を出せた。
その勢いで、立ち上がり、走ってフロアを出ようとする真衣香の腕を、八木が引き止めるように掴む。
「急がなくていいっつーの。どうせ今の時間どこ行っても混んでるだろ、のんびり着替えて来い」
「……わ、わかりました」
こくり、とうなずいた真衣香に「よし」と満足げに声をかけて、頭を軽く撫でた。
その表情は、切れ長の鋭い瞳を柔らかく細めて、唇の端を僅かに上げて。
例えるなら嬉しそうに笑ってくれているように見えたのだけれど。
何故だろう。
どことなく影が見えたような気がして、心の隅に引っ掛かるようにして残ったのだった。
***
てっきり駅前で軽くご飯を食べて帰るのかと思っていた真衣香だったが、着替えて再び総務のフロアに戻り八木と合流したならば。当たり前のように手を引かれ、地下の駐車場に連れてこられた。
薄暗い駐車場のライトに照らされている黒い車がピピっと光りながら鳴った。横を見ると、八木がポケットから少しだけ取り出した車の鍵らしき物にに触れたのが見えたので、解錠したのだろう。
まわりに停まっている社用車よりも少し大きな車だった。
「八木さんも、高柳部長も車通勤なんですね? あれ、でも前、熱出した時は会社の車で送ってもらったような気が……」
「ん? ああ、今日は会社のが空いてなかったから。俺、昼間出てたろ? 上のおっさんども乗せてたし、たまたま」
「そうなんですか……」
それ以上は特に何も聞けなかった。春からの異動に関することなのだろうし、深入りできる立場にもない。
黙ったまま八木について歩いていると「早く乗れよ」と助手席を指された。いつのまにか、遠目に見ていた黒の車が目の前だ。
言われるままにドアを開けて「失礼します」と断ってから乗り込んだ。
…………そして。
乗り込んだ、その車の中で、真衣香は固まっていた。
いや、正しくは、どう身動きを取れば正解なのかが”わからない”と、表現するべきなのだろう。
膝の上に手を置き、背筋を伸ばしてじっと目の前の薄暗い駐車場の風景を眺めているのだけれど……それでも気にしないフリなどできない。
「食いたいもんねぇのか」
「そ、そうですね、八木さんのお好きなもので……」
暗い車内で、ナビの液晶が煌々と輝く。ところどころブルーのライトが光っていてオシャレだし、エアコンの風と共に甘い香りが広がって。
それだけでも緊張が増す、場数少ない真衣香だけど。
(ち、近く、ないかな?)
八木の横顔は、暗くてあまりよく見えないけれど、何やら距離感がおかしい。
最近は付き合ってる”フリ”をしてくれていたこともあって、距離が近いことは何度もあった。けれど今は誰も見ていない。
八木の車の中で、疑いようもなく二人きりだ。それなのに、肩が触れ合うほどに身を寄せて。