最寄り駅から20分のアパートまで歩くと、汗が流れる。
そして……数か月ぶりに見るアパートが一気に古くなったように見えるのは、連日中園邸の大理石や美しい家具を磨いているからだと思う。
「ただいま」
帰ると連絡しておいたので、鍵が開いているはずだとドアノブを引きながら声を掛けると
「真奈美、おかえり。暑かったでしょ」
大人の靴、3足でいっぱいになりそうな玄関のすぐ横から、母が顔を出した。
キッチンにいたようだね。
「うん。でもここはエアコンが玄関まで効いていて快適」
「おかえり。真奈美とよく言ったよな“うちは全館冷暖房で快適”って」
「ふふっ…ただいま、お父さん。今日は休み?」
狭いアパートの部屋はどこも均等に冷えていて快適なのだ。
靴を脱いでキッチンの反対側にある小さな洗面台で手を洗う間に
「日曜日が休みに変わった。いい報告だよ」
と父の声が聞こえる。
「なに、なに?」
「今月から……」
今月ってことは2週間も経たない?
なんだろ……
「現場じゃなく、事務所勤務にしてもらえた」
「わぁ……暑い時期によかったね。今だけってことでなく?」
この2、3年、父は電気工事関係の警備員をしている。
「契約社員だけど、新しく契約をしたから」
「事務所勤務で、ってこと?」
「そう」
「そっか、よかったね」
「低いなりに給料が安定するからね」
「お父さんはそう言うけど、真奈美の言うように暑い季節とか本当に体が大変だったから、少し安心よね」
麦茶を持って来た母が穏やかに言うところを見ると、母も外で人に揉まれない限り落ち着いているようだ。
「真奈美は、どうだ?」
「住み込み先でいじめられていない?」
折り畳み式の丸い机を囲んでざらっとした畳に座ると、二人は揃って私に聞いた。
「全然大丈夫」
「富裕層専門って、お金持ちの人が真奈美に難しいことを言ってこない?」
母のイメージは分からなくもない。
「大丈夫だよ。ご主人様の食事の希望で、品数は多くって言うのはあるけど、冷奴でもいいの。お味噌汁とで2品でしょ?普通の家庭料理でオッケー。何も難しいことは言われない」
「そう。同僚の人もいるでしょ?大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「真奈美の“大丈夫”を聞いても、常に頑張っていることは分かるから……大変なことも多いと思う」
「そうよね…お父さんもずっとそうだから」
それを言い出すとキリがないのだけれど、母はそれを口にせずにはいられないのだ。
そういう思いを、私たちは長年してきている。
私は畳の上で足の向きを変えようとして
「いた……っ……刺さった」
畳のささくれが靴下に突き刺さった。
「先週も切ったんだけどね。もう何か敷く方がいいかしら?」
「かもね。お母さん、ハサミどこ?」
「持ってくるわ」
そう言って母は工作バサミから糸切りバサミまで、3本のハサミを持って座った。
私と父は、当たり前にハサミを手にすると、畳のささくれを切り始める。
「暑くなってきたけど、お母さんが元気なんだよ。そこは真奈美も安心して」
「そうなの。スーパーへもお父さんに頼むことはなくなって、私がずっと行けてるの」
「50代パワー?体力ついてきたんじゃない?」
「ふふっ……40代の頃より元気に過ごしたいわね、50代」
穏やかな両親の会話を聞きながら、畳のささくれを切る作業は、癒しであり……同時に心を抉られる感覚も受ける。
こうやって私たち家族3人が下を向いて、肩を寄せ合ってきた時間は途轍もなく長いのだ。
コメント
3件
苦しい中にも家族に対する思いやりが伝わってきて泣けます🥲
家族3人どんな思いで肩寄せて生きてきたか…胸が苦しくなる。暑くなってきたけどお母さんが元気でいてくれてる。これはこれから幕が落とされることを感じてるからなのか。 50代パワーだね💪お母さん!!!
冤罪とわかっても、なかなか受け入れられなかったことがおおかったんだよね。理不尽なことばかりだったと思う。親子3人で力を合わせて乗り越えて来たんだ😭😢😢私の心も抉られる😭😭😭😭