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「麻実さん、この資格を受けてみる気はないかな? 取得すればこれから先、君の役にも立つと思うんだけど」
「資格、ですか? それって、私が受けてもいいんですか」
こういった資格取得の話が私に来ることは珍しい、普段この職場では勤務時間の長い職員が優先されることが多いから。就職後、割と早く婚約した私は気を使われていたのかあまり聞かれもしなかったし。
もし他に希望者がいれば、その人に譲った方が良いのかもしれない。そう思って聞き返したのだけど……
「麻実さんは真面目だし患者さんからの評判もいい、だからもっといろんな業務に携わって欲しいんだよね。どうかな?」
「そうなんですか、それなら是非」
褒められて嫌な気はしない、仕事振りを評価されたのも嬉しかった。真面目だけが取り柄のような私を、こうして認めてくれる職場が本当に有難くて。
声をかけてきてくれた医師の後ろで、久我さんが「良かったね!」というように笑顔で親指を立てているから、吹き出しそうになってしまう。
「勉強できる時間はあまり無いのだけど、麻実さんなら大丈夫だと思う。確か学生時代の成績も良かったと聞いているし」
「そんなことは無いですけど、合格できるよう精一杯頑張ります」
「うん、それじゃあよろしくね!」
そう言って資格の書類を手渡すと、男性医師はまた自分の持ち場に戻っていく。あの日から落ち込み気味だったけど、おかげで少しだけ気持ちが浮上したような気がしていた。
「そうなのか、それなら頑張らないとな。試験まで俺も出来るだけ雫が勉強できるよう協力する」
「ありがとう、岳紘さん。試験前になると流石に家事を完璧にとはいかなくなると思うの、それは許してほしいと思って」
その日の夜、夕食の時間に岳紘さんに今日あった出来事を話した。自分でもちょっと嬉しかったからか、久しぶりに機嫌良く夫と話すことが出来た。
あの日からまたぎこちない雰囲気に戻ってしまっていたけれど、やっと少しだけ自然に会話をした気がする。それもやっぱり気持ちをホッとさせてくれて、二人で食べる夕食を美味しく感じた。
「ああ、それは全然構わない。普段は雫に甘えすぎていると思ってたんだ、ちょうど良い機会だから俺ももっと家の事を覚えるよ」
「岳紘さんは休日、十分手伝ってくれてると思うけれど。せっかくだから甘えさせてもらうわ、ありがとう」
私と気まずくなっても、岳紘さんが休日の手伝いをしないという事は無かった。私が外出している間に掃除機をかけたり、庭の手入れをしてくれていたりと何かしらやってくれていて。
だからこそ、今も他の女性を愛している彼をまだ完全に嫌いになれないでいる。そこに私への思いやりもあることを気付いてしまってるから。
「そういえばここ最近は週末出掛けてないようだけど、麻理さんとは会っていないのか?」
「ええ、麻理もちょっと忙しいみたいで……」
お見合いをすると言っていた麻理は、その準備のためかここのところ忙しいようだ。話をしたい気持ちもあるけれど、彼女にとっても大事な時期だから邪魔はしたくない。
落ち着いたら麻理の方から何かしら連絡が来るだろうと、こちらから余計な事はせず待っている。
「そうか……」
あれ日から、私はあの喫茶店には一度も行っていない。連絡をしようと思えば店に電話するなり出来る事は分かっているけれど、そんな気にもなれないでいた。
だって、あの時の奥野君の笑顔を私はまだどうしても納得できてない。彼は楽しそうな会話をし、奥さんの肩を抱いて優し気な表情を浮かべていた。その光景は、私の想像していたものとは全然違ってて……
「しばらくは私も資格取得に集中したいし、外出は控えめになると思う。でも岳紘さんは気にしないで遊びに行っても構わないから」
「いいや、雫が頑張ってる間は俺は家の事をやるよ。こんなの君が普段やってくれてる、お礼にもならないかもしれないけれど」
そう言うと、自分の食器をキッチンへと運んでいく岳紘さん。その背中を見つめながら、私は有難い気持ちと彼の言動への戸惑いで少しだけ複雑だった。
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