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「まだやっているのか? もう日付も変わっているのに」
「……あ、ごめんなさい。キリが良いところまでやってしまおうと思ったら、こんな時間になっていたのね」
壁掛けの時計で時間を確認すると、もう深夜の一時近くになっていた。資格の勉強に夢中になってしまっていたようだ、明日も朝から仕事だというのに。
そんな私を心配したかのように岳紘さんが顔を覗き込んでくる。最近なんだか……私と彼の物理的距離が妙に近い気がして、ちょっとだけ困惑気味だ。
「これ、淹れてきたから飲むといい。寝つきが良くなるらしいから」
「ホットミルク? わざわざ用意してくれたの?」
渡されたマグカップの中身を見て驚いた、まさかそこまで気を使ってくれているなんて。最近寝つきが悪かったことまで、岳紘さんが気付いているなんて思いもしなかった。
程よい熱さに暖められたホットミルクを口に含むと、身体の力が抜けてリラックス出来た。これなら今夜はぐっすり眠れるかもしれない。
「こんな時間まで付き合わなくても良かったのに、岳紘さんだって明日も仕事なんだから」
「良いんだ、俺がやりたくてやってる事だから。ああ、髪がまだ濡れているな。俺が乾かすから君はそれを飲んでいてくれ」
そういえばお風呂を上がってからきちんと髪を乾かすのを忘れていた。ちょっとだけ問題集を解こうと思って、ついそのままにしてしまっていたから。
でもいきなりそんな事を言われても困る。今までそんなことをされたことも無かったし、こんな近距離で彼に触れられることが少しだけ怖くて。
「自分でやれるから大丈夫、岳紘さんは先に休んで……ええっ?」
柔らかく断るつもりだったのに、そんな私の言葉を聞かずに岳紘さんが髪に触れてくる。肩に掛けていたはずのバスタオルで、丁寧な手つきで水気を拭きとってくれている。
私のすぐ後ろに感じる岳紘さんの気配、彼の微かな呼吸音が私の胸をこれでもかという程ドキドキさせる。
どうして岳紘さんはこんな風に私に優しくするのだろう? 最初は別の女性を愛してしまった後ろめたさからかと思っていたが、今は何となく違うような気がする。上手く説明は出来ないけれど、今の彼の言動にそんな疾しさを感じられないのだ。
「その時間が勿体ない、睡眠はしっかり取っておかないと。俺も雫が部屋に戻ったら休むから、大人しくそれを飲んで寝てくれないか」
「……分かりました」
そんな風に言われてしまっては、拒否なんて出来るわけなくて。私は自分の髪に触れる岳紘さんの手の感触を意識しないように必死で別の事を考えていた。
私がホットミルクを飲み終えると部屋に戻って休むように言った後、彼は私のマグカップを片付けにキッチンへと行ってしまった。
「……全然、意味が分かんないわよ」
小さな声でそう呟いて、私は自分の部屋に戻りベッドに潜り込むと何も考えなくていいように目を固く閉じたのだった。
「どう? 資格の勉強は捗ってるかしら」
「久我さん、そうですね。意外と夫が協力してくれてるおかげで進んでると思います」
仕事が終わった後に久我さんに誘われて、病院近くのカフェでお茶をしている。最近はずっと職場と家の往復だけになっていたから、気分転換にちょうど良かった。
私が開いているテキストをチラリと見た後、久我さんは少し安心したように微笑んでみせる。
「そうなの、最近は旦那さんとの関係も良くなっているみたいね。それは何よりだわ」
「そうなんですよね、私もよく分からないんですけど凄く気を使ってくれてるんです。それが不思議で……」
岳紘さんは家庭の事を任せきりにするタイプではなかったけれど、それでもここまでではなかったのに。本当に彼が何を考えてそうしているのか分からなくて。
素直にその優しさに甘えていいのか迷っていたけれど、今は彼がやりたいようにしてもらっている。
「自分から距離を置こうとしたくせに、今度は縮めてきてるみたいに感じて。私はどう対応するのが正解なのか分からなくなってます」
「そうね、でもそれは旦那さんもきっと同じよ。迷って悩んで、それでも麻実ちゃんとの関係を前に進めたくなったんじゃないのかな?」
そう言われればそうなのかもしれない。だけど今になってそう思ったのはどうしてなのだろう? 岳紘さんの心境の変化の理由は不明なままで。
もしもこのまま私と夫の距離が縮まった場合、あの時交わした『夫婦間不純ルール』はいったいどうなるのだろうか? そんなことも心の中ではまだ気になっていて。