テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
148
12
今日も投稿忘れそうだから今のうちにしておく。
BEASTで、太宰が死ねなかった場合の話。
暖かい。 最初に意識の表層に浮かび上がったのは、そんな場違いなほどに穏やかな感覚だった。
頬を撫でる空気は適温に保たれ、身体を包む布は清潔で柔らかい。
耳を澄ませば、一定の間隔で刻まれる機械的な電子音だけが、静寂の中に溶け込んでいる。
おかしい、と太宰治の意識が警鐘を鳴らした。
四年間。
たった一人の友人が生きる世界を守るためだけに、この「本」の力を用いた特異点の街で、綱渡りのような計画を完遂したはずだった。
ポートマフィアの首領として、忌むべき地位に居座り続け、あらゆる敵を排除し、憎しみを一身に背負い、そして最後にはあの高層ビルの屋上から身を投げた。
アスファルトに叩きつけられる衝撃と、その先にある永劫の闇を、私は確かに望んだはずだ。
「……此処は……病室……?」
重い瞼を押し上げると、視界に入ってきたのは見慣れたポートマフィア専用病院の天井だった。
動かない身体に鞭を打ち、視線を下ろす。
視界の端には点滴の袋が揺れ、自分の身体には幾重にも包帯が巻かれていた。
首には固定用のコルセットが嵌められ、自由を奪っている。
否、そんな事より。
「何故私は……生きているんだ?」
喉が焼けるように熱い。
絞り出した声は掠れ、自分のものとは思えないほどに弱々しかった。
あのビルの高さからアスファルトに直に落下したのだ。
重力加速度計算も、落下の角度も、すべては確実に「死」へと至るように設計されていた。
助かるはずがない。
助かってはいけない。
私が生きているということは、すなわち私が積み上げてきた計算のどこかに致命的な欠陥があったということか。
夢じゃない。
この身体に走る鈍痛も、喉の渇きも、すべてが残酷なまでに現実であることを告げていた。
呆然と自分の掌を見つめる。包帯に覆われたその手が、微かに震えていた。
死ねなかった。
あの孤独な四年間の果てに待っていたのが、この白々しい病室の暖かさだというのか。
――絶望が、冷たい泥のように胸の奥底へ沈殿していく。
「お目覚めか?」
不意に横からかかった声に、心臓が跳ねた。
視線を向ければ、そこには見知った男が立っていた。
黒い帽子に、豪奢な外套。
かつて唯一無二の相棒として、そして首領となった後は最も忠実な「奴隷」として手元に置いていた男。
「……中……也……?」
中原中也は、その手に似つかわしくないほど豪勢な白い薔薇の花束を抱え、薄く笑っていた。その微笑みは、かつて戦場で向けられた信頼でも、首領室で向けられた憤怒でもない。もっと歪で、暗く、底の知れない光を孕んでいた。
「何故私は生きているんだい……?」
太宰は問いかけた。
縋るような、あるいは責めるような声だった。
中也は花束をサイドテーブルの瓶に無造作に放り込むと、ベッドの傍らに腰を下ろした。
「死にかけてる奴を手当しない馬鹿がどこにいる?」
「……っ」
言葉が出なかった。
中也の瞳を見つめる。
そこには、太宰が知る中原中也とは決定的に違う何かが棲みついていた。
「太宰、手前が死にかけてる間、俺が首領の代理をすることになった」
中也が顔を近づける。
その口角が、勝ち誇ったように釣り上がった。
「……消してやったよ」
心臓の鼓動が早まる。太宰は嫌な予感に支配され、呼吸を乱した。
消した?
何を。
まさか、私がこの世界で唯一守ろうとした……。
「真逆……!」
「漸くだ……。あの孤児院も、先代も、探偵社の奴らもな。――手前の、友人もな」
脳裏に、赤茶色の髪をした一人の男の背中が浮かんだ。
私がすべてを捨てて、地獄の王座に座り続けてまで守り抜いた、彼が小説を書く世界。
「……彼は……関係ない……」
太宰の声が震える。必死に否定しようとするが、中也の冷徹な眼差しがそれを許さない。
「其奴ァ悪い事したなァ。」
中也の指先が、太宰の頬を撫でる。
その感触が、悍ましい毒のように全身に回っていく。
「……ッ、触るな!!」
太宰は残された力を振り絞り、中也の手を跳ね除けようとした。
だが、重傷を負った身体は思うように動かず、点滴の管が派手な音を立てて揺れるだけだった。
「来るな……」
じわ、と目に涙が滲む。
何故だ。何故こんなことになった。
私が守りたかったものは、私が救いたかった世界は、すべて私の「死」によって完結するはずだった。
私が生き残ってしまったせいで、中也という狂気がすべてを壊したというのか。
中也は、拒絶されたというのに、それすら楽しむように頬を赤らめ、悦びに満ちた表情で太宰を見下ろしていた。
「今は私が首領だ、私の質問に答えろ。……何故こんな事した?」
太宰は、崩れ落ちそうな理性を必死に繋ぎ止め、首領としての威厳を繕おうとした。
だが、中也の瞳に映る自分は、ただ震えているだけの惨めな敗北者に過ぎなかった。
「其れもそうだな。答えてやるよ」
中也がさらに顔を寄せ、太宰の耳元で囁く。
その声には、長年溜め込まれてきたドロドロとした情念がこもっていた。
「結論も糞もねェが――手前に気にかけてもらえる彼奴らが、羨ましかったんだ」
「……?」
「其れだけだ」
太宰の思考が停止する。
何を言っている?
羨ましい?
ただそれだけの理由で。
それだけのために、私が守り抜いたすべてを灰にしたというのか。
「其れだけの為に……織田作を……?」
その名を口にした瞬間、中也の表情がさらに歪んだ。
「『織田作』か……羨ましい呼び方されやがって。はぁ……♡」
恍惚とした溜息。
太宰は目の前の男が、自分の知っている中原中也ではないことを確信した。
否、あるいは、自分が彼に強いた四年間の孤独が、彼をここまで壊してしまったのか。
「最低だ……!」
太宰は叫んだ。
涙が頬を伝い、コルセットに吸い込まれていく。
「これじゃあ全てが莫迦じゃないか! 赦さない……! 絶対に赦さない!」
叫びは空しく病室に響く。
中也は、その呪詛をまるで愛の告白でも受けているかのような、蕩けるような笑顔で受け止めていた。
「……最高だ」
中也の手が、太宰の後頭部を強引に掴む。
「その顔……百億の名画にも勝るぜ?」
「……んむ”っ!?」
強引に唇を塞がれた。
抗おうにも身体は固定され、点滴の管が虚しく音を立てる。
口内を蹂躙する熱。
中也の息遣い。
――ガシッ、と。
髪を掴む中也の手に力がこもる。
逃げ場のない病室。
無機質な機械音。
「ん……はっ……あ……っ、ちょ……や……め……」
何度も何度も、深い接吻を繰り返される。
その度に、太宰の守りたかった世界の残骸が、脳裏で粉々に砕け散っていく音がした。
織田作。
私が死んで、君が生きるはずだった世界は、もうどこにもない。
中也が唇を離すと、太宰の口元からは銀の糸が引き、掠れた呼吸が部屋を満たした。
太宰は、ただ、絶望の淵から中也を見つめることしかできなかった。
生き残ってしまった報い。自分が作り上げてしまった、もう一人の怪物の誕生。
中也は、涙で濡れ、憎悪に燃える太宰の瞳を愛おしそうに見つめながら、その首元の包帯にそっと指先を滑らせた。
「死なせないぜ、太宰。……手前を独り占めするために、俺は世界だって壊してやるよ」
暗い、暗い、愛の牢獄。
太宰治は、自分を縛り付ける白いシーツと、自分を逃がさない青い瞳の檻の中で、ただ静かに、終わることのない悪夢の続きに身を沈めていった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!