車は北陸自動車道を軽快に走る。右手には日本海が広がり、見晴らしの良い景色はドライブ気分を盛り上げる。
車に乗り込む時に慶太から「お昼ご飯を食べに行く」と聞いただけで、行き先は知らされていない。
シークレットプランに沙羅はワクワクと胸を躍らせた。
「海なんて久しぶり、気持いい」
「そう、良かった。でも、目的地は海じゃないんだ」
「どこに行くの?」
「それは、着いてからのお楽しみ」
加賀インターチェンジを降りて、緑が深い山間の道を走り続けた。
道路の案内標識は、石川県でも有名な温泉地である山中温泉と書かれている。
あやとりはし前駐車場に車を停めて降り立つ。
緑深い山間は、蝉の音が降り注ぎ、爽やかな風が頬を撫でていく。
昼の暑い時間なのに街中より、ずいぶん涼しく感じられた。
「私、山中温泉まで来たの初めてかも」
「そうなんだ。後で散策しよう。まずは腹ごしらえをしてから」
そう言って、慶太はお店に立ち寄り、包みを受け取ると、川沿いへと下りは始める。
「坂が急だから」と手を繋いだ。
慶太に優しくされるたびに、ドキドキと胸が高鳴る。
長年忘れていた心のときめきは、沙羅に高揚感と僅かな罪悪感を与えた。
僅かな期間の限定的な恋人。
でも、好きという気持ちをいまさら止められるとも思えない。
もしも、このまま慶太から離れられなくなってしまったら……。
沙羅は、繋いだ手を離すのが怖くなっていた。
|鶴仙渓《かくせんけい》、大聖寺川の|畔《ほとり》に設えられた川床は、赤い和傘が掛かった小さな桟敷席。腰を下ろせば、川のせせらぎが聞こえ、まわりの木々に茂る緑葉の濃淡が目に優しく映る。
さっそく、お弁当の包みを広げた。和牛の網焼き弁当から香ばしいたれの匂いが漂い食欲をそそられる。
「わー。美味しそう」
「昨晩は魚がメインだったから、お肉を用意したんだ」
「ふふっ、東京へ帰るまでに、本当に太りそう」
自分を戒めるように東京へ帰ると沙羅は言う。
慶太は、少し寂し気な笑みを浮かべた。
「東京で高校の頃の友達と交流ある?」
「高校の頃の友達? あっ、同じクラスだった日下部真理って覚えてる? つい最近、再会してランチしたの。お互いバツイチになった話しとかしている」
「じゃあ、日下部は旧姓のままなんだ。沙羅は岩崎だよね」
そう言われて、沙羅は視線を慶太から逸らし、遠くを見つめた。
「……私は、子供が苗字変わるの抵抗あるかと思って、佐藤姓を名乗っているの」
「そう。でも、俺の中では他の誰でもない沙羅だから」
「うん……」
透明の川面の上を木の葉が流れていく。
それが見えなくなるまで、目で追いかけた。
「山中温泉は初めて来たけど、マイナスイオンいっぱいで良い所ね。連れて来てくれてありがとう。日帰りだから温泉に入れないのが残念。いつか泊まりに来たいなぁ」
沙羅は話題を変えたくて、何の気無しに口にした。
すると、慶太の手がスッと沙羅の髪を梳き、切れ長の瞳で語りかける。
「いつかと言わずに、今日泊まって行く? 宿、手配できるよ」
TAKARAリゾート|彩都里《あやとり》は、全6室の隠れ家的宿。各部屋、離れの仕様で露天風呂付きの贅沢な作りだ。
落ち着きのある黒柿色のロビーには、大きなガラス窓。庭には四季を感じさせる木々が植栽され、窓から見える景色は一枚の絵画のよう。
フロントで、部屋のキーを受け取った慶太は、ガラス窓の外を見つめる沙羅へ振り返る。
「沙羅、部屋に行くよ」
その声にうなずいて、慶太へと足を踏み出す。
沙羅は、こんなシチェーションの時にどんな振舞いがいいのかわからずに、戸惑いが先に立ち、上手く言葉がでない。
自分でもいい年をしてダメだなと思う。
でも、圧倒的に恋愛に関する経験値が低いのだ。
緊張で表情を硬くする沙羅の背中に、慶太はそっと手を添えた。
その手の温かさにホッとして、慶太の顔を見上げる。
すると、切れ長の綺麗な瞳と視線が絡む。
その瞳が「大丈夫だよ」という風に優しく弧を描いた。沙羅も頬を緩め、ニコッと微笑み返す。
小豆色をした着物姿の仲居さんが、ふたりの様子を見計らいながら「お部屋は、こちらになります」と歩みを進める。
ロビーのある建物から伸びる回廊は、等間隔で出窓が並び、そこに飾られた漆器と外の景色との調和が美しく心を和ませた。
細やかな気づかいが高級ホテルならではだと、思いながら離れのお部屋へ着く。
木製の引き戸の横に表札のようなプレートには「結の間」と書かれていた。
踏込から前室へ、その先には次の間、和寝室に続く。窓の外には檜木の露天風呂。堀コタツのダイニングからも山の景色が一望に出来る。
延べ120平米をふたりで使うには、贅沢過ぎる空間だ。
加賀ほうじ茶を急須で入れて、仲居さんが下がると部屋にはふたりきり。
沙羅の心はそわそわと落ち着かなくなる。
豪華すぎる部屋に沙羅は、目をぱちくりさせて見まわした。
「すごいお部屋……」
「気に入ってくれた?」
「この部屋を気に入らない人なんて居ないと思う。こんなすごいお部屋初めて」
「そう? 気に入ってくれたなら良かった。温泉にもゆっくり浸かれるよ」
ガラス窓の外に見える、檜木の露天風呂。
確かに温泉に入れるけれど、ひとりで入っても丸見えだし、ふたりで入るのはハードルが高すぎる。
沙羅の頭の中で、いろいろなシーンが浮かび上がる。妄想が先走り、顔を赤くして、あわあわしてしまう。
慶太は、クスリと笑い。ガラス窓端にあるシェードを引いた。
「ごめん、俺のヌード期待した? これがあるから隠せるんだ。沙羅がお願いしてくれるなら見てもいいよ。それとも一緒に入る」
沙羅は目を丸くして、口をあんぐり開けた。
あまりの驚きっぷりに、「あはは」と慶太はお腹を抱えて笑っている。
「もう、私が慌てるの楽しんで見てたでしょう。ホント意地悪なんだから!」
恥ずかしいやら悔しいやらで、慶太の胸をポカポカと叩く。
「ごめん、ごめん」
攻撃を防ぐのに、大きな手が沙羅の手首を捕まえる。
広い部屋にふたりきり、息のかかる距離まで近づいていた。
それを意識した途端に、沙羅の心臓がドキンと大きく跳ねた。
すると、慶太の瞳が艶を帯びる。
「キス……いい?」
返事を聞かないうちに、唇が重なった。沙羅は静かに瞼を閉じ、受け入れる。
柔らかく甘い刺激に、心が蕩けていく。
今だけの恋人。
別れの日に、きっと、また泣く事になるのに、それでも慶太を好きな気持ちは膨らみ続けている。
重なり合っていた唇が、チュッと音を立て離れた。それを、寂しく感じて沙羅はねだる。
「大人のキスをして……」
「ん、いいよ」
上唇を食まれ、舌先が探るように唇の合間から口腔内に忍び込む、クチュとみだらなリップ音が聞こえて体温が上がる。
大きな手が沙羅の髪の合間に梳き、後頭部を押さえられた。より口づけが深くなっていく。
慶太に丁寧に扱われ、幸せ過ぎて夢の中に居るように感じる。
広い背中に手をまわし、幸せが逃げないようにギュッと力を込めた。
厚みのある舌が自分の内側を撫でている。
その感触にゾクリと熱い衝動が腰のあたりに溜まる。やがて、息があがり始めた。
「ん、んん……」
キスをしているだけなのに、鼻に掛かった甘い声が漏れだす。
今だけ、すべての事を忘れて、息もつけないほどこの恋に溺れていく。
「慶太……好き」
「ん、俺も沙羅が好きだよ。大切にする」
「大切にする」その言葉通りに慶太は、宝物のように沙羅を大切に想っていた。
再び、めぐり逢えた奇跡とも言える出会いを逃したくないと願う。
そして、東京に帰る予定がある沙羅との、いまにも切れそうなふたりの間の赤い糸が切れないように紡ぎ続けている。
だから、無理に抱くようなまねはしたくない。
沙羅の傷ついた心の準備が出来るまで、待つつもりだ。
「……続きは沙羅のタイミングでいいよ」
腕の中に居る沙羅は、まだ瞳を潤ませ頬を蒸気させていた。
そして、キスの後の艶やかな唇が動く。
「お風呂に入ってからがいい……」
ポソリとつぶやき、沙羅は恥ずかしそうにコテンと額を慶太の肩に寄せた。
予想外の回答。
慶太はてっきり「まだ、心の整理がついていないの」と言われるものかと思っていた。
内心の焦りを隠しつつ、沙羅の髪を優しく撫でる。
「じゃあ、待ってるからお風呂に入っておいで。ゆっくりでいいよ」
「うん、ありがとう」
顔を上げた沙羅は、はにかんだ笑顔を向けた後、露天風呂へトコトコと早足で入っていく。
そして、シェードはしっかりと下ろされた。
それでも、沙羅のシルエットがシェードに映る。
慶太は、浴室から死角になる堀コタツの座椅子に腰掛け、気持ちを落ち着かせるように大きく息を吐き出した。
沙羅は足先からゆっくりと、やや熱めのお湯に浸かった。
「はぁ、気持ちいい」
檜木の香りが漂い、目の前には、緑鮮やかな竹林が広がり、その合間を清涼な風が抜けて行く。
「なんて、贅沢」
聴こえて来るのは、風の音と振り注ぐような蝉時雨。
蝉は短い命の間に、恋をして朽ちていく。
母親である自分が、恋に溺れるなんて世間的に見れば間違いだと言われるだろう。
けれど、自分を大切にしてくれる人に心を寄せるのは、自然な感情だ。ましてや、気持ちを残したまま、事情で別れてしまった恋人なら、恋心を再燃させた今、その気持ちを簡単に止められる事など出来ない。
高級旅館の離れの部屋は、非日常の世界。
世間から切り離されて居るように思えた。
この先の事は考えずに、今はただ自分の気持ちに素直になろうと、 沙羅は心の声に従う事にした。
お湯から上がり、丹念に体の隅々まで水滴を拭う。
備え付けの浴衣を羽織り、兵児帯で結んだ。
浴衣姿を確認しようと、全身を鏡に映す。
鏡に映った自分は女の顔をしていた。
浴室から出ると部屋の奥の窓際に慶太を見つける。
「お風呂お先にありがとう」
「ゆっくり出来た?」
「うん、贅沢気分をさせてもらいました」
「そう、良かった。じゃあ、俺も入って来るね」
慶太は、沙羅の頬に手を当て、チュッと唇に短いキスを落とした。
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