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「ゆぃをはじゅしてくれぇないきゃ。しゃべりにきゅきゅてぇたまりゃん」
伝わるかわからなかったが、つらい現状を述べたら、あっさり指が外された。
(スズメバチに刺されるかもしれない場所は、首と額に両頬の三箇所。止まられないように頭を動かしても、限度があるな)
「部長、さっさと言わないと――」
「わかってる。だが俺はあの女に脅された被害者だってことを、どうか覚えておいてくれ」
目の前にいるふたりに訴えた。少しでも同情してもらい、スズメバチを飛ばさないようにしなければと必死になり、媚びるような口調で語りかけた。
「不倫した加害者のクセに、被害者アピールですか」
岡本さんから、冷たい言葉がぶつけられたが、これくらいでめげていられない。命がかかっているんだから。
「確かに不倫したのは認める。でも俺は妻や華代が望んでいることをしたまでなんだ」
「私が望んだこと?」
「華代は俺と、ずっと一緒にいたいって言ってたじゃないか。それを叶えるために、結婚すればいいと考えて、俺は行動に移したんだぞ」
草と一緒に石を踏みしめる音が、足元から聞こえた。
「部長と一緒にいたいって言ったけど、結婚まで望んでなかった。家庭内別居していても、部長は既婚者だからっていうのが、頭の中に常にあったよ……」
怒りを抑えた低い声と、地団駄を踏んでジャリジャリと石がぶつかる音が、華代の内なる苛立ちを表しているのを耳にし、ヤバみを感じて背中に汗をかく。
「だって結婚したら、一緒にいられる時間が増えるじゃないか」
「じゃあ聞くけど、奥様と一緒にいる時間と私と一緒にいる時間、どっちが長いのかな?」
「それは華代に決まってる。昼間は会社で一緒にいるし、夜だって自宅には寝に帰るだけだからな」
愛想笑いを浮かべ、堂々と告げてやる。華代が一番だということを知らしめるべく、とことん持ち上げてやった。
「ふふっ。津久野さん、そんなこと言っていいの?」
岡本さんの小馬鹿にした笑い声が、俺の思考を停止させる。
「なにがだ?」
「スズメバチを用意している私たちが、これまでの会話を録音していないと言いきれる?」
「録音、だと?」
「奥様に聞かせたら、さぞお喜びになるでしょうね。夫に蔑ろにされる妻の私は、いったいなんだろうって」
素直に喋らなければ、スズメバチに刺される。喋ったらしゃべったで、録音されたものを妻に聞かせることになるとか――。
「卑怯だぞ! そうまでして、俺を貶めたいのか!」
「津久野さんのそのセリフ、そっくりそのままお返ししますよ。ハナと付き合っていながら、支店にいる女子社員とも付き合い、奥様につらい不妊治療をさせているんだから」
「待ってくれ。支店の女に脅されて、無理やり付き合ってるだけだ。好きで不倫してるんじゃない!」
冷や汗が額から流れ落ちたのがわかった。焦りを表すように、体中から嫌な汗が吹き出す。
「部長もしかして、脅されて付き合ってるから、不倫のカウントにいれないでくれって言ってるの?」
「そ、そうだ……」
「女子社員は、部長に襲われたって言ったのになあ。どっちが嘘をついてるんだろう?」
どうやったらこの状況を、少しでも良くさせることができるだろうかと考えはじめた瞬間、喉仏に指が突き立てられた。
「くぅっ!」
慌てて顎を引きながら後頭部を木の幹に押しつけたら、指が外される。
「津久野さんが嘘をつきすぎて、どれが真実なのかさっぱりわかりませんね」
「俺は嘘なんてついてない。さっきも言ったが俺がしているのは、相手が求めていることを実行してるだけ。それだけなんだ!」
「ちなみに私は、結婚という二文字をひとことも言ってないよ。ただ一緒にいたいと言っただけ。部長はそれを、勝手に湾曲しただけじゃない」
「華代だって喜んでいただろ。式場巡りしたときに、楽しそうにはしゃいでいたじゃないか」
当時のことを思い出し、そのことを口にしてやったら、いきなりしんと静まり返る。まさに、ぐうの音も出ないと言ったところだろう。
「津久野さんは結婚適齢期の女性の目の前に、将来を夢見るような材料を並べ立てて、弄んだにすぎません。ハナはそれだけ、津久野さんに夢中だった。はしゃいでしまうのも当然でしょう。でもこのタイミングで奥様が妊娠したら、どうするつもりだったんですか?」
ところどころ、圧の入ったセリフを告げた岡本さん。怒りを感じさせるそれに、気圧されそうになったが、負けじと答えてやる。
「それは」
「妊娠しないって、どこかでわかっているからでしょう? 不妊治療をするにあたり、夫婦で検査して結果を知っているから」
岡本さんは俺の言葉を止めるように、いきなり割り込み、左頬を叩いた。パンッという皮膚を叩いた音が辺りに響き渡り、静寂の中に溶け込んでいく。
「ちょっと絵里、叩いたりしたらダメだって言ったでしょ」
「グーパンしなかっただけマシ。このままこの人の話を聞いていたら、どうにもイライラしちゃってさ。怒りどころをどこかにぶつけないと、スズメバチを放ちそうだったんだ」
(――もう一発くらい平手打ちされたほうが、身の安全が保障されるだろうか?)
痛む頬を撫で擦ることもできずに、微妙な面持ちでふたりの会話を耳にした。
「部長は自分の精子の数がすっごく少なくて、しかも運動率も悪いせいで、妊娠させる能力が低いとあらかじめ知っていたから、奥様だけじゃなく私や支店の女子社員にも、中出ししていたんだよね?」
「そんなこと、どこで――」
「私さっき言ったでしょ、絵里が探偵事務所で調査してくれたって。奥様と不仲じゃないことも、わかってるんだから」
愛情をまったく感じさせることのない、華代の突き放すような物言いに、体の力がどんどん抜けていく。
「はっ、最近の探偵事務所は、なんでも調べ尽くせるのか……」
不貞腐れる感じで言い放ったら、華代は淡々とした口調で訊ねる。
「ちなみに奥様は子どもを望んでいたから、不妊治療をさせたの?」
「妻が家にずっとひとりでいるのが、つまらないんじゃないかと思ったのがきっかけだ。子どもでもいたら、暇をつぶせるだろ」
「暇潰し……。愛情があるからじゃなく?」
「嫌いだったら、一緒に暮らしていないさ」
「津久野さん、貴方いったい――」
華代とのやり取りの間に、岡本さんがイライラを滲ませたセリフを呟く。
「俺は器用な男だからさ。同じだけの愛情を同時に、複数の相手に与えることができる」
満面の笑みでほほ笑みながら、堂々と言い放った。
「そんなこと、既婚者の貴方がやっていいわけないじゃない!」
「絵里落ち着いて。既婚者じゃなくても、そんな不誠実なことはダメだよ」
身の安全を保障するために、岡本さんの苛立つ気持ちのガス抜きを目的で、こんな発言をしただけ。それなのに、なぜだか華代に否定されると、こっちのやる気が削がれてしまう。
「部長からの愛情は確かに与えられていたけど、向こう側が透けて見えるようなものを与えられ続けていたら、いつか崩壊するのがオチなんですって」
「崩壊するだと?」
(透けて見えそうなモノを、華代に与えたわけじゃない。いったい、どういうことだ?)
「絵里の手で恋するフィルターを外されたおかげで、今まで見えないものが全部明らかになった瞬間、部長の目的は、ただヤリたいだけだっていうのがわかっちゃいました」
「そんなこと――」
首を激しく横に振り、全力で拒否った。
「そんなことあるでしょ! しかも仕事中は、めんどくさい案件をうまいこと言って部下に押しつけて、ご自分は楽な仕事ばかり選んでる」
「…………」
「最初のうちは、そのことを見抜けなかった。テキパキ仕事を捌いて部下に分担して、手際よく仕事をこなしてるふうに見えた。それをカッコイイなって思ってたのに。すごく憧れたのに……」
ふたたび硬い石を踏みしめる音が、足元から聞こえはじめる。
「ハナ、一旦クールダウンしよう。私も相当、頭にきちゃった。冷静にならなきゃ」
「そうだね。それにあそこ見て、絵里」
「ん? キツネ? オオカミ?」
「お腹をすかせた野犬だよ。私たちの様子を、遠くから眺めてるみたい。木に磔にされたエサが食べられるかどうか、見守っているのかもね」
華代のセリフで、悪寒が背筋を一気に駆け抜けた。
「まっ待ってくれ。俺を犬のエサになんて、考えていないだろう?」
「そんなの野犬次第です。絵里、車に戻ってお茶でもしよう!」
「華代、俺が悪かった! 妻と離婚して絶対に結婚するから、見捨てないでくれ! お願いだ‼」
ほかにも華代を引き留める言葉を叫び続けたが、ふたりの気配が遠のき、木々のざわめきが耳に聞こえるだけになってしまった。
「嘘だろ……こんなの、なんで俺が。俺はなにも悪くない。俺を好きだとアピールしてくるのは、いつも女のほうからなのに。俺はそれに応えていただけ」
独特な唸り声と一緒に、草を踏みしめる音が次第に近づいてきた。
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