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(唸り声の感じは一匹。足音も多分そう。草を踏みしめる音に、重量感を感じるということは、それなりの大きさの野犬が近づいてきてるのか?)
恐怖で体が竦みかけたが、上半身を激しく揺さぶることで、鎖に少しでも隙間ができたら、逃げることが可能かもしれない。
「くそっ、こんなところで死んでたまるか!」
上半身だけじゃなく、両手両足や動かせそうな関節すべてを上下左右に動作してみたものの、関節が動かせないように鎖でキッチリ木に括りつけられているせいで、びくともしなかった。
それでも負けじと抵抗を試みる俺の足元で、唸り声をあげた野犬が様子を窺うように、ぐるぐる回りはじめる。
「帰れ帰れ、おまえなんかに食われてたま」
「ワンッ!」
「ヒッ!」
今すぐ攻撃してやるぞと言わんばかりの鳴き声に、情けない悲鳴が口から出てしまった。
「ワンワンッ、ワンッ!」
数回だけ普通に鳴き、俺の周りをゆっくりとした足取りで歩き出す。時折威嚇するためか、唸り声をあげつつも、飛びかかる様子もなく、まるで俺をなにかから守っているような錯覚に陥りそうになった。
「ほ~ら、おまえの獲物は私たちのモノなんだよ~。さっさと寝床にお帰り!」
のん気とも言える華代の声が遠くから聞こえた瞬間、野犬は大きな足音をたてて、どこかに駆けて行った。
「部長よかったですね。野犬に食べられなくて」
野犬と入れ替わりにやって来た華代が、俺の頭を撫でた。
「さっきの野犬、たくさんのヨダレを垂らして、津久野さんの周りをぐるぐる歩いてましたよ。きっとどこから食べたらいいのか、迷っていたのかもしれませんね」
「私の目には、熊に捕られないように守っている感じにも見えたけどね」
「くっ熊だと⁉」
衝撃的な事実に、今までで一番背筋がぞっとした。
「山ですもん、熊くらいいますよ。でも今は夏だから、山の幸があふれているし、滅多にここまで下りてこないだろうなぁ」
「秋だったらよかったのに。そしたら津久野さんは、熊のエサになっていただろうねぇ」
「俺に対する復讐のために、わざわざこんな山奥に連れ込んで、こんな手の込んだことをしでかしたんだろ? もうやめてくれ、これ以上俺を疲弊させたところで、なにも変わらない。俺はめげない男なんだ!」
なけなしの気力を振り絞り、自分がされたことを含めて指摘したら、華代は小さく笑った。
「そうだね。ここでの復讐は終わりにしてあげる。移動しようか、部長」
うなだれた俺の頭を誰かが掴み、強引に上向かせると、口の中になにか突っ込まれ、勢いよく液体が注入された。
「ふぎゅっ!」
あまりの勢いに抵抗むなしく、それを飲み込むしかなくて、むせながら咳き込んだ。
「津久野さん、安心してください。ただの睡眠導入剤です」
「また俺を眠らせるつもりか。ここで俺のメンタルをズタボロにされたせいで、抵抗する気力もないというのに」
「女ふたりで、貴方を移動させるんです。静かに眠っててほしいじゃないですか」
「絵里、帰り支度する前に」
「わかってる。すべては手筈どおりだよ、バッチリ!」
ふたりのはしゃぎ声を聞いている内に、眠りの精に導かれた俺は、あっけなく寝落ちしてしまったのだった。
***
「なにが『めげない男』よ。この人の妻なのが、ものすごく恥ずかしい……」
榊原くんが津久野さんの鎖を外してる傍らで、奥様は眉根を寄せて、頭を抱えながらしゃがみ込んだ。
「ハナ、忘れ物がないようにチェックお願い!」
「はーい。榊原くん、野犬の実演ありがとね。部長ってば、完全に犬だと思って、めちゃくちゃ怯えてたよ」
「見えない分だけ耳に音が入って、嫌でも想像力が働きますから。あ、絵里さん、そのまま鎖を持っててください。俺がいいと言ったら手放してほしいです」
「わかった。いつでもOKだよ」
手際よく荷物を片付けるハナと、津久野さんを背負って山を下りる準備をする榊原くん。それをフォローする私という役割分担をしていた。
ちなみにマンションから出る際は人目を気にして、津久野さんをキャリーケースに入れたけれど、ここではまったく人はいないので、榊原くんが背負って歩くことになってる。
「よし、荷物を全部片付けた。絵里、奥様を促して」
私は無言で親指を立てて了承し、しゃがみ込んだまま苦悩してる奥様の肩を抱き寄せて、ゆっくり立ち上がらせる。なんだか癌宣告された患者の家族をいたわる、看護師の気分だった。
「奥様、ここで立ち止まったままじゃダメです。新事実を含めて、いろいろありましたけど、めげない男をとことん追い詰めるのは、これからですよ!」
頑張ってほしいという願いを込めて、肩をぽんぽん叩いて、奥様にカツを入れた。
「第一ミッションからこんなことになるとは、思いもしなかったわ。岡本さんの言うとおり、これから夫をやっつけなきゃいけないわね。気合を入れ直さなければ……」
駐車している車に向かって先を歩くハナと榊原くんのあとを、奥様を気遣いながら並んで山道を下った。
「その意気です。私もお手伝いします」
「私自身も複雑だけれど、彼女……斎藤さんは大丈夫かしら」
「ハナのことを気遣ってくださり、ありがとうございます」
不倫相手だというのに、ハナの気持ちを慮ってくれることに、胸が熱くなる。
「あんな人だけど、それでも好きになった相手の実態を間近で見て、ショックを受けない人はいないんじゃないかと思って。しかも私の代わりに、進んでこんなことまでしてくれて、かなり心労がたたっているんじゃないかしら」
がっくりと肩を落とした奥様は、目の前を歩くハナに視線を注ぐ。
「津久野さんの本性がわかってから、落ちるところまで落ちて入院して、きっちり気持ちを入れ替えたハナだから、きっと大丈夫です」
私が笑顔で言いきったら、奥様は安心したように小さくほほ笑む。
「岡本さんの友情が、斎藤さんを支えているみたい」
「そうだといいんですけど。あ、そこ、足元に気をつけてください」
木の根が土の上から出ていて、引っかかりそうになったので、奥様の手を取り、躓かないように歩かせた。
「何からなにまで、本当にありがとう。第二ミッションが成功するように、私も頑張るわ」
私が握りしめた手を奥様はぎゅっと握り返し、やってやるぞという気合を見せてくれたおかげで、私も安心して次のミッションに取りかかることができた。