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新妻を地下に落としたガヌロンはひとり嘆息した。
不機嫌さを振りまくガヌロンに、使用人たちは近づこうとしない。
関われば何かしら難癖をつけられ、叱責されるからだ。
何も命令していないのに「それくらい察して動け」と無茶なことを言われる。
ガヌロンの内心など、誰にもわからない。
そもそも「こうして欲しい」などという明確な欲求はガヌロンの中にはない、状況が悪くなる度に癇癪を起こしているだけだ。
わからないなりに先んじて行動すれば「勝手なことをするな」と怒られるのだから、近づかず、関わらず、できるだけ何もしない方がよかった。
一方でガヌロンは自分が使用人たちに馬鹿にされているように感じていた。
腫れ物のように関わることを避けられている。
何かがうまくいかないとき、誰かに笑われているような気がするのだ。
自分を笑う誰かを叱責しようとしてみれば、まるで空を掴むように空振りしてしまう。無理矢理に捕まえると、冤罪だとか言われる。事実冤罪なのだが、ガヌロンの怒りは膨らむばかりである。
そんなことをしているうちに、使用人達はガヌロンのことを心の底で馬鹿にするようになった。
ガヌロンは領主の器ではない。ただの癇癪持ちだ。どうしようもない愚かな男。関わらない方が身のためだが、ピエロのような姿を間近で見るのは面白い。
ガヌロンの内心にあった物語が語らずして使用人達に伝播してしまったのは、皮肉だった。
こうなると、何をするにもうまくいきようがない。
時たま強権を振るい、力で押さえつけてみるが、それすら愚かなる暴君の所業だと影で噂される。
令嬢がヴィドール家にいる間はこのようなことはなかった。
弱く、愚かで、何も出来ない令嬢。
あの地下室の娘に比べれば、ガヌロンは賢い。新妻の憎しみもガヌロンではなく令嬢へ向いていた。使用人たちが馬鹿にできる娯楽も、もちろん令嬢だった。
しかし、令嬢がフリージアに嫁いだことで馬鹿にできる対象がいなくなった。
今更ガヌロンは気づいたが、令嬢は生け贄羊だったのだ。
馬鹿にされ、愚鈍とされる者をいじめることで保たれていた安寧は崩れた。誰かを貶めることで保たれていた物語は、次の生け贄を要求する。
最も弱く、愚かな者を差し出せ。
最初は使用人の中の誰かだったのだろう。だが、この生け贄は交代制だ。一人また一人といじめ、追放していくうちについにガヌロンの番が来た。それだけのことだった。
ガヌロンは慌てて妻を生け贄にした。地下に落とした理由はガヌロンを怒らせたからである。一見もっともらしいが、その理由は表情が気に食わなかったからだ。第三者からしたら言いがかりにしか聞えないだろう。
「お父様、なぜお母様を地下に送られたの?」
娘、アンナが恐怖に怯えながらそんなことを言う。
やめろ。
やめろやめろやめろ。
これではまるで、俺が悪いかのようではないか。
ガヌロンは答えない。
自分の行動に正しさなど微塵もないと理解しているからだ。
これまでアンナが手出しをされなかったのは、アンナに危害が及びそうになる度、新妻が怒っていたからだ。
しかし、もうここに優しいママはいない。
地下にいるのは無力で愚かな生け贄羊だ。
誰もお前を守らない。
「やめて、やめてやめて。なぜ、なぜこんなことをするの!?」
跪き、右頬を腫らし、涙を流す娘を見て。ガヌロンは困惑した。
俺はこの娘を愛していたはずだ。妻だって愛していたはずだ。
俺は何をしている?
こんなことが俺の望みだったのか?
凍り付いた記憶がちらつく。
前にも似たようなことがあった。
あの日、もっとも信用していた使用人に強く叱責された。
誰かに正面から怒られるなど人生で幾度あったか、驚くべき経験だった。
こいつは何を言っている? なぜ俺に優しくしない?
モーリス、俺はお前を大切に思っていたのに、なぜ!!
激高し儀礼用のナイフでモーリスを殺した後、モーリスの言葉が正しかったことに気づく。至極まっとうなことを言っていただけだ。
それがどんな言葉かは思い出すことができないが、確かにその時は納得したのだ。
血に溺れるモーリスが語りかける。
こちらの目をみて、すべての感情を言の葉にのせる。
『ぼっちゃん、私はあなたを……愛していま』
やめろ。
やめろやめろやめろ。
知らない、そんなことは知らない。
そのようなことはなかった。
ガヌロンは砕けそうになった心を押さえつける。
凍てつく心はボロボロで、今にも砕け散りそうだ。
いや、違う。もう砕けている。
砕けた心を凍らせてどうにか形を保っているだけだ。
砕けていないと言い張っているだけだ。
それでも思い出すわけにはいかない。
この心が溶け出せば、認めなければならなくなる。
それが何かはわからないが、わからないからこそ受け入れたくない。
それはきっととても冷たく、恐ろしいものだからだ。
故にガヌロンは愛を受け取ることができない。
その熱は氷を溶かし、見たくないものを見せつけてくる。
それは氷の呪い。
無自覚に自分にとって都合の悪い記憶を凍らせ、忘却する。自縄自縛の病。
こことは異なる別の世界では防衛機制と呼ばれる。
受け入れがたい苦痛にさらされた時に、不安を減弱させる心の働きが、どうしようもなく悪化したもの。
自らを呪い続ける、負の永久機関である。