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俺と菊との出会いは、今から6年ほど前に遡る。
俺は当時15歳。進路に悩みに悩んでいる中学3年生だった。周りを見れば、あるクラスメートは、エンジニアになりたいからと工業高校を目指し、またあるクラスメートは、ソウル大に行きたいからと自立型私立高校を目指し……将来が全く決まってないのは、せいぜい俺ぐらいだった。
世間から底辺の人間として見られるのは、勿論厭に決まっている。しかし、だからといって、高みを目指し競い合うのも、疲れてしまう。それ以前に……なりたい職業も、叶えたい夢も、俺には何一つ無い。
嗚呼……つくづく俺って、つまらない人間だなぁ……そう思いながら今日も放課後に向かうのは、ソウル市民の憩いの場・漢江公園。緑に縁取られた漢江の雄大な流れは、束の間であれ、心に巣食う憂鬱を和らげてくれる。
「…………?」
ふとベンチを見ると、一人の若い男が、座って静かに本を読んでいた。そいつは男らしからぬ、綺麗な顔をしていたが……この辺りでは見かけない顔だ。
「…………」
一体何を読んでいるのだろう……少し気になった俺は、気付かれない範囲で、徐ろに近付いてみることにした。端から見て、なるべく自然な動作で。
「……!」
男が読んでいたのは、なんと日本語の本。俺は生粋の韓国人だから、日本語の読み方は全く分からないけれど……使われている文字などで、日本語の文だというのは分かった。
よく見ると、日本語で綴られた文の隣に、シャーペンでハングルの文章が書き足されている。ひょっとしたら、この男は……日本からの留学生だろうか。
暫くして、男がふと顔を上げた。俺は不味いと思い、すぐに視線をそらせたが…………
「당신, 방금 전까지……나를 보고 있었지?」
(貴方、さっきまで……私のこと見てたでしょう?)
気付かれてた。終わった。
*
「み……ミアネヨ。ちょっとお前のことが、気になったから……」
「それは私が……韓国人に見えないからですか?」
「そ、そういうあれじゃ……でも、見かけない顔だったもんだから……」
「…………」
「…………」
漂う沈黙。疑いの眼差し。これは不味い。非常に不味い。
この空気、どうにか打開しなければ。
「な、なぁ……お前」
「…………何ですか?」
「えっと、その……何処から来たんだぜ?」
「……言わなきゃいけませんか?」
「だ……だって、知りたいから……言っただろ、見かけない顔だから気になったって……」
「…………」
すると男は、俺の顔を暫し見つめた後、渋々とこう答えた。
「……日本、です」
「ああ、日本か。だから日本語の本読んでたんだな」
俺がそう答えると、今度は男の方が驚きと戸惑いの表情を見せた。
「い……厭じゃないんですか?貴方からしたら、日本人なんて、いけ好かない存在でしょうに……」
「別に?俺はそうは思わないんだぜ」
「っ、え……」
「この国に興味があったから、日本からはるばる来てくれたんだろ?そんな奴を誰が否定するんだよ?少なくとも俺は、お前を馬鹿にしようだなんて、微塵も思ってないんだぜ」
「…………」
「確かに色々あるんだぜ、日本と韓国は。でも俺は反日だとか嫌韓だとか、そういうのはつくづくくだらないって思ってるから……過去のことで恨み合うよりも、その先を見る方が大事だって思ってるから……だから寧ろ、来てくれて嬉しいんだぜ」
そこまで言って、男の顔を再び見ると…………男は静かに泣いていた。
「……っけ、ケンチャナ?何か悪いこと言っちゃったなら、ミアネヨ……!」
「いえ…………寧ろ、ほっとして…………っ」
「…………ほっと?」
「ええ…………ずっと、不安だったので…………」
*
聞けば男は1週間ほど前に、留学のため韓国・ソウルを訪れたという。しかし……異国の空気に馴れないことに加え、予てより政治的に日本との関係がよろしくない中での訪韓だったため、現地の学生と交流することも怖くて……そのため、常に一人でいたという。
「このまま何も学べずに、何も楽しめずに、留学生活が終わってしまうのかと思ってたんで…………だから肯定してくれる現地の方がいて、救われました…………本当に有り難う御座います…………そして、さっきは不快な態度を取ってしまって、すみませんでした…………」
咽びながら深々と頭を下げる男に、俺は慌てて声を掛けた。
「そんな、そもそもは俺が不躾なのが原因だから…………でも、お前の心を救えたんなら、良かったんだぜ」
「っ…………ぐす…………」
男は鼻を啜り、目を拭ってから、漸く顔を上げた。当然、泣いたので目元や鼻が真っ赤だが……それでも凄く、綺麗な顔をしていた。
「…………なぁ、お前」
「…………っ、はい」
「その、お前が良ければ……カトクのアカウント、交換するか?困った時とか相談に乗れるし、気軽に雑談も出来るから……」
「…………良いんですか?」
「ああ。折角こうして出会ったんだ、今日からお前とは友達なんだぜ」
「チング…………」
男の黒い瞳が、忽ち黒曜石のごとく煌めく。俺はそんな男の手を握って「これから宜しくなんだぜ」と言うと、「……宜しくお願いします」と返してくれた。
「そうだお前、名前は?」
「……本田菊です」
「菊……か、良い名前だな。俺は任勇洙。ヨンスって呼んで欲しいんだぜ」
「分かりました……ヨンスさん」
さっきとうってかわって微笑む男──菊に、俺も笑顔を返す。
そして漢江は、相変わらず雄大な流れで……俺達のささやかな出会いを、見守ってくれていた。