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石造りの大学に夏の陽射しが反射し、白壁は眩しく光を放っていた。
石畳は熱を帯び、歩くたびに靴底からじりじり とした痛みが伝わる。
解剖学の実習室。
漂うホルマリンの匂いが鼻を突き、鉄の器具が光を反射する。
石の解剖台の上には、薄く皮を剥かれた動物の標本が並び、手に触れるとひんやり冷たい。
日本は手にメスを握るが、指が震え、手のひらにじわりと汗が滲む。
「……無理かもしれない……」
喉の奥から零れた声は、誰にも届かないはずだった。
その時、背後から大きな手がそっと重なる。
ぴくりと跳ねる体をよそに、青い瞳が真剣に揺れ、低く静かな声が響いた。
「メスを強く握りすぎだ。力を抜け」
抑揚のない毅然とした声なはずなのに、柔らかく胸に届いた。
視線を上げると、背丈のある青年が立っている。
見知らぬ顔。
けれど青い光が、どこか安心感を伴って日本を射抜いた。
その瞬間、胸の奥が小さく跳ね、頬に熱が広がっていた。
――初めて会ったはずなのに、なぜこんなにも。
昼休み、中庭。
蝉の声が木々の間に響き、木陰に学生たちが集まっていた。
日本はそっと彼のもとに歩み寄る。
「……先ほどは、ありがとうございました。おかげで、授業を続けられました」
ぎこちないドイツ語で言う日本に、彼は少し驚いたように瞬きをした。
「ならよかった。……昼はもう済ませたか?よかったら一緒にどうだ」
差し出されたカップから立ち上る湯気。
「夏に……熱いものを?」と戸惑うと、不思議そうな顔で見つめられた。
「ここでは普通だ。冷たいのは体を壊すと言われているからな。」
「君の国では違うのか?」
今まで自国に閉じこもっていた日本にとって、初めて異文化の違いに触れた瞬間。
小さな違いでも、大きな成長に感じられた。
「……そうですね。私の国では、暑い時は冷たいものを」
小さなやり取りでも、距離が少しずつ溶けていくようだった。
「そう言えば、名前はなんて言うんだ?」
ドイツが口を開く。
「あ、日本と申します…!」
「そうか。俺はドイツ。よろしくな」
ドイツさん…ドイツさん…
心の中で何度も名前を呼ぶ。
その音が響けば響くほど、“なにか”がじわじわと広がっていく気がした。
ーーー
「日本は留学生だろ?何か困ってることはないか」
「慣れないことばかりで大変だろうから、分からないところがあれば聞いてくれ」
「あ、えっと…出会ったばかりでこんなこと言うのはおこがましいのですが…」
「昨日、次の実習に備えて復習をしている途中、どうしても分からないところがありまして…」
足元の影を見つめながら、繋いだ手の中で、親指をそっとくるくると回す。
伏せたままの目を彼に向けると、ほんの少しだけやわらいだ口元が視界に映った。
「今、復習に使った資料は持っているか?」
「も、持ってます」
教科書に挟んでいた資料を取り出し、こちらです、と折り目を解く。
「少し見せてくれ」
指先が紙の上で重なりそうになる。
わずかに触れた瞬間、日本の胸が熱く跳ねた。
「……」
「あ、あの、どいつさん…?」
声は掠れ、震えている。
「ーーなるほどな。日本の手が止まったのはここだろ」
「!そうです!でも、どうして…?」
「ここは自国の人間でも難解だと感じる問題だからな。」
「俺も1分間悩んでしまった部分だ」
いっぷん…??
さらっとした爆弾発言に、背後に宇宙が広がっている気がした。
「日本、まずこの問題は何を聞いてるのか分かるか?」
「えっと、肝臓の血流を促す薬草の作用…についてですよね…?」
「あぁ、その通りだ」
「肝臓の血流を促進する作用がある薬草は何か。そして、どの構造に作用するか――」
日本は眉を寄せ、唇を噛む。
すると、ドイツが横から小さく声をかけた。
「この薬草は古来、血を巡らせる作用で知られている。肝臓の血管網に影響するはずだ」
日本はうなずき、少し考える。
「……なるほど、肝臓の中心の門脈や肝動脈に関わるんですね」
青い瞳が柔らかく揺れ、少し細まる。
「よくできたな。正解だ」
そして、日本は思いついたように口を開いた。
「じゃあ、この作用は……薬草のよもぎと似ているってことですか!」
急な発言にドイツは驚き、目を丸くする。
「*yomogi*…はよく分からないが…まぁそういうことだ」
「それにしても、そっちの国でも同じような作用の薬草があるんだな」
「また今度、俺にも教えてくれ」
柔らかく、でも確かに響く声。
日本の胸は跳ね、頬が熱を帯びる。
「も、もちろんです……!」
息を整えるように、小さく頷く。
視線をそらさずに、紙に重なる指先に注意を向けた。
熱が伝わってしまうほどに触れそうな距離。
早まる心臓の鼓動が、妙にうるさかった。
赤みを帯びた空が広がる頃。
空気の澄んだ静けさが夕暮れの時間を引き伸ばしているようだった。
大学の門を出ると、夏の湿った風が頬にまとわりつく。
「今日も暑かったな」
隣で響く声に、日本は頷く。
触れたい、でも触れられない。
息が届く距離で、心は焦れ焦れにかき乱される。
――あと少し、あと少しで。
けれど足は並んだまま、歩み続ける。
⸻
それでも。
小さな言葉、重なる視線、触れかけては逸れる指先。
ひとつひとつが、確かに二人の距離を変えていく。
夏の光に照らされ、触れられぬ距離の中で想いは静かに育ち始めていた。
(続く)