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【現実世界・湾岸エリア/倉庫街】
夕暮れが落ちきる直前の時間帯だった。
港のクレーンが黒い影だけになり、
オレンジの残光がコンテナの縁を薄く縁取っている。
木崎の倉庫の前。
軽バンの後部ドアが開け放たれ、
その中央に黒い耐衝撃ケースが一つ、置かれていた。
五つのカプセルが眠るケース。
その蓋には、さっきハレルが描いた小さな矢印――
“コアが指している方角”を示す印が、まだくっきり残っている。
「いいか、確認するぞ」
木崎が、紙袋を肩にかけ直しながら言った。
紙袋の中には、コアを隠すための古い書類束や雑誌が詰め込まれている。
「ケースはバンの荷台のど真ん中。
その上から、このガラクタで完全に隠す。
オルタリンクタワーの近くまで行って、“どのくらい引きが強くなるか”だけ測る。
それ以上、突っ込む気はない」
「はい」
ハレルは、ネックレスに一度だけ触れてから頷いた。
「サキは――」
「助手席で“見張り”でしょ?」
サキが先に言った。
「外の様子を見る係。荷台には近づかない。
変な感じがしたらすぐ言う。……でしょ?」
木崎が苦笑する。
「よくわかってきたな。
いいか、絶対に一人で降りるなよ」
「うん」
三人は段取り通りに動いた。
ケースを軽バンの荷台に載せ、古い段ボールと紙袋で覆い隠す。
外見だけ見れば、ただのガラクタ運搬車だ。
最後に、ハレルがケースに一瞬だけ手を置いた。
青、琥珀、桃色、薄緑、透明の光が、フタ越しにぼんやりと脈を打つ。
(……行こう)
ハレルはドアを閉め、運転席側へ回った。
エンジンがかかる。
静かな四気筒の音。
湾岸道路へ向けて、軽バンはゆっくりと滑り出した。
◆ ◆ ◆
湾岸道路は思ったより空いていた。
片側二車線の道。
右側には海とコンテナヤード、左側には倉庫と工場の影が続く。
助手席のサキが、フロントガラス越しに遠くの街を見つめていた。
「……あれだよね、多分」
前方、まだ遠く。
ビル群の中でひときわ高く、ガラスの塔が夕闇を反射している。
オルタリンクタワー。
ニュースで見たままの姿だが、実物はもっと冷たく見えた。
「派手だな」
木崎がぼそっと言う。
「中身は地味にえげつない可能性が高いが」
ハレルはバックミラー越しに、荷台を一瞬見る。
もちろん、ガラクタの山しか見えない。
だが――感じる。
(向こうを、見てる)
荷台の中から、矢印がずっと同じ方角を指し続けている感覚。
ネックレスも、さっきからじりじりと熱を増していた。
信号が赤に変わる。
車が停止した瞬間――
ぱちっ。
フロントガラスの外の街灯が、一瞬だけ暗くなった。
「……今、消えた?」
サキが眉をひそめる。
すぐに灯りは戻る。
だが、何かがおかしい。
次の瞬間。
軽バンのメーター類が、いっせいに点滅した。
「え」
デジタル表示が乱れ、針が震え、
ラジオからノイズがほとばしる。
「おいおいおい……」
木崎が慌ててハンドルを握り直す。
エンジン音が一瞬、途切れかけ――すぐに持ち直した。
「車の故障……?」
サキが言いかけた時だった。
――コツ。
荷台の方から、何かが軽くぶつかる音がした。
コツ、コツ、と規則的に。
まるで、内側から“叩いている”みたいに。
「……今の、聞こえた?」
「聞こえた」
ハレルは答えながら、バックミラーを凝視する。
暗がりの奥、ガラクタの隙間から――白っぽい光が、わずかに漏れていた。
「まずいな」
木崎の声が低くなる。
「ここで騒ぎになると目立つ。
少しルートを変える」
信号が青に変わる。
軽バンは大通りを外れ、一本裏の旧街路へ滑り込んだ。
工場と倉庫の隙間を縫うような細い道。
街灯もまばらで、人通りはほとんどない。
「……さっきより、音、遠くなった」
サキが小さく言う。
確かに、荷台からの“叩く音”は弱まっていた。
代わりに――別の音が近づいていた。
ざり……ざり……。
タイヤが路面をこする音とは違う。
乾いた石を爪で引っかくような、嫌な音。
「木崎さん、スピード落ちてます」
「落としてる」
エンジンは動いているのに、前に進む感覚が薄い。
まるで、空気そのものが重くなったみたいに。
ざり……ざり……。
今度は、左右の壁からも聞こえ始めた。
「……境界だ」
ハレルは、ネックレスの熱でわかった。
海の方で感じた“ズレ”とは違う。
もっと刺さるような、鋭い揺れ。
「一回、止める」
木崎が車を路肩に寄せ、ブレーキを踏んだ。
エンジンを切ると、周囲の音が急に大きくなる。
遠くの工場の稼働音。
海鳥の鳴き声。
そして――
ざりっ。
すぐそばで、何かがコンクリートを引っかく音。
サキが小さく悲鳴を飲み込んだ。
フロントガラスの外。
細い路地の真ん中に、黒い“割れ目”が走っていた。
アスファルトにできた亀裂。
にしては、色が濃すぎる。
光を吸い込むような黒。
ひびは、じわりと広がっていく。
縁から、小さな黒い粉のようなものがぽろぽろと落ち――
その粉が、重力を無視して空中に浮かんだ。
「降りるな」
木崎の声が鋭くなる。
「鍵、持ってるか?」
「はい」
ハレルは、ネックレスを握りしめた。
胸の奥が勝手に早くなる。
ひびが、音を立てて裂けた。
バキィッ。
乾いた音と共に、黒い“縦線”が路面から天井へ伸びる。
壁も空気も、そこだけ真っ二つに割れたみたいに。
中は――真っ黒ではなかった。
薄い霧と、数字みたいな光の粒が舞っている。
そこから、一歩。
真っ黒な靴が、路面に降りた。
「――やっと、こっちに出れた」
軽い女の声が、夜気を裂いた。
霧の裂け目から現れたのは、細身の人影だった。
黒いパーカーに短いスカート。
首元を隠す黒いスカーフ。
肩までの髪が、薄い街灯の光を反射する。
葛原レア。
あの日、豪華客船《オルフェウス号》で血だらけの事件を起こし、
そのまま“向こう側”に消えた女。
「……レア」
ハレルの喉が、勝手に名前を漏らした。
レアは、軽バンを見てにやりと笑った。
「やっほー、雲賀くん。
久しぶり。元気してた?」
その言い方だけは、妙に日常的だった。
けれど、背後の裂け目から漏れる黒い霧が、
ここが“普通じゃない”ことをはっきりと教えてくる。
木崎が小さく呟いた。
「……最悪だな」
「ふふん、覚えててくれて光栄」
レアは軽く片手を振った。
「あの船ぶりかな。途中でヘマしてねぇ。
でも、そのおかげで、向こうのボスに拾われちゃったんだよね~」
ボス。
言わなくても誰のことか、わかってしまう。
カシウス。
「でさぁ――」
レアの視線が、ふっと荷台の方向へ滑った。
「持ってるでしょ? “あれ”」
ハレルの胃がきゅっと縮んだ。
「……渡さない」
そう言った瞬間、レアの笑顔の温度が一段階下がった。
「そ。話が早いね。
でも、こっちも時間ないんだよね――」
指先が、ひらりと動いた。
黒いスカーフの端から、細い“糸”が走る。
とても細いのに、空気を切り裂く音だけがやたらはっきり聞こえた。
ビュッ。
次の瞬間、街灯が二本、同時にふっと消えた。
切断されたみたいに、首の部分から火花を散らしながら。
「一般人には、“変な停電”くらいにしか見えないから安心して。
あ、でも――君たちは別ね」
レアが笑った。
「君たちだけちゃんと、“本当のもの”が見えるようにしといたから」
ハレルはドアを開け、外に飛び出した。
「兄ちゃん!?」
サキが叫ぶ。
「サキは車から出るな!」
振り返らないまま叫ぶ。
「木崎さん、荷台を守ってください!」
「守るに決まってんだろ!」
木崎もドアを開け、車体を盾にするように降り立つ。
腰には、護身用の伸縮警棒。
元刑事の癖は、簡単には抜けない。
路地の真ん中。
レアが、退屈そうに片足でコンクリートを小突いた。
その足元で、黒いひびがまたひとつ広がる。
「ねぇ、雲賀くん。
君たち、自分が今どこに向かってるか、わかってる?」
「……知ってる」
ハレルはネックレスを握った。
「でも、それはお前に教えることじゃない」
レアは「はぁ」と長くため息をつくふりをした。
「そういうとこ、好きだよ。
ボスも、“鍵持ちの子は扱いづらい”って笑ってた。
だからさ――」
黒い糸が、再び指先から伸びた。
今度は地面から。
アスファルトの影が、蛇のように持ち上がる。
「ケースごと、さっくり持ってっちゃうね?」
◆ ◆ ◆
影が、車の下へ滑り込んだ。
木崎がすぐに気づき、警棒で地面を叩きつける。
金属の音と一緒に、影の一部が弾け飛んだ。
「ちっ……!」
レアが舌打ちする。
「元刑事って、やっぱ反応いいよねぇ」
だが影は、一つではない。
車の左右から、後ろから、
黒い筋が何本も走る。
車体の下から、
荷台の隙間から――
ケースの中で、コアが一斉に強く光った。
「ハレル!」
木崎の叫びと同時に、後部ドアが内側から弾けた。
ガラクタの中から、青白い光が飛び出してくる。
「……っ!」
ハレルは反射的に手を伸ばした。
ケースそのものが跳ねたわけじゃない。
中のカプセルの一つ――
透明に近い白のカプセルが、ふわりと宙に浮かび上がっていた。
ラベルが塗りつぶされた、名前のないコア。
それは、荷台から“光だけ”抜け出したみたいに、
影に引かれて路地の中央へ滑っていく。
「渡すな!」
ハレルが飛び出す。
ネックレスが熱を持ち、
目の前の空気が一瞬だけ厚くなった。
指先が、コアに触れかける――
その前に、黒い糸が横から走った。
ビュッ。
糸がカプセルを巻き取り、レアの手元に引き寄せた。
「――一つでいいや」
レアの手のひらに、白い光が収まる。
中の光が、苦しそうに揺れた。
「やめろ!」
ハレルの怒鳴り声が路地に響く。
レアは、ほんの一瞬だけ真面目な顔をした。
「ごめんね。
これだけは、こっちでも“どうしても欲しい”んだ」
「そのコアは――!」
何者かわからない。
だからこそ、一番危険だ。
「返せ!」
ハレルが一歩踏み込もうとした瞬間――
足元から、影がせり上がった。
黒い杭のような影が、膝の高さまで一気に伸びる。
バランスを崩し、ハレルの体が前のめりになった。
「ハレル!」
木崎が駆け寄る。
だが、その一瞬の遅れが致命的だった。
レアの背後の裂け目が、再び開き始める。
「今日はね、“挨拶”だけ。
次は、もっと大事なものをもらいに行くから」
レアは白いカプセルを胸に当て、
軽く頭を下げるような仕草をした。
「じゃあね、雲賀くん。
塔の下で、また会おうね」
黒い霧が、一気に噴き上がる。
路地の空気が一瞬、真空になったみたいに音を失い――
次の瞬間、ひびも霧も、人影も、跡形もなく消えた。
◆ ◆ ◆
沈黙が落ちた。
遠くから、工場の機械音が戻ってくる。
海鳥の鳴き声も戻ってくる。
ただ、路面に残った薄い焦げ跡だけが、
さっきまでの“何か”を証明していた。
「……くそっ!」
木崎が地面を殴った。
「あの速さ……完全に“現実対応”してやがる」
ハレルは、立ち上がりながら荷台を振り返る。
ケースはまだそこにある。
ガラクタも崩れてはいるが、大きな損壊はない。
ハレルは震える指でロックを外し、フタを開けた。
青、琥珀、桃色、薄緑――四つの光。
そして。
「……一つ、ない」
透明に近い白のコア。
名前を消されたID-05だけが、完全に消えていた。
サキが、蒼白な顔で車から降りてくる。
「今の……女の人……
船に、いた……」
「大丈夫か、サキ」
木崎が息を整えながら支える。
「う、うん……怖かったけど……
でも、ちゃんと見えた。あの人」
ハレルは、ケースの縁を強く握りしめた。
(名前もわからないコアを――
真っ先に狙ってきた)
偶然じゃない。
明確に“それ”を狙っていた。
「……追いきれなかった」
ハレルは、歯を食いしばりながら言う。
「でも、どこに行くかは――わかる」
オルタリンクタワー。
そして、その地下に広がるデータ層。
「カシウスは、あのタワーを“器の座標”にする気だ。
――コアを使って」
ネックレスが、胸の下で脈を打つ。
まだ四つ、残っている。
だが、一つ失われた今、
その重さは何倍にも増していた。