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君はペット~あべさく編~
夜、研究室帰り。
無機質なアスファルトの匂いが、雨上がりの空気に混じっていた。
マンションのエントランスまで来たところで、妙な違和感に気づく。
ドアの脇に置かれた段ボール。
中で小さく縮こまっている人影。
「……は?」
思わず足を止めた。
疲れているから幻でも見ているのかと思ったけど、違った。
ちゃんと、呼吸してる。ちゃんと、人間だ。
「……おい」
声をかけると、青年がうっすら目を開けた。
力のない目。けれど、どこか必死な目。
「……お願いです……泊めて……」
そんな弱々しい頼み方されたら、無視できるわけがない。
________________________________________
部屋に連れてきて、シャワーを浴びさせ、温かいラーメンを食べさせた。
その間、俺はずっと頭を抱えていた。
なんで、こんなことに。
でも、放っておけなかったのは、間違いない。
カップ麺をすすり終えた佐久間――そう名乗った青年が、もじもじしながらこちらを見た。
「……あの」
「ん?」
俺が目を向けると、佐久間はこたつから半分だけ顔を出して、真剣な顔で言った。
「俺……ペットにしてください」
「……は?」
聞き間違いかと思った。
でも佐久間は、真顔で続ける。
「ここに置いてもらう代わりに、俺、ちゃんと言うこと聞きます。癒やしにもなります。だから……お願いします」
言葉を選びながら、必死に、でもまっすぐに。
思わず、口を閉じた。
……何だよそれ。
そんな必死に頼むもんか?
俺は思った。
でも、無理やり笑った。
「……ペット、ね。まあ、変なやつ拾ったな」
「ダメですか?」
「……いや」
ちょっとだけ考えて、首を横に振る。
俺だって、人恋しかった。
誰かに必要とされるのが、まったく嫌じゃなかった。
「……いいよ。しばらく、うちにいろ」
佐久間は、ぱっと顔を明るくした。
まるで子犬みたいだ。
「ペットなら、名前もいるかな……」
軽口のつもりで言った。
何がいいか。ふと、テーブルに転がった雑誌の桃の写真を見て思いつく。
「モモとか、どう?」
でも、佐久間はすぐに小さく首を振った。
「……やだ。佐久間でいていいですか」
じ、自分からペットになりたいって言ってたのに!?
俺は少しうろたえた。
でも、その声には、さっきまでと違う重さがあった。
――俺は、俺でいたい。
そんな風に聞こえた。
「……わかったよ」
俺は缶ビールを開けながら、笑った。
「佐久間は、佐久間だ。……好きにして」
その瞬間、佐久間は、心底ホッとしたような顔をした。
何だよ、そんな顔。
そんなもん見せられたら、俺、これから先たぶん――甘やかすしかないじゃんか。
ソファに身を沈めながら、そんなことをぼんやり思った。
「で?佐久間、何であんなとこに――」
「……名前は?」
言葉をさえぎられて、少し驚く。
佐久間は、真っ直ぐな目でこちらを見ていた。
「……阿部亮平」
一瞬迷ったけど、嘘ついてもしょうがないと思って素直に答えた。
すると、佐久間はぱっと笑った。
「じゃあ、阿部ちゃんだ」
「……は?」
戸惑う俺をよそに、佐久間はこたつの中でゴロゴロ転がりながら、ニコニコしている。
なんなんだこいつ。
妙に人懐っこい。
「勝手にあだ名つけんな」
軽く睨むと、佐久間は肩をすくめた。
「いいじゃん。親しみ込めて」
「いや、そういう問題じゃ――」
言いかけて、やめた。
なんだか真面目にツッコミ入れるだけ無駄な気がした。
ため息をひとつ吐き出して、ソファに深く座り込む。
これから俺は、この“佐久間”に、少しずつ生活を侵食されていくのだろうか。
―――――――――――
朝。
目覚ましもかけてないのに、いい匂いで目が覚めた。
……なんだこれ。
布団の中でぼんやりしながら、鼻をひくひく動かす。
味噌汁の匂い。あと、焼き魚の匂いもする。
まさか、と思いながら体を起こしてリビングに行くと――
「おはよ、阿部ちゃん」
こたつに寝転がってたはずの佐久間が、エプロン姿でキッチンに立っていた。
「……は?」
寝ぼけた声が出る。
けど、佐久間は楽しそうに菜箸を動かしながら、フライパンで卵焼きをひっくり返した。
「朝ごはん、作ってる」
「いや、なんで……」
聞きながら、ソファにどさっと座る。
「だって、昨日言ったじゃん。ペットとして癒やしになるって」
「いや、癒やしって……家事全般込みなの?」
「うん。癒やしの一環!」
めちゃくちゃいい笑顔で答えられて、反論する気が失せた。
気づけば、炊飯器からはふっくら炊きたてのごはんの香りがして、
テーブルには湯気の立つ味噌汁と、焦げ目のついた焼き鮭と、甘そうな卵焼きが並べられていく。
完璧じゃん。
俺、一人暮らし始めてからこんなちゃんとした朝飯食ったことなかったのに。
「……これ、全部佐久間が?」
「うん」
にこっと笑う。
「……やば」
思わず漏れた本音に、佐久間は嬉しそうに笑った。
「ほら、食べよ。冷める前に!」
そう言って、俺の前に茶碗と箸を並べる。
ペット、っていうには出来すぎだろ、こいつ。
でも、こんな朝悪くないな――と、素直に思った。
「……いただきます」
小さく呟いて、箸を取った。
まずは、目の前の卵焼きに手を伸ばす。
ふわふわで、いい感じの焼き色。
見た目は、完璧だった。
ぱくっと一口、口に入れた瞬間――
「……ぶっ」
思わず吹き出した。
「えっ!?」
佐久間が慌ててこっちを向く。
「な、なに!?ダメだった!?」
「……いや、違う……ちょっと……」
必死に笑いを堪えながら、喉に詰まらせた甘さをどうにか流し込む。
「……甘すぎんだろ、これ!」
「えっ、甘い方が美味しくない!?卵焼きって!」
目を丸くする佐久間に、思わずまた吹き出した。
「どんだけ砂糖入れたんだよ……」
「結構!癒やしだから!」
「癒やしの暴力かよ……」
呆れながらも、つい笑ってしまう。
朝からこんなふうに笑うの、久しぶりだった。
「……まあ、元気出たわ。ありがとな」
缶コーヒーをひと口飲んで、立ち上がる。
「行ってくる」
鞄を肩に引っかけながら言うと、佐久間がこたつからひょこっと顔を出して、
「いってらっしゃい、阿部ちゃん!」
元気に手を振ってくれた。
「……ああ」
口元が自然と緩むのを止められなかった。
少し寒い朝の空気の中、
歩きながら、ふわふわ甘ったるい卵焼きの後味を思い出して、ふっと笑った。
なんか今日、悪くないかもな。
そんなことを思いながら、俺はいつもの道を歩き出した。
―――――――――
研究室に着いて、白衣に袖を通す。
カチャカチャとパソコンを立ち上げ、今日やるべきタスクを整理した。
「じゃあ、岡田と三宅、こっち手伝ってくれる? そっちはデータまとめ頼む」
手早く指示を出して、それぞれに役割を振る。
いつも通り。
スムーズに、無駄なく。
そのはずだった。
でも、ふとプリントを取りに隣の部屋へ向かう途中、
扉の向こうから聞こえた小さな声に、思わず足が止まった。
「阿部先輩って、優しいけど……さ、なんかこう……真面目すぎて、つまんないよね」
「うん、わかる。話しててもインテリって感じしかしない」
「いい人だけど、面白みないっていうか~」
笑い声が、弾けた。
ドクン、と心臓が鳴る。
一瞬、体が強張ったけど、
すぐに無理やり笑って、扉に背を向けた。
(……別に、今に始まったことじゃない)
頭の中で、静かに呟く。
(インテリで真面目で、面白くない人――そんなの、昔から言われ慣れてる)
大学でも、高校でも、きっと中学のころからも。
ずっと、そんなふうに見られてきた。
だから、今さら。
大丈夫、大丈夫。
気にしない。
気にしないって、決めたじゃないか。
息を吐いて、プリントを手に取り、無表情に研究室へ戻った。
パソコンのモニターが静かに光っている。
画面を見つめながら、指を動かし続けた。
それでも。
さっきの言葉の棘だけは、
小さく、小さく、胸のどこかに引っかかっていた。
―――――――――
家に帰り着いたのは、いつもより少し遅い時間だった。
玄関のドアを開けると、
こたつからぴょこんと顔を出した佐久間が、元気な声で出迎える。
「おかえり、阿部ちゃん!」
「……ただいま」
靴を脱いでリビングに上がると、
ふわっと漂ってくる、今日の晩ごはんの匂い。
カレーらしい、甘くてスパイシーな香りだった。
「ごはん、できてるよ。すぐ食べる?」
「……うん、あとで」
返事をしながら、ソファにどさっと座る。
鞄を置いて、ネクタイを緩める。
なんとなく、動きが鈍かった。
そんな俺を、佐久間はじっと見ていた。
こたつの向こうから、丸い目で。
「……阿部ちゃん、なんかあった?」
その一言に、ドキリとする。
「別に」
「ウソだ」
即答された。
「顔に出てる」
「出てない」
「出てる」
会話のラリーの速さに、思わず小さく笑ってしまった。
でも佐久間は、にこにこしてるくせに、目だけは真剣だった。
こいつ、ちゃんと見てるんだな。
ちゃんと、俺のこと。
それが、なんか少しだけ、胸に沁みた。
「……ちょっと、研究室で、」
ぽつりと漏らす。
「……まあ、悪口、聞いちゃって。インテリで真面目すぎてつまんないって」
あくまで軽い調子で言ったつもりだった。
でも、佐久間の顔がふっと曇ったのを、俺は見逃さなかった。
「そんなの、誰が言ってたか知らないけど」
佐久間は、ぐいっと身を乗り出す。
「俺は、阿部ちゃんのそういうとこ、超好きだから」
「……は?」
「真面目だし、頭いいし、優しいし、……ちょっと頑固なとこもあるけど、そこも含めて、全部好き」
バカみたいにまっすぐな声だった。
照れも、迷いも、なかった。
「阿部ちゃんは、阿部ちゃんのままでいいよ」
そう言って、にかっと笑う佐久間に、
不意に、視界がぼやけた気がした。
(なんだよ、こいつ)
(……ちょっと、ズルいだろ)
ぐっと瞬きをして、にやりと笑い返す。
「……ありがとな、佐久間。…でも俺の事あんまり知らないだろ」
「むーーーー!!!これから知ってくし阿部ちゃんの雰囲気見てたら分かるもん!」
ぽん、と、そばにあった佐久間の頭を軽く撫でた。
ふわふわの髪が、指先に絡む。
「カレー、食べよ。俺、めちゃくちゃお腹空いた」
「うん!」
嬉しそうに立ち上がった佐久間を見ながら、
ふっと心がほどけていくのを感じた。
――大丈夫。
俺には、ちゃんとわかってくれるやつがいる。
それだけで、明日もまた頑張れる気がした。
「あっつ……でもうまっ!」
カレーを一口頬張った佐久間が、にっこり笑う。
大きめに切られたじゃがいもとにんじん。素朴だけど、ちゃんと手間のかかった味がした。
「うまいな、これ」
素直にそう言うと、佐久間はめっちゃ嬉しそうに顔を輝かせた。
「だろ~!? 阿部ちゃんが帰ってくるって思って、張り切って作ったから!」
「張り切りすぎだろ。めっちゃ量あるぞ」
「まあ、食べきれなかったら明日また食べればいいし!」
能天気に笑いながら、また大きなスプーンでカレーをすくう。
その顔を見てたら、自然と笑みがこぼれた。
「それにしてもさ」
と、佐久間がカレーをつつきながら、ぽつりと話し始めた。
「俺、昔からアニメとかでも真面目系のキャラ、特に好きなんだよね」
「……急だな」
思わず吹き出す。
「だって!今日改めて思ったもん。阿部ちゃん、俺のめっちゃ好きなタイプ!」
「アニメキャラ扱いすんなよ」
苦笑いすると、佐久間はテーブルに身を乗り出して、まっすぐ俺を見た。
「だってさ、真面目な人ってさ――」
「優しいじゃん。ちゃんと考えて動いてるじゃん。自分だけじゃなくて、周りのことも見てるし、責任感あるし。で、たまに頑張りすぎて疲れちゃうとこもあって……」
一生懸命言葉を探しながら、続ける」
「そういうとこ、めっちゃ愛しいっていうか。応援したくなるっていうか。
俺、そういう人の隣にいたいって、昔から思ってたんだよね」
まぁペラペラと出てくる出てくる。俺の言葉を挟む暇などない程に。
でも言葉を重ねるたびに、顔がどんどん熱くなっていく気がした。
カレーを食べるふりをして、視線を落とす。
「……俺、面倒くさいやつだぞ」
「知ってる!」
即答。
「たまに細かいし、理屈っぽいし、すぐ説教くさいけど」
「いや悪口じゃねえか」
「でも!そこも含めて、好き!」
佐久間は、満面の笑顔で断言した。
「阿部ちゃんが阿部ちゃんだから、俺、ここにいれるんだよ」
……ズルいな、ほんと。
そんなこと、
こんな顔で言われたら。
「……そっか」
小さく答えて、スプーンを口に運ぶ。
カレーの甘さと辛さが、じんわり舌に広がった。
なんだか、さっきよりもっと美味しく感じた。
カレーを一口食べて、ふうっと息を吐いた佐久間が、
少しだけ声を落とした。
「それにほら……俺を拾ってくれたし」
ぽつりと呟かれたその言葉に、
手にしていたスプーンの動きが止まる。
佐久間は、笑っていた。
でも、その笑顔はほんの一瞬だけ、かすかに曇った。
――あの日。
俺の前に現れた、行き場のなさそうな佐久間の顔が、ふっと頭に浮かぶ。
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
でも、すぐに佐久間は、いつもの調子に戻った。
「――だからさ!」
元気いっぱいに声を張る。
「拾ってくれたんだから、もっと犬っぽくしよっか? ワン!」
手をグーにして、犬のポーズをとる。
思わず吹き出した。
「いや、お前絶対犬じゃないでしょ!」
「えっ、猫派だった!? それともウサギ!? 小動物系!?」
大げさにバタバタしながらふざける佐久間を見て、
自然と、ふっと力が抜けた。
(ほんと、佐久間は……)
わかってて、ふざけてくれる。
重たくなりかけた空気を、何気ない冗談でふわっと軽くする。
そんな佐久間が、
無性に、いとしかった。
「……犬でも猫でも、別にどっちでもいいけど」
カレーをもう一口食べながら、ぼそっと言う。
「佐久間は佐久間でいてよ」
小さく呟いたその言葉に、
佐久間はにぱーっと嬉しそうに笑った。
「了解でーす!阿部ちゃんのペット、佐久間でーす!」
わざとらしく敬礼するその姿に、
また吹き出してしまった。
こんなふうに、
何度だって、救われるんだろうな――俺は。
そんなことを思いながら、
今日二度目の「うまいな」とカレーを口に運んだ。
食べ終わった食器を軽く流して、
「片付けはあとでいっか」と二人でこたつに潜り込んだ。
ふう、と息をつきながら、阿部は背もたれにぐったりと体を預けた。
隣では佐久間が、満腹でぐでんとこたつに沈んでいる。
「……腹いっぱい」
「……だな」
ぽつりぽつりと交わす言葉も、どこかのんびりしていた。
テレビはつけっぱなしだけど、ほとんど音は耳に入ってこない。
静かで、あったかくて、
それだけで十分だった。
ふと横を見ると、
佐久間がこたつに頬をくっつけたまま、ぼんやり天井を見ている。
寝落ちする寸前みたいな、無防備な顔。
(……ほんと、拾った犬みたいだな)
思わず笑ってしまう。
そのまま、自然に手が伸びた。
佐久間のふわふわした髪に、指先をそっと滑らせる。
ふにゃっと柔らかい感触。
驚くかと思ったけど、
佐久間は目を閉じたまま、嬉しそうににへらっと笑った。
「……なにそれ、甘やかしてんの?」
かすれた声で、寝ぼけたように言う。
阿部は、苦笑しながらも、手を止めなかった。
「……まあ、なんとなく?」
ぽつりと呟く。
自分でも、どうして撫でたのか、
理由なんかよくわからない。
ただ――
このあたたかい時間が、壊れなければいいと思った。
佐久間は、されるがまま、
こたつの中で猫みたいに丸まって、
そのうち静かな寝息を立て始めた。
「……ほんと、世話の焼けるやつ」
苦笑しながら、
阿部も目を閉じた。
こたつのぬくもりと、隣の温もりに包まれながら、
少しずつ意識が遠のいていった。
外は冷たい風が吹いているはずなのに、
この部屋の中は、冬とは思えないくらいあたたかかった。
―――――――――
昼下がりの研究室。
パソコンのファンの音と、資料をめくる小さな音だけが静かに響いていた。
そんな中、阿部は教授に呼び出された。
「阿部君、ちょっといいか」
教授室の扉をノックし、入ると、
そこには教授と、数人の他の先生たちが集まっていた。
「実は――」
教授が差し出した一枚の書類。
そこには、都内有名病院からの正式な依頼内容が記されていた。
最新の医療機器開発に関する、共同研究プロジェクト。
しかも、難易度はかなり高い。
「病院側からも、非常に期待されている。そこで……阿部君。君にこのプロジェクトのリーダーを任せたい」
「……え」
一瞬、息が止まった気がした。
教授の顔は真剣だった。
周りの視線も、冗談ではないことを物語っている。
「もちろん、チームは組ませる。君が中心になって、まとめてほしい」
「……俺、ですか?」
思わず問い返すと、教授はゆっくりうなずいた。
「真面目で、粘り強い。細かいところまで目が届く君なら、適任だと思っている」
静かに、だけど確かな言葉で。
胸の奥が、ぐっと熱くなった。
(期待……されてる)
同時に、胃のあたりに重い緊張が走る。
(失敗はできない。中途半端なことも、許されない)
重みのある現実が、ひしひしと押し寄せた。
それでも――
「……わかりました。俺に、やらせてください」
俺は背筋を伸ばして答えた。
教授たちは満足そうにうなずき、
その場で、阿部を中心とした新しい研究チームの発足が決まった。
会議が終わり、研究室に戻ると、
パソコンの画面の向こうに広がる街並みが、少し違って見えた。
不安もある。プレッシャーも半端じゃない。
でも、それ以上に、胸の奥に静かに灯るものがあった。
―――――――新しく発足した研究チームの顔合わせの日。
白衣を着直し、
阿部はゆっくりと深呼吸した。
(大丈夫。やれることをやるだけだ)
そう自分に言い聞かせて、
小さな会議室に足を踏み入れる。
すでに数人が集まっていて、
軽く雑談を交わしていた。
その場の空気が、阿部が入った瞬間、少しだけ引き締まる。
「――阿部亮平です。今回、プロジェクトリーダーを務めさせていただきます。
至らない点もあると思いますが、よろしくお願いします」
姿勢を正し、落ち着いた声で挨拶をする。
一人ひとり、軽く頭を下げながら視線を合わせる。
みんな、真剣に話を聞いてくれていた。
――その中に。
(……あ)
見覚えのある顔が、あった。
以前、
ふと耳にしてしまった陰口。
『インテリ真面目で、面白くない人だよな~』
確か、あのとき、あのグループの中に――この人もいた。
目が合う。
相手は、気まずそうに目を逸らした。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
(……まあ、別に)
誰にだって、
好かれるわけじゃない。
そんなこと、とうにわかっている。
ぐっと飲み込んで、
阿部は何もなかった顔で続けた。
「お互い、率直に意見を出し合って、いいものを作っていきたいと思っています。よろしくお願いします」
あくまで、丁寧に。
誠実に。
それが、自分のやり方だから。
小さな拍手が起こり、
新しいチームの第一歩が、静かに踏み出された。
――――――
夜。
帰りが少し遅くなった。
玄関を開けると、
ふわっとカレーの匂いが漂ってきた。
「おかえりー!」
こたつに潜り込みながら、
佐久間が元気に手を振る。
「ただいま」
靴を脱ぎながら、自然と笑みがこぼれる。
ダイニングテーブルには、
ラップのかかった夕飯と、手書きのメモ。
『温めてね!今日はカレーうどんver!( ・`ω・´)b』
(……カレー好きだな、ほんと)
笑いながらラップを外して、チンして、
こたつに移動する。
「どうだった?研究室。チームできたんでしょ?」
待ってましたと言わんばかりに佐久間が身を乗り出してくる。
「うん。発足、したよ」
一口食べて、ほっと息を吐く。
温かい出汁の香りが、体に染みる。
「病院からの依頼ってだけあって、結構プレッシャーはでかいけど……。
教授たちもちゃんとサポートしてくれるって言ってたし。
やるしかないな、って感じ」
「おお~~!阿部ちゃんかっけー!!リーダー!!」
佐久間が、ぴょんっとこたつの中で跳ねる。
「まあ、いいことばっかりでもないけどな」
ふと、さっきの光景を思い出す。
「チームに……前に陰口言ってたの、見かけた」
「え?」
佐久間の顔が、ぴたりと止まった。
「別に、もうどうでもいいけど。……好かれる必要はないし、俺がやるべきことやるだけだし」
うどんをすするふりをして、
あえて軽く流す。
でも、佐久間はじっと阿部を見つめたままだった。
「……そいつ、今度俺が睨んどくわ」
ぼそっと小さな声で言う。
思わず、吹き出した。
「やめとけ。こっちが小物っぽくなるから」
「小物じゃないもん。阿部ちゃんのこと、ちゃんと見てないやつの方が小物だもん」
ふくれっ面でそう言う佐久間が、やけに真剣だった。
そんな佐久間を見ながら、ふっと肩の力を抜いた。
「……ありがとな」
本当は、
あんまり口にしたくなかった。
でもこうして、
ふわっと全部受け止めてくれる存在がいることに、
今は、甘えてもいいかと思えた。
こたつの中で、足がぶつかる。
佐久間が、にへっと笑った。
「んで、打ち上げとかする?頑張れパーティー!」
「気が早いだろ」
でも、そんな明るい空気に、
自然とまた笑いがこぼれた。
温かい夜だった。
―――――――――
プロジェクトが本格的に動き出して、数日。
研究室はいつになく、ピリピリとした空気に包まれていた。
(……まあ、当然か)
病院との共同研究。
失敗すれば信用を失う。
誰もが、それをわかっていた。
そんなある日。
昼前、共有フォルダにアップされた試験データをチェックしていた阿部は、
ふと小さな違和感に気づいた。
(ん……?)
実験条件の設定値。
ほんの数桁だけど、致命的なミス。
すぐに、入力したファイル名を確認する。
――そこには、あの、陰口を言っていたメンバーの名前があった。
少し、息を止めた。
(ミス……か)
ちらりと、部屋の隅でパソコンに向かっている本人を見る。
焦った様子もなく、普通に作業を続けている。
(たぶん、気づいてないな)
阿部は、黙って席を立った。
誰にも気づかれないように、静かに。
自分の端末で、すぐに修正用のスクリプトを書き、
エラーをリカバリーできるデータを作り直す。
ミスがバレれば、本人もチームも大きなダメージを受ける。
そんなこと、望んでない。
(ミスは誰にでもある)
だから、カバーするだけだ。
特別なことじゃない。
誰にも言わず、何もなかったかのように、
修正したデータをそっと更新した。
「……よし」
小さく呟いて、
再び自分の席に戻る。
周囲の誰も、気づいていない。
ただ一人、阿部だけが、
その静かなフォローを知っている。
そして――それでいい、と思った。
(俺は、俺のやり方でやるだけだ)
パソコンの画面に向かいながら、
小さく笑った。
胸の奥にわずかに残っていた痛みが、
少しだけ、和らいでいった。
数日後。
チームは次の実験準備に追われていた。
その合間を縫うようにして、
ひとりのメンバーが阿部のもとにそっと近づいてきた。
――例の、陰口を言っていたあの人だった。
「あの……阿部さん、ちょっといいですか」
珍しく、低く、緊張した声だった。
「うん、何?」
俺は手を止め、椅子をくるりと回して向き合った。
相手は、周りを気にするように目線を泳がせてから、
そっと小さな声で続けた。
「先週の……実験データの件なんですけど。
今日、ふとログ見返してて……あれ、俺、間違えてたんですよね」
その声は、少し震えていた。
阿部は、何も言わずにただ、聞いていた。
「……でも、アップされてたデータは、間違い、直ってて」
喉を鳴らして、相手は言った。
「もしかして、阿部さんが……?」
阿部は、静かに微笑んだ。
「気づいたなら、それでいいよ。俺からは何も言わないつもりだったから」
あくまで、やわらかく。
責めるつもりも、偉そうにするつもりもなかった。
でも、
その優しさが、かえって相手の胸に響いたらしい。
「……あの、俺……」
ぐっと拳を握って、
相手は一礼した。
「助けてもらって、本当にありがとうございました。俺、ちゃんと、頑張ります。阿部さんの足、引っ張りたくないんで」
声が震えていた。
阿部は、ゆっくりとうなずいた。
「頼りにしてるよ」
――ただ、それだけ。
それだけを言って、
阿部はまたパソコンに向き直った。
(チームが、良くなるなら)
別に、感謝の言葉が欲しかったわけじゃない。
ただ、前を向いて進んでくれれば、それでいい。
新しいページが、
静かに、確かに、めくられた気がした。
夜。
いつものように、こたつにふたりで潜り込んで、テレビをぼんやり眺めていた。
画面では、お笑い番組がにぎやかに笑いを巻き起こしているけど、
阿部の心は、今日の出来事で、ほんのり温かかった。
「……そういえばさ」
ふと、阿部が口を開いた。
「ん?」
佐久間が、みかんを剥きながら振り向く。
「この前、チームでちょっと問題があったんだけど。今日、その子が、ちゃんと自分でミスに気づいてさ。……ありがとうって、言ってきた」
何気ない口調で話したつもりだったけど、
佐久間の顔がぱあっと明るくなるのがわかった。
「えっ、すごくないそれ!?阿部ちゃん、やっぱりリーダー向いてるんじゃん!!」
みかんの皮をぽいっと放り投げる勢いで、佐久間がぐいっと阿部に顔を近づける。
「だってさ、普通、ミス隠す人だっているのに、ちゃんと自分で気づいて、しかも阿部ちゃんに感謝するって、それって阿部ちゃんが優しくフォローしてたの、ちゃんと伝わったってことじゃん!」
「……まあ」
照れくさくなって、
阿部は視線をテレビに戻す。
「べつに、大したことしてないけど」
「大したことだよ!!」
勢いよく、佐久間がこたつの中で足をばたばたさせる。
「俺だったら、たぶんちょっと嫌味言っちゃうかもだし、
しかもなんか、そいつ、前悪口言ってたやつなんでしょ?それでも助けるとか、マジで阿部ちゃん、主人公かよ……!!」
そう言って、佐久間は阿部の肩にバシバシっと手を置く。
「ほんと、尊敬する。かっけー。大好き。マジ推せる」
「……推される覚えはないんだけど」
阿部は苦笑しながら、
でも――心の奥がじんわりあたたかくなった。
(……やっぱり、話してよかったな)
佐久間の、まっすぐで、
嘘のない言葉に触れると、
自分がやってきたことも、
少しだけ、誇らしく思えるから。
みかんの甘い香りと、
こたつのぬくもりに包まれて、
阿部は目を細めた。
「……ありがとな」
小さな声で呟くと、
佐久間はにへらっと笑った。
「もっと褒めよっか? 今日寝かせない勢いで!」
「それは遠慮する」
ふたりの笑い声が、夜の部屋に溶けていった。
この続きはnote限定で公開中。
気になる二人の恋の続きはこちらからどうぞ。
笑って、キュンとして、時々じれったい──
あなたのお気に入りのカップリングが、ここにきっとある
続きはこちらから
https://note.com/clean_ferret829/n/nc8d92c0fc9ad