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雪豹
#初心者だからつまんないかも....
栄養補充中…💚💛
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#ysdjnt
レオ
105
#ご本人様には関係ありません
nanana

6,070
夜の11時を過ぎた頃。
静まり返った部屋の中で、らんは一人、ローテーブルに向かっていた。
テーブルの上にはノートパソコン。
その横には会社から持ち帰った書類の束と、途中まで飲んだペットボトルの水。
画面には、明日までに終わらせなければならない仕事がいくつも並んでいる。
「……これ終わったら、寝よ」
小さく呟いたものの、自分でもそれが叶わないことは分かっていた。
今日も、帰宅したのはらんが先だった。
同じ会社に勤めている二人だが、仕事の仕方はかなり違っていた。
らんは仕事ができる。
頼まれたことはきちんとこなし、締め切りも守る。
一度説明されたことはすぐに覚えるし、周囲が困っていることにも気づいてしまう。
だからこそ、仕事が集まった。
「これ、お前ならできるよね?」
「ごめん、ちょっとだけ手伝ってもらっていい?」
「悪い、俺の分も確認してくれない?」
そんな言葉を向けられるたび、らんは笑ってしまう。
「いいよ」
断ればいい。
そんなことは、らん自身が一番よく分かっている。
けれど、困っている人を見ると放っておけなかった。
そして、一度引き受けた仕事を途中で投げ出すこともできない。
気づけば、自分の仕事に加えて、人から頼まれた仕事まで抱え込んでいる。
今日もそうだった。
定時を過ぎても終わらない仕事。
周囲が帰っていく中で、らんだけがパソコンに向かい続けた。
そして、ようやく一区切りついた頃には、いるまは先に退社していた。
『同僚と飲みに行ってくる。終わったら気をつけて帰れよ』
帰り際、いるまから届いていたメッセージ。
らんはそれを見て、少しだけ笑った。
『ありがと。いるまもね』
そう返した。
本当は。
『寂しい』
そう送りたかった。
けれど、送れなかった。
忙しいのは自分だけではない。
いるまだって仕事ができる。
それでも、同僚との付き合いを大切にしているから、仕事が終われば一緒に食事へ行ったり、相談に乗ったりすることも多い。
それをらんは知っている。
いるまが悪いわけじゃない。
むしろ、仕事もできて、人との関係も大切にできるいるまを、らんは好きだった。
だからこそ。
「……会いたいな」
ぽつり。
キーボードを叩いていた指が止まった。
部屋が静かすぎる。
いつもなら、どこかからいるまの声が聞こえる。
「らん、飯どうする?」
「風呂先入る?」
「今日遅かったな」
そんな何気ない会話があるはずなのに。
今日はない。
らんは椅子から立ち上がった。
もう仕事をする気力が残っていなかった。
ふらふらと寝室へ向かう。
そして、クローゼットの前で立ち止まった。
しばらく迷ったあと、扉を開ける。
いるまの服が並んでいる。
その中から、らんは一枚の上着を取り出した。
いるまがよく着ているものだった。
手に取った瞬間、ほんの少しだけ懐かしい匂いがした。
「……いるま」
胸が締め付けられる。
らんはその上着を胸に抱いた。
まるで、そこにいるま本人がいるかのように。
「……会いたい」
声が震えた。
「いるま……」
一度こぼれた言葉は、止まらなかった。
「寂しい……」
ぎゅっと上着を抱きしめる。
「そばにいてよ……」
目の奥が熱くなる。
「俺、もう……疲れた……」
ぽたり。
涙が落ちた。
「仕事……やめたい……」
言葉にした瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが、一気に崩れた。
「でも……」
らんは上着に顔を埋める。
「いるまと一緒にいたいから……仕事、やめたくない……」
仕事をやめれば、もっと一緒にいられるのかもしれない。
けれど、それでいるまとの生活を壊したくない。
一緒に暮らして、休日には二人で出かけて。
くだらないことで笑って。
そんな日々を守りたかった。
だから頑張っていた。
頑張って、頑張って。
自分でも気づかないうちに、限界まで来てしまった。
「……いるま……」
涙が次々とこぼれる。
「俺、ちゃんと……頑張ってるよ……」
「頑張ってるのに……」
しゃくり上げながら、らんは上着を抱きしめた。
「なんで……こんなに寂しいんだろ……」
床に座り込む。
背中をソファに預けても、涙は止まらなかった。
「……会いたい……」
何度も名前を呼ぶ。
「いるま……」
らんは泣き疲れて、いつの間にか瞼を閉じていた。
いるまの上着を抱きしめたまま。
そのまま、床の上で眠ってしまった。
日付が変わる少し前。
玄関の扉が開いた。
「……ただいま」
返事がない。
いるまは靴を脱ぎながら、部屋を見回した。
いつもなら、らんが眠そうな顔をして出迎えてくれる。
遅く帰ってきた日でさえ、
『おかえり』
と笑ってくれる。
今日は、それがなかった。
「らん?」
嫌な予感がした。
リビングへ向かう。
そして。
「……らん?」
床に横になっている恋人の姿を見つけた。
「おい……」
いるまは慌てて駆け寄った。
らんは眠っていた。
けれど、その顔には泣いた跡が残っている。
そして胸元には、いるまの上着。
「……何してんだよ」
声が小さくなる。
らんの手が、上着を離さない。
いるまはしゃがみ込み、その頬にそっと触れた。
「らん」
起きない。
ただ、苦しそうに眉を寄せている。
いるまは部屋を見回した。
開いたままのパソコン。
積み上がった書類。
飲みかけの水。
そこでようやく、いるまは気づいた。
「……また抱え込んだな」
責める声ではなかった。
むしろ、ひどく悲しそうだった。
いるまはパソコンを閉じた。
書類も端へ寄せる。
それから、床に寝たままのらんをそっと抱き起こした。
「らん、起きろ」
「……ん……」
「こんなとこで寝たら風邪引くぞ」
「……いるま……?」
らんの目がゆっくり開く。
ぼんやりといるまの顔を見つめた。
そして、夢ではないと分かった瞬間。
「……いるま……」
また目に涙が浮かんだ。
「いるま……っ」
らんはそのまま、いるまにしがみついた。
「……いた」
「……」
「……いるま、いた……」
「おう」
いるまは背中をゆっくり撫でた。
「帰ってきた」
「……遅い……」
「悪かった」
「……寂しかった……」
「うん」
「ずっと……寂しかった……」
いるまは何も言わず、ただ抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。
らんはいるまの肩に顔を埋める。
「仕事……いっぱいで……」
「うん」
「断れなくて……」
「うん」
「気づいたら、いるまと全然話せなくなってて……」
「……うん」
「俺……いるまと一緒にいたいのに……」
声が震える。
「仕事も……ちゃんとしなきゃって思って……」
「らん」
「でも……もう疲れた……」
いるまはらんの髪を撫でた。
「今日はもう仕事の話すんな」
「……でも」
「いいから」
静かな声だった。
「今は俺がいんだろ」
その言葉に、らんの目からまた涙が落ちた。
「……いるま」
「ん?」
「そばにいて」
「おう」
「……ずっと?」
「少なくとも、今夜はずっといる」
「……今夜だけ?」
らんが少しだけ顔を上げる。
いるまはその顔を見つめた。
「明日もいるし、その次もいる」
「……ほんと?」
「当たり前だろ」
いるまはらんの額に軽く触れる。
「お前が一人で全部抱え込んで、こんなになるまで頑張る必要ない」
「……でも」
「でもじゃない」
少しだけ強い口調。
けれど、怒っているわけではない。
「仕事ができるからって、全部引き受けなくていい」
「……」
「断っていい」
「……うん」
「助けを求めてもいい」
「……うん」
「俺にも言え」
らんは黙った。
しばらくして、小さく頷く。
「……分かった」
「よし」
いるまはらんの頭を撫でる。
「今日は寝んぞ」
「……いるまも?」
「俺も」
「一緒に?」
「一緒に」
その答えを聞いて、らんはようやく少しだけ笑った。
いるまはそんならんを見て、安心したように息を吐く。
そして、らんをゆっくり抱き上げた。
「わ……」
「歩ける?」
「……たぶん」
「たぶんじゃ危ないだろ」
「ごめん」
「謝んな」
いるまはそのまま寝室へ向かった。
ベッドへらんを寝かせる。
すると、らんがいるまの服の裾を掴んだ。
「……いるま」
「ん?」
「行かないで」
「行かない」
即答だった。
いるまはベッドの隣に腰を下ろした。
らんの手を握る。
「ここにいんだろ」
「……うん」
らんは安心したように目を閉じた。
「いるま」
「ん?」
「好き……」
小さな声。
いるまは一瞬だけ目を細めて、それから柔らかく笑った。
「俺も」
握った手を、そっと握り返す。
「だから、もう一人で泣くな」
「……うん」
「寂しくなったら言え」
「……うん」
「仕事が辛かったら言え」
「うん……」
「俺に何でも言えよ」
その言葉に、らんは目を開けた。
「……迷惑じゃない?」
「恋人だろ」
いるまは当たり前のように言った。
「頼られるのが迷惑なら、恋人なんかやってない」
らんの目に、また涙が浮かぶ。
けれど今度の涙は、さっきとは違った。
安心したように笑いながら、らんはいるまの手を握った。
「……ありがと」
「どういたしまして」
「いるま」
「ん?」
「明日……一緒に朝ご飯食べたい」
「わかった」
「夜も……一緒にいたい」
「いる」
「……いっぱい話したい」
「全部聞く」
らんはようやく、穏やかな顔で目を閉じた。
いるまはそのまま隣に座っている。
やがて、らんの寝息が静かに聞こえ始めた。
いるまは眠った恋人の髪をそっと撫でる。
「……頑張りすぎなんだよ、お前は」
眠っているらんには届かないほど、小さな声。
けれどその声には、確かな優しさがあった。
らんの寝息が、一定の間隔で聞こえている。
先ほどまで涙で濡れていた頬も、今は穏やかだった。
いるまはベッドの脇に座ったまま、しばらくその寝顔を見つめていた。
「……寝たか」
いるまはそっとらんの髪を撫でる。
「よく頑張ったな」
それだけ呟いて、立ち上がった。
本当なら、このまま隣に入って一緒に眠るつもりだった。
らんも、それを嬉しそうに受け入れてくれた。
だから、その約束を破るつもりはない。
ただ。
「……この量は、さすがに明日に持ち越せねぇな」
いるまはリビングへ戻った。
ローテーブルの上に積み上げられた書類。
開いてみるパソコン。
未処理のデータ。
確認待ちの資料。
一つ一つ目を通していく。
「…………」
数分間、無言。
そして。
「……は?」
いるまの眉間に皺が寄った。
一枚の資料を手に取る。
その内容を確認する。
「これ……らんの担当じゃねぇだろ」
次の資料。
「これも」
さらに一枚。
「……これもかよ」
次々と確認していく。
どう考えても、らん一人が抱える量ではない。
本来なら複数人で分担する仕事。
それが、なぜか全部らんのところに集まっている。
しかも、らんが自分から進んで引き受けたものだけではない。
『これ、お願いしていい?』
『お前なら早いから』
『悪い、今日中に頼む』
そんな言葉で押しつけられた仕事まで混ざっている。
いるまは資料を机に置いた。
「…………」
静かな部屋。
ベッドからは、らんの寝息。
その音を確認してから、いるまは低い声で呟いた。
「……お前ら全員、覚えとけよ」
怒鳴るわけではない。
むしろ、声は驚くほど静かだった。
「らんに仕事押し付けた奴……全員シバく」
ただ、腹が立った。
ものすごく。
らんは、仕事ができる。
だから頼られる。
頼られれば断れない。
そして、できてしまうから、また次の仕事を渡される。
その繰り返し。
いるまは、その悪循環を知っていた。
「……ったく」
時計を見ると、 もう日付が変わっている。
普通なら、とっくに寝ている時間だ。
それでも。
「明日、こいつがまたこれ見たら……絶対また無理するだろ」
いるまはキーボードに手を置いた。
「だったら、俺が片付ける」
カタカタカタ。
静かな部屋に、キーボードを叩く音だけが響き始めた。
一つ目の仕事。
確認。
修正。
保存。
二つ目。
データを整理。
必要な部分を抜き出す。
三つ目。
メールの下書きを作る。
いるまは黙々と作業を進めていく。
普段から仕事ができるいるまだ。
処理速度は速い。
判断も早い。
何より、らんの仕事の癖を知っている。
「ここは、らんならこうするな」
資料を確認しながら、必要な箇所を修正する。
「……ここは俺がやった方が早い」
一つずつ。
らんが明日困らないように。
そして、これ以上抱え込まなくて済むように。
いるまは仕事を片付けていった。
一時間。
二時間。
時間だけが過ぎていく。
それでも、いるまは休まなかった。
途中で一度だけ寝室を覗く。
「……」
らんはまだ眠っている。
布団の中で小さく丸まっている。
いるまはその姿を見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「大丈夫」
誰に言うでもなく呟く。
そして、またリビングへ戻る。
カタカタカタ。
仕事を続ける。
やがて、最後の一枚に手をつける。
「……これで終わり」
午前三時を少し過ぎていた。
いるまは椅子の背もたれに身体を預け、深く息を吐いた。
「……終わった」
画面を保存する。
明日の朝、らんが確認する必要がないよう、必要なものはすべて整理してある。
「これ以上、らんに持たせるかよ」
いるまはパソコンを閉じた。
部屋が再び静かになる。
寝室へ向かう前に、リビングを見渡した。
さっきまで大量に積まれていた書類は、きれいに整理されている。
机の上も片付いている。
「……よし」
そして、ようやく寝室へ向かった。
月明かりの中で、らんが眠っている。
いるまはベッドに入ると、起こさないようにそっと隣へ横になった。
すると。
眠っているはずのらんが、もぞもぞと動いた。
「……ん……」
いるまが少し身を引こうとした瞬間。
ぎゅっ。
らんの手が、いるまの服を掴んだ。
「……いるま……」
寝言だった。
けれど、その声にいるまの胸が締め付けられる。
「……んだよ」
小さく答える。
すると、らんは安心したようにいるまの胸元へ寄ってきた。
「……よかった……」
「……ったく」
いるまは苦笑する。
そして、らんの身体をそっと抱き寄せた。
「愛してる」
眠っているらんには聞こえていないかもしれない。
それでも、何度でも言う。
「もう一人で抱えんなよ」
らんの髪を撫でる。
「仕事も」
もう一度、優しく撫でる。
「寂しいのも」
そして、額にそっと触れる。
「全部、俺にも持たせろ」
らんは返事をしない。
ただ、いるまの服を掴んだまま、静かな寝息を立てている。
いるまはその手を包み込んだ。
「……おやすみ、らん」
ようやく目を閉じる。
ほんの少しだけ、仕事の疲れが身体に残っている。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
むしろ。
隣にらんがいる。
それだけで十分だった。
そしているまは、眠りに落ちる直前にもう一度だけ心の中で誓う。
――明日、あいつらにはちゃんと話をする。
らんが『できるから』という理由だけで仕事を押し付けられないように。
らん自身が、自分の限界を無視しなくて済むように。
そして。
「……俺がちゃんと守るから」
小さく呟いて。
いるまは、らんを抱きしめたまま眠りについた。
朝。
カーテンの隙間から差し込む光に、らんはゆっくりと目を覚ました。
「……ん……」
ぼんやりと天井を見つめる。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
けれど。
「……あ」
すぐ隣にいるまがいることに気づく。
昨夜、自分は泣いた。
いるまの上着を抱きしめながら、寂しいと何度も言った。
仕事が辛いと泣いて。
いるまと一緒にいたいと泣いて。
そのまま眠ってしまった。
「……」
思い出した途端、らんの顔が少し熱くなる。
「俺……昨日、めちゃくちゃ泣いたよな……」
恥ずかしい。
けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ。
隣にいるまがいることが、何より安心できた。
「……いるま」
小さく呼ぶ。
「ん……」
いるまが僅かに眉を動かした。
まだ眠っている。
らんは起こさないように、そっとベッドを抜け出した。
「……朝ご飯、作らなきゃ」
いつもなら、そう思う。
けれど。
「……あれ?」
リビングへ出た瞬間、らんは足を止めた。
昨日まで机の上を埋め尽くしていた書類がない。
パソコンも閉じられている。
資料もきれいに整理されている。
「……?」
らんは首を傾げた。
近づいて、机の上を確認する。
一枚。
二枚。
三枚。
昨日、自分が途中までやっていた仕事。
全部、終わっている。
「……え?」
らんは目を丸くした。
パソコンを開く。
データを確認する。
「……終わってる」
メールも。
資料も。
確認作業も。
必要なものはすべて処理されている。
「なんで……?」
らんは呆然と画面を見つめた。
そのとき。
「何してん」
背後から声がした。
「……!」
振り返る。
寝癖のついたいるまが、眠そうな顔で立っている。
「いるま……」
「おはよ、らん」
「……これ」
らんがパソコンを指差す。
「ん?」
「これ、いるま?」
数秒。
いるまは何でもないことのように答えた。
「ん、やっといた」
「…………」
らんの口がぽかんと開く。
「……全部?」
「全部」
「……なんで?」
「昨日のお前見て、明日これやらせたらまた無理すると思ったから」
「でも……」
「それに、俺がやった方が早かったし」
さらっと言う。
らんはしばらく何も言えなかった。
やがて。
「……いるま」
「ん?」
「ありがとう……」
声が震えた。
「おい、朝から泣くなよ」
「だって……」
らんは目元を押さえる。
「俺、昨日……あんなに迷惑かけたのに……」
「迷惑?」
いるまが眉を寄せる。
「どこが?」
「泣いたし……仕事もいっぱい残したし……」
「だから?」
「……」
「恋人だろ」
いるまは、らんの頭を軽く撫でた。
「それくらい普通」
「……普通じゃないよ」
「じゃあ俺が勝手にやりたかっただけ」
「いるま……」
「それに」
いるまは少しだけ笑った。
「昨日、お前が俺の上着抱いて泣いてたの見たら、仕事くらい片付けてやろうって思うだろ」
「…………」
らんの顔が一気に赤くなる。
「……見たの?」
「見た」
「忘れて」
「無理」
「お願い」
「無理」
「いるま……!」
「かわいかったし」
「……っ」
らんは両手で顔を覆った。
「もうやだ……」
「はいはい」
いるまは笑いながら、らんの頭を撫でる。
「朝飯食うぞ」
「……うん」
「今日は俺が作る」
「え?」
「お前は座ってろ」
「でも――」
「座ってろ」
少しだけ強い声。
らんは反射的に黙った。
けれど、その声が嫌だったわけではない。
むしろ、安心する。
「……分かった」
「よし」
いるまはキッチンへ向かう。
らんは椅子に座った。
しばらくすると、包丁の音が聞こえ始める。
トントン、と一定のリズム。
その音を聞いているだけで、昨日まで張り詰めていたものが少しずつほどけていく。
「いるま」
「ん?」
「……今日、一緒に帰れる?」
包丁を動かす手が止まる。
いるまは振り返った。
「帰れる」
「ほんと?」
「しばらく予定入れてない」
「……そっか」
らんが嬉しそうに笑う。
「じゃあ、一緒に帰ろ」
「おう」
また包丁の音が始まる。
らんはその背中を見つめた。
昨日までなら。
仕事を終わらせなきゃ。
迷惑をかけちゃいけない。
もっと頑張らなきゃ。
そんなことばかり考えていた。
でも今は。
「……いるま」
「ん?」
「好き」
「……朝から何」
「言いたくなった」
「……そ」
耳が少し赤くなっている。
らんはそれを見て笑った。
「いるまは?」
「……好きだっつの」
「もう一回」
「言わねぇ」
「えー」
「朝飯食うぞ」
「はーい」
二人の間に、いつもの穏やかな時間が戻ってくる。
そして朝食を食べ終えたあと。
らんは出勤前に、昨日までとは違う顔でいるまを見つめた。
「今日から、ちゃんと断る練習する」
「ん」
「無理なときは、無理って言う」
「それでいい」
「あと……寂しいときも言う」
「それも」
「だから」
らんは少し照れながら笑った。
「今日帰ったら、いっぱい話そうね」
いるまは一瞬だけ目を細める。
「……おう」
そして、らんの手を取った。
「約束」
指を絡める。
その短い言葉だけで。
らんは、今日一日を頑張れそうな気がした。
二人はいつも通り、並んで家を出た。
「忘れ物ない?」
「ないよ」
「スマホ」
「ある」
「財布」
「あるって」
「社員証」
「……」
らんが鞄を漁る。
いるまが呆れたように笑った。
「ほら」
「……あった」
「昨日まで仕事で死にかけてた奴は違うな」
「もう、それ言わないでよ」
「事実だろ」
「でも、今日は大丈夫」
らんはそう言って笑った。
昨日とは違う。
まだ少し疲れは残っているけれど、心はずっと軽かった。
「じゃ、行くか」
「うん」
二人はそれぞれの職場へ向かった。
――正確には。
今日から、いるまは「今までの部署」へは行かない。
そのことを、らんはまだ知らない。
「おはようございます」
いつものように、らんが自分の部署へ入る。
「おはよう」
「おはようございます」
同僚たちから声をかけられ、らんも笑顔で返す。
そして、席につこうとしたときだった。
「ちょっといい?」
早速、声をかけられる。
「これなんだけどさ――」
昨日までなら。
「あ、いいですよ」
そう答えていただろう。
けれど。
らんは一瞬だけ、いるまの言葉を思い出した。
――無理なときは、無理って言え。
「……これ、今日中ですか?」
「うん。お願いできる?」
「今日は自分の仕事もあるので……」
言いかけた、そのとき。
「それは俺がやります」
聞き覚えのある声がした。
「……え?」
らんが振り返る。
そこには。
いるまが立っていた。
「…………」
らんの口が、ぽかんと開く。
「…………いるま?」
「おう」
「なんで?」
「今日からこっち」
「…………え?」
いるまは何でもないように言う。
「部署異動」
「…………」
らんは完全に固まった。
「ちょっと待って」
「ん?」
「聞いてない」
「言ってないからな」
「なんで!?」
「サプライズ」
「いやいやいや!」
らんが慌てて周囲を見る。
すると、上司がやってきた。
「みんな、もう知ってると思うけど、本日付でいるまさんがこちらの部署に異動になりました」
「よろしくお願いします」
いるまが軽く頭を下げる。
拍手が起こる。
けれど、らんだけはまだ呆然としている。
「……いるま」
「ん?」
「本当に?」
「本当」
「今日から?」
「今日から」
「……毎日?」
「勤務日ならな」
らんは口を開いたまま、何も言えない。
いるまはそんならんを見て、口元を少し緩めた。
「そんな驚くことかよ?」
「驚くよ……!」
「昨日まであんなに寂しがってたくせに」
「それは……!」
らんの顔が赤くなる。
「会社では言わないで!」
「分かってる」
二人が恋人同士であることは、職場では公にしていない。
だから、いるまはいつも通りの同僚の顔をしている。
ただし。
「それでなんだけど」
上司が続けた。
「いるまさんには、らんさんとペアになってもらいます」
「……!」
らんが再び固まった。
「え」
いるまは平然としている。
「よろしく、らん」
「……よろしくお願いします」
妙に他人行儀な返事。
けれど、らんの頬は緩みっぱなしだった。
そして。
異動初日。
いるまの仕事ぶりが、すぐに部署内へ知れ渡ることになった。
「これ、どう処理する?」
「このケースなら、こっちの方が早いです」
「この資料、確認お願いできる?」
「今やります」
「このデータ――」
「もう終わりました」
仕事が速い。
判断も速い。
しかも、ただ速いだけではない。
周囲との連携も忘れない。
必要な人にはきちんと声をかけ、分からないことがあれば確認する。
異動初日とは思えないほど、いるまは仕事を回していった。
そして昼前。
らんのところへ、また一人の同僚がやってきた。
「この仕事なんだけど――」
「……」
らんが書類を見る。
「これ、私の担当では――」
「でも、お前の方が詳しいじゃん」
いつもの言葉。
いるまの手が止まった。
「……は?」
低い声。
同僚が振り返る。
「え?」
いるまは椅子から立ち上がった。
「何でもかんでもこいつに押し付けんな」
「いや、でも……」
「『でも』じゃねぇよ」
いるまの声が響く。
「こいつが仕事できるからって、何でもこいつに回せばいいと思ってんの?」
「…………」
「お前ら仕事できねぇのかよ」
空気が凍る。
いるまは淡々と続けた。
「自分の仕事くらい自分でやれよ」
「……」
「こいつが仕事辞めたら、お前ら仕事回せんの?」
誰も答えない。
「今までこいつが何とかしてくれてたから、自分で考える必要なかったんだろ」
いるまは、らんの机に置かれた書類を見る。
「これも」
一枚取る。
「これもこいつの担当じゃねぇ」
また一枚。
「これだってそうだろ」
そして、書類を持ってきた同僚へ返した。
「持って帰れ」
「……」
「分からねぇとこは教えてやるが、他人に押し付けんな」
しん、と静まり返る。
同僚はバツが悪そうに目を逸らした。
「……分かりました」
そう言って、書類を抱えて離れていく。
しかし。
その場にいた全員が、いるまを歓迎しているわけではなかった。
少し離れた場所から、いるまを睨んでいる者もいる。
「……」
いるまは気づいていた。
けれど、気にしない。
仕事で結果を出せばいい。
それだけだった。
そして、その日の午後。
「いるまさん、この処理お願いできますか?」
「はい」
数分後。
「終わりました」
「……早」
「これ、ここが二重になってますよ」
「え?」
「このままだと後で確認に引っかかるんで、直しときました」
「……ありがとうございます」
また一つ。
また一つ。
いるまは仕事を片付けていく。
そして気づけば。
異動してきたばかりのいるまが、部署内で最も多くの仕事を処理していた。
誰も何も言えない。
さっきまで睨んでいた人間でさえ。
「…………」
何も言えずに、自分の席へ戻っていく。
らんは隣で、その様子を見ていた。
そして、小さく笑った。
「……すごい」
「何が」
「いるま」
「普通だろ」
「普通じゃないよ」
「お前が俺を過大評価してるだけ」
「そんなことない」
らんは嬉しそうに笑う。
「……なんか安心する」
「何が?」
「隣にいるのが、いるまだってこと」
一瞬。
いるまの表情が柔らかくなった。
けれど職場なので、それ以上は何も言わない。
「仕事しろ」
「はいはい」
らんがパソコンへ向き直る。
その横顔を見ながら、いるまは思う。
昨日まで。
この人は一人で全部抱えていた。
頼まれれば断れず。
困っている人がいれば助け。
自分の限界すら後回しにして。
そして、家に帰れば一人で泣いていた。
もう、そんなことはさせない。
仕事だから甘やかすつもりはない。
らん自身にも、自分の仕事を自分でできるようになってもらう。
けれど。
理不尽に押し付けられる仕事まで背負わせるつもりはない。
いるまは画面へ視線を戻す。
「……さて」
キーボードを打つ。
隣から、らんのキーボードを叩く音が聞こえる。
今までとは違う。
同じ職場。
同じ時間。
そして、すぐ隣。
らんは仕事をしながら、ちらりといるまを見る。
目が合った。
いるまがほんの少しだけ笑う。
らんも笑った。
恋人であることを職場で明かすことはできない。
けれど。
少なくとも今日からは。
帰る場所だけじゃない。
仕事をする場所でも、いるまは隣にいる。
それだけで。
らんの心には、昨日までとは違う余裕が生まれていた。
定時。
その言葉を聞いた瞬間、らんは自分の耳を疑った。
「……終わった?」
パソコンの画面に表示された時刻を確認する。
間違いない。
定時だった。
しかも、仕事は残っていない。
「……え、帰っていいの?」
「いいに決まってるだろ」
隣のいるまが呆れたように言う。
「今日のお前、定時で帰るためにちゃんと仕事終わらせてただろ」
「……そうだけど」
らんは、まだ信じられないような顔をしている。
これまでのらんにとって、定時とは「ここから残業が始まる時間」に近かった。
定時になっても仕事は終わらない。
誰かから追加の仕事を頼まれる。
それを引き受けているうちに時間が過ぎる。
帰宅する頃には、外はすっかり暗くなっている。
それが当たり前になっていた。
だから。
「……こんな明るいうちに帰れるんだ」
窓の外を見ながら、らんがぽつりと呟く。
まだ空には夕方の名残がある。
「すごい……」
「そこまで?」
「だって、久しぶりだよ」
らんは嬉しそうに笑った。
「こんな時間に家に帰るの」
その笑顔を見て、いるまも少しだけ笑う。
「じゃあ帰んぞ」
「うん!」
二人は揃って職場を出た。
玄関の扉が閉まる。
「ただいま」
らんがそう呟くと、いるまも続ける。
「ただいま」
二人きりの家に、穏やかな声が響いた。
らんは靴を脱ぎながら、まだ少し信じられないような顔で時計を見る。
「……まだこんな時間なんだ」
「定時だからな」
「すごい……」
らんが嬉しそうに笑う。
その笑顔を見たいるまは、ふっと目を細めた。
「……らん」
「ん?」
振り返ったらんとの距離を、いるまがゆっくり縮める。
「え?」
肩に手を添えられ、らんが目を瞬かせる。
そのまま、いるまは優しく口づけた。
ほんの短いキス。
それでも、突然だったせいで、らんは目を丸くした。
「……いるま?」
「おかえり」
「……ただいま」
らんが照れたように笑う。
すると、いるまはもう一度らんを抱き寄せた。
「今日、ずっと隣にいたのに」
「うん?」
「帰ってきても、まだお前が俺のそばにいるのが嬉しい」
「……何それ」
「何って?」
「ちょっと独占欲強くない?」
らんがくすくす笑う。
いるまは否定しなかった。
「……まあ、そうかもな」
「珍しい」
「別に珍しくないだろ」
「そう?」
「おう」
いるまはらんの背中に腕を回したまま、少しだけ顔を近づける。
「職場では、お前のこと普通の同僚みたいに扱わなきゃいけないだろ」
「うん」
「だから、その分……家では俺の恋人でいろよ」
らんの頬が赤くなる。
「……最初から、そのつもりだけど」
「知ってる」
いるまは嬉しそうに笑った。
「でも、言いたくなったんだよ」
「……いるま」
らんは少し照れながら、いるまの服を掴む。
「俺もね」
「ん?」
「いるまが他の人と楽しそうに話してると、ちょっとだけ寂しい」
「……そうなん?」
「だって、いるまって誰とでも仲良くなれるから」
「仕事だからな」
「分かってる」
らんは少しだけ視線を落とした。
「でも……俺だけが知ってるいるまも欲しい」
その言葉に、いるまは目を細める。
「……それは、もうお前だけのだろ」
「ほんと?」
「ほんと」
そして、もう一度らんを抱きしめる。
「俺が家に帰って一番会いたいのは、お前」
「……」
「仕事が終わって、一番話したいのもお前」
「……うん」
「だから、安心しろ」
らんは胸元に顔を埋めた。
「……じゃあ、もうちょっとこうしてて」
「仕方ねぇな」
いるまは満足そうに腕へ力を込める。
「今日は誰にも邪魔されないからな」
「ふふ」
「早く帰ってきたんだ。今日は俺がお前を独占する」
「……独占って言い方」
「嫌?」
「……嫌じゃない」
らんは小さく笑った。
「むしろ嬉しい」
いるまはその言葉を聞くと、安心したようにらんの髪を撫でた。
仕事中には決してできないこと。
名前を呼ぶことも。
こんなふうに抱きしめることも。
誰にも見られないこの家なら、何も気にする必要はない。
「らん」
「ん?」
「今日はいっぱい一緒にいよう」
「うん」
「夕飯も一緒に食って」
「うん」
「そのあとも話して」
「うん」
「寝るまで俺の隣にいて」
らんは少しだけ笑ってから、いるまの胸にもう一度寄り添った。
「……いるまもね」
「ああ」
「ずっと俺の隣にいて」
「もちろん」
二人はしばらく、そのまま離れなかった。
仕事に追われていた頃には、想像もできなかったほど穏やかな時間。
今日からは、それを少しずつ増やしていけばいい。
らんはいるまの腕の中で目を閉じる。
「……定時で帰れるって、幸せだね」
「だから、それ今日何回目だよ」
「だって嬉しいんだもん」
「はいはい」
呆れたような声。
けれど、いるまの腕は緩まない。
むしろ、もう少しだけ強く。
大切な恋人を確かめるように、らんを抱きしめていた。
__𝐹𝑖𝑛.
2026年9月23日
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