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あいうえお
118
るしゅ
180
「星花、俺たちもうここまでにしよう」
「えっ、勇信さん……? 急にどうしたの?」
別れの場所は、グループ本社近くのメンバーズラウンジだった。
父・吾妻和志会長の時代から、吾妻家が食事と酒を楽しんできた店だ。
「俺たち、このままではダメだと思うんだ。お互いのためにも、もう別れたほうがいい」
「勇信さん、本気で言ってるの?」
菊田星花のナイフとフォークが止まった。
「本気だよ。このまま過ごしていても、俺たちの打算的な……いや、未来が見えないと思うんだ」
勇信は淡々とした表情で言った。
菊田星花に別れを告げているのは、新しく生まれた勇信だった。
彼の名は、プラスマイナス。
極めて打算的な属性を持ち、利益のためには私的な感情を考慮しない勇信だった。
常に損得でものを考えるため、人の顔色をうかがわず、相手の状況や感情を理解するつもりもなかった。
「ビジネスは数字ではなく、人が作るもの」
幼いころからよく聞かされた、吾妻和志会長の言葉。
それを受け入れないほど、彼はデータを基準とした損得にしか興味が持てなかった。
プラスになることに重きを置き、マイナスを極度に嫌う。
キャプテンから増殖したその夜。
十分な時間をかけて自分の属性を把握したあと、プラスマイナスは言った。
「星花と別れてくる」
そう言い残して、彼はしそね町の別荘を去った。
プラスマイナスにとって、菊田星花がいるということ自体がマイナスだった。
もちろん、すべての勇信が同じ考えである。
しかしプラスマイナスにとっては、マイナスの種を1秒でも早くなくさなければ、不安で眠れそうになかった。
「勇信さん、今日すごく冷たいね。言葉だけじゃなく、表情も」
「今日を最後にしようと思ってここに来たんだ。理解してほしい」
「そうなのね」
星花はテーブルの皿をしばらく見つめたあと、すっと顔を上げ、高い天井にぶら下がるシャンデリアに視線を移した。それから、ゆっくりとプラスマイナスを見つめた。
「別れる前に、思い出話でもしない?」
「思い出話など、俺たちにとってプラスにならない」
「そんな冷たい言い方しないでよ。あまりにいきなりだから、心を整理する時間が必要なの。そのくらい、理解してくれてもいいじゃない」
「そうか、わかった」
プラスマイナスは腕時計を確認した。
夜8時50分。
9時までなら思い出を分かち合っても、そうマイナスにはならないだろう。
「勇信さん。あの日を覚えてる? プレオープンの日」
「もちろん覚えてるよ。10分では話しきれないほど、たくさんのことがあったから」
菊田星花は大学でインテリアデザインを専攻し、大学卒業と同時にショップを開いた。
店は100%吾妻グループの出資であり、吾妻和志会長をはじめとする吾妻家の全員が、彼女の門出を祝った。
立地の選定から店のデザイン、社員の面接に至るまで、星花はすべての業務に積極的に取り組んだ。
そうして3カ月の準備期間を経て、店はプレオープンの日を迎えた。
吾妻和志会長をはじめとする多くの来賓が店を訪れた。
VIP顧客が多く訪れる場であるだけに、プレオープンとはいえ、売り場のスタッフは慌ただしさの中にいた。
「星花、おめでとう。自分の店を持った気分はどうかな」
約100坪の店を見渡しながら、吾妻和志が尋ねた。
和志の隣には、彼の古くからの友人であり、星花の父でもある菊田盛一郎警察庁生活安全局長が立っている。
「はい、和志おじさま。正直、今はまだ実感がわきません。ただ吾妻グループに対する感謝の気持ちだけは、しっかりと感じています」
星花の言葉に、和志が豪快に笑った。
「私としては、利益が出ることを期待するだけだ。商売ってやつは、儲かってこそ継続できるんでな」
「星花。和志が冗談を言っているのは、もちろんわかってるよね?」
「いえ、わかりません」
星花はきっぱりと言った。
「うん?」
菊田盛一郎が怪訝な表情を浮かべた。
「もしそれが冗談だとしても、私はそうは受け取りません。ビジネスとしてここをオープンさせたのですから、利益を追求するのは当たり前のことです。だから全力で商品を売って、きちんと利益を還元します。ですよね、和志おじさま」
「いい気概だ。星花のこれからの活躍と、決算報告が非常に楽しみだな」
菊田星花の真剣な目を見て、吾妻和志が小さく笑った。
「星花、ちょっといいかな」
和志のそばで静かに立っていた勇信が、3人の会話に割って入った。
勇信はそのまま星花の手を握り、レジの後ろへ連れていった。
スタッフ用のバックヤードに入ると、星花の表情が一気に暗くなった。
「星花、様子が変だぞ。何があったんだ?」
「私は大丈夫よ」
「調子がよくないことくらい、すぐわかる。何があったか言ってくれ」
勇信は店を訪れてすぐに、星花の身に異常が起きていることに気づいていた。
星花はいつも通りに笑っていた。
来賓には丁寧に頭を下げ、スタッフには明るく指示を出していた。
けれど、どこか違った。
呼吸が浅く、指先に力が入っている。
視線の動きが、いつもよりわずかに速い。
「本当に大丈夫よ。早く売り場に戻らなきゃ」
バックヤードを出ようとする星花の手を、勇信は再び握った。
「大丈夫って、何が大丈夫なんだ? どんな症状なのか具体的に言ってみるんだ」
「……少しだけ胸が苦しくて、胃のあたりがムズムズするだけ。本当に問題ないわ」
そう言い終えると同時に、星花はその場で嘔吐した。
「おい、どうしたんだ!? やっぱり病気じゃないか」
徐々に星花の手が震えはじめる。
そして極度の恐怖に苛まれたように、頭を抱えて座り込んでしまった。
「怖い……。勇信さん、怖いよ……」
発作の症状が現れ、額には汗がにじんだ。