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「星花、俺たちもうここまでにしよう」
「えっ、勇信さん……? 急にどうしたの?」
別れの場所は、グループ本社近くのメンバーズラウンジだった。
父・吾妻和志会長の時代から、吾妻家が食事と酒を楽しんできた店だ。
「俺たち、このままではダメだと思うんだ。お互いのためにも、もう別れたほうがいい」
「勇信さん、本気で言ってるの?」
菊田星花のナイフとフォークが止まった。
「本気だよ。このまま過ごしていても、俺たちの打算的な……いや、未来が見えないと思うんだ」
勇信は淡々とした表情で言った。
菊田星花に別れを告げているのは、新しく生まれた勇信だった。
彼の名は、プラスマイナス。
極めて打算的な属性を持ち、利益のためには私的な感情を考慮しない勇信だった。
常に損得でものを考えるため、人の顔色をうかがわず、相手の状況や感情を理解するつもりもなかった。
「ビジネスは数字ではなく、人が作るもの」
幼いころからよく聞かされた、吾妻和志会長の言葉。
それを受け入れないほど、彼はデータを基準とした損得にしか興味が持てなかった。
プラスになることに重きを置き、マイナスを極度に嫌う。
キャプテンから増殖したその夜。
十分な時間をかけて自分の属性を把握したあと、プラスマイナスは言った。
「星花と別れてくる」
そう言い残して、彼はしそね町の別荘を去った。
プラスマイナスにとって、菊田星花がいるということ自体がマイナスだった。
もちろん、すべての勇信が同じ考えである。
しかしプラスマイナスにとっては、マイナスの種を1秒でも早くなくさなければ、不安で眠れそうになかった。
「勇信さん、今日すごく冷たいね。言葉だけじゃなく、表情も」
「今日を最後にしようと思ってここに来たんだ。理解してほしい」
「そうなのね」
星花はテーブルの皿をしばらく見つめたあと、すっと顔を上げ、高い天井にぶら下がるシャンデリアに視線を移した。それから、ゆっくりとプラスマイナスを見つめた。
「別れる前に、思い出話でもしない?」
「思い出話など、俺たちにとってプラスにならない」
「そんな冷たい言い方しないでよ。あまりにいきなりだから、心を整理する時間が必要なの。そのくらい、理解してくれてもいいじゃない」
「そうか、わかった」
プラスマイナスは腕時計を確認した。
夜8時50分。
9時までなら思い出を分かち合っても、そうマイナスにはならないだろう。
「勇信さん。あの日を覚えてる? プレオープンの日」
「もちろん覚えてるよ。10分では話しきれないほど、たくさんのことがあったから」
菊田星花は大学でインテリアデザインを専攻し、大学卒業と同時にショップを開いた。
店は100%吾妻グループの出資であり、吾妻和志会長をはじめとする吾妻家の全員が、彼女の門出を祝った。
立地の選定から店のデザイン、社員の面接に至るまで、星花はすべての業務に積極的に取り組んだ。
そうして3カ月の準備期間を経て、店はプレオープンの日を迎えた。
吾妻和志会長をはじめとする多くの来賓が店を訪れた。
VIP顧客が多く訪れる場であるだけに、プレオープンとはいえ、売り場のスタッフは慌ただしさの中にいた。
「星花、おめでとう。自分の店を持った気分はどうかな」
約100坪の店を見渡しながら、吾妻和志が尋ねた。
和志の隣には、彼の古くからの友人であり、星花の父でもある菊田盛一郎警察庁生活安全局長が立っている。
「はい、和志おじさま。正直、今はまだ実感がわきません。ただ吾妻グループに対する感謝の気持ちだけは、しっかりと感じています」
星花の言葉に、和志が豪快に笑った。
「私としては、利益が出ることを期待するだけだ。商売ってやつは、儲かってこそ継続できるんでな」
「星花。和志が冗談を言っているのは、もちろんわかってるよね?」
「いえ、わかりません」
星花はきっぱりと言った。
「うん?」
菊田盛一郎が怪訝な表情を浮かべた。
「もしそれが冗談だとしても、私はそうは受け取りません。ビジネスとしてここをオープンさせたのですから、利益を追求するのは当たり前のことです。だから全力で商品を売って、きちんと利益を還元します。ですよね、和志おじさま」
「いい気概だ。星花のこれからの活躍と、決算報告が非常に楽しみだな」
菊田星花の真剣な目を見て、吾妻和志が小さく笑った。
「星花、ちょっといいかな」
和志のそばで静かに立っていた勇信が、3人の会話に割って入った。
勇信はそのまま星花の手を握り、レジの後ろへ連れていった。
スタッフ用のバックヤードに入ると、星花の表情が一気に暗くなった。
「星花、様子が変だぞ。何があったんだ?」
「私は大丈夫よ」
「調子がよくないことくらい、すぐわかる。何があったか言ってくれ」
勇信は店を訪れてすぐに、星花の身に異常が起きていることに気づいていた。
星花はいつも通りに笑っていた。
来賓には丁寧に頭を下げ、スタッフには明るく指示を出していた。
けれど、どこか違った。
呼吸が浅く、指先に力が入っている。
視線の動きが、いつもよりわずかに速い。
「本当に大丈夫よ。早く売り場に戻らなきゃ」
バックヤードを出ようとする星花の手を、勇信は再び握った。
「大丈夫って、何が大丈夫なんだ? どんな症状なのか具体的に言ってみるんだ」
「……少しだけ胸が苦しくて、胃のあたりがムズムズするだけ。本当に問題ないわ」
そう言い終えると同時に、星花はその場で嘔吐した。
「おい、どうしたんだ!? やっぱり病気じゃないか」
徐々に星花の手が震えはじめる。
そして極度の恐怖に苛まれたように、頭を抱えて座り込んでしまった。
「怖い……。勇信さん、怖いよ……」
発作の症状が現れ、額には汗がにじんだ。
#恐怖
恵
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