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病院の夜は、呼吸音さえも重く感じられるほど静かだった。
消毒液の匂いが鼻をつく個室で、大森元貴は白いシーツに埋もれるようにして眠っていた。
点滴のチューブが、彼が「生かされている」ことを淡々と示している。
若井滉斗は、その傍らでパイプ椅子に腰掛け、元貴の右手を両手で包み込むように握りしめていた。
感覚がないと言っていた左手ではなく、まだ温かみの残る右手を。
「……ん、……わか……い?」
微かな声。
若井が顔を上げると、元貴の瞳がゆっくりと開いたところだった。
しかし、その瞳は若井を捉えているようで、どこか遠くを見ているようにも見えた。
「元貴! 気付いたか? 良かった、マジで……」
「……なんで、ここにいるの」
元貴の声は、驚くほど冷たかった。
若井の手を振り払おうとするが、点滴のせいで力が入らない。元貴はわずかに顔を歪め、視線を窓の外の闇へと逸らした。
「涼ちゃんから聞いたろ。
……僕の、病気のこと」
「……ああ。聞いた。共感……なんとかってやつだろ。でも大丈夫だ、俺が……」
「大丈夫なわけないじゃん!!」
元貴が叫んだ。その拍子に、モニターの心拍音が速く、高く鳴り響く。
「若井には関係ないって言っただろ!
……今の僕の目に、若井がどう映ってるか分かる? 君の形なんてしてない。
ただの、どす黒い塊なんだよ……!」
嘘だった。
実際には、若井の体温に触れている今、元貴の視界には彼を象徴する「鮮やかなオレンジ色」が、苦しいほどの光を放って溢れている。
けれど、元貴は自分を嫌わせるために、必死で言葉を紡いだ。
「君の声を聞くたびに、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
痛くて、吐き気がするんだ。
……お願いだから、もう僕に触らないで。
若井のことが、……嫌いになりそうなんだ」
「……っ」
若井の心臓が、鋭い刃物で貫かれたように跳ねた。
昨日までの元貴なら、こんな酷いことは言わなかった。これは、自分を遠ざけるための、あまりにも稚拙で、それゆえに必死な嘘。
若井は立ち上がり、逃げようとする元貴の顔を両手で固定し、無理やり自分の方を向かせた。
「嘘つけ。嫌いなら、なんでそんなに泣きそうな顔してんだよ」
「離せ……っ、若井……!」
「嫌だね。涼ちゃんに誓ったんだ。地獄まで追いかけてやるって」
若井は元貴の額に、自分の額を押し当てた。
「俺が『塊』に見えるなら、それでいい。
音が『色』に見えるなら、俺の声を世界で一番綺麗な色にしてやるよ。
……お前の病気ごと、俺が全部抱えてやる。
だから、……勝手に終わらせんな」
若井の瞳から零れた涙が、元貴の頬を伝い、二人の涙が混ざり合う。
元貴の拒絶の壁が、若井の熱い執着によって、音を立てて崩れていく。
「……若井、バカだよ……本当に、バカ。
……僕、君の顔、忘れちゃうんだよ……?
君のこと、誰だか分からなくなって、怖いこと言っちゃうかもしれないんだよ……?」
「その時は、毎日自己紹介してやるよ。
『俺はお前のことが世界で一番好きな、若井滉斗だ』って。
何度だって、惚れさせてやる」
元貴はついに声を上げて泣き出し、若井のシャツの胸元に顔を埋めた。
若井はその震える体を、壊れ物を扱うように、けれど二度と離さない強さで抱きしめた。
その様子を、病室のドアの隙間から見つめていた涼ちゃんは、手に持っていた「元貴の秘密のノート」を静かに閉じた。
そこには、元貴が今まで作ってきた曲の歌詞と共に、**若井への「言えなかった遺言」**が綴られていた。
「……滉斗。君の覚悟、本物みたいだね。……でも、物語はここからだよ」
涼ちゃんがノートの表紙をなぞると、そこには**「20XX年 卒業式まで、あと100日」**という付箋が貼られていた。