テラーノベル
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冷蔵庫の隅に黒く沈む違和感があった。蓮翔が仕掛けていった小型カメラ。赤い録画ランプは点いていなかったが、録画中でないとは限らない。
この部屋には、もう何も“私物”がなかった。
押入れの奥から、兄の香水の匂いがする。
香りの記憶は狂おしいほど正確だった。
中学のとき、初めて蓮翔に押し倒されたあの夜、耳元に残っていた微香と同じ。
「掃除しておいたよ」と、昨日のLINEにあった。
布団が整えられていた。枕の位置が微妙に違う。シーツは洗い替えのはずのもの。
机の上には、開きっぱなしの書類と、印刷された論文が三部重ねて置かれていた。
その論文の一部に、朱色のペンで「感謝文」が書き加えられていた。
「私は兄の手によって自分という存在を理解することができました。
身体と記憶と羞恥を通して学ぶ倫理、それを私は、大学で実践しています」
筆跡は、明らかに悠翔のものをなぞっていた。
筆圧も、癖も、完璧だった。紙は、そのために買い置きしていたもの。
プリンタもパソコンも、すでに彼に掌握されていた。
夜。静かな物音で目が覚めた。
カーテンの隙間から誰かが覗いていた――そう感じて跳ね起きた。
だが誰もいない。
だが、布団の中に微かに湿った匂いが残っていた。
床に落ちていたのは、見覚えのないゴム手袋。
冷たく乾いて、きちんと丸められ、そっと置かれていた。
これは、乱暴ではない。確信犯の置き土産だった。
朝。大学に行くと、教授から呼び止められた。
「君の論文、蓮翔くんからも推薦されていたよ。兄弟で、優秀だな」
差し出された封筒。中には、例の“感謝文”が印刷された用紙があった。
教授は笑っていた。彼は、蓮翔の“研究協力者”だった。
「君のテーマ、倫理と記憶の相関、面白いよ。
“実証”って、君がやってることのことだろ?」
悠翔は返す言葉がなかった。
否定することは、自分の立場を失うことだった。
そして、何より――蓮翔の「次の一手」を予感していた。
帰宅すると、部屋の奥に黒い紙袋があった。
中には、使用済みのカメラ2台と、密封されたUSBが入っていた。
その上に置かれたメモ。
「選べよ、悠翔。消すか、残すか。
残すなら、“続きを撮る”理由もできる。
消すなら、教授に『全部嘘でした』って自白、してこい」
部屋には誰もいないはずなのに、風が動いた気がした。
悠翔は、ひとりだった。だが、常に見られていた。
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