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それは、何の前触れもなく始まる。チャイムは鳴らない。インターホンは壊れている。
それでも蒼翔は、鍵を持っていた。
「おい、悠翔。いたんなら返事しろよ」
声は、ドアを閉める音とほぼ同時だった。
廊下を歩く足音が、怒りと熱を帯びていた。
悠翔が部屋の奥にいると察すると、蒼翔は一拍おいて壁を殴った。
何度も。拳の皮が剥けるほど。
それは、合図だった。
「はぁ?何で俺に連絡返さねえの?
なあ、ふざけてんのか、てめぇ」
靴のまま上がりこみ、棚を蹴飛ばし、置いてあった食器を床に叩きつける。
白い皿が割れた音と、ガラスの破片が散る音。
音のすべてが、悠翔の背中を這い上がってきた。
「なに、“家族”が来てやったのに、隠れてんの?
そっか、もう“兄貴”いらないってか?」
蒼翔の怒りはいつも、悠翔の存在を反射鏡のように使って肥大化する。
自分の苛立ち、失敗、落胆――それらを「悠翔のせい」に転化することで、彼は呼吸をしている。
数分後。
リビングの中央で、悠翔は無言で立たされていた。
蒼翔はソファに深く座り、タバコに火をつけた。
煙の向こうで、細い笑みを浮かべる。
「お前、ホント育てがいあったわ。
まだ従うじゃん。まだ、動けねぇの?」
手には、革のベルトが握られていた。
音もなく、それを床に落とす。だが視線は「拾え」と命じている。
悠翔は、目を逸らした。
その瞬間、右頬に衝撃が走った。
蒼翔の拳が飛んでいた。拳よりも、その後の声が冷たかった。
「“優しい子”ぶんなって言ってんの。
兄ちゃんの言うこと、ちゃんと聞けよ」
その後の記憶は曖昧だった。
ただ、痛みと羞恥と混乱だけが、染みついている。
上着は破かれた。押し倒されはしない。だが、服の下にまで「確認」は入る。
あざを残す場所を、知っている。
ベルトの金具は肩に当てる。肋骨に響く。音は残るが、証拠には残らない。
「なあ、寂しかったんだろ?だったら言えよ。
俺がいねぇと何もできねぇの、知ってんだろ」
ベランダの鍵を開け放ち、カーテンを引きちぎる。
叫べば近隣住民に聞こえるはずだった。だが蒼翔は、そうさせない。
「叫ばせる代わりに、黙らせる」術を心得ている。
冷蔵庫を漁り、酒を一気に流し込んだ蒼翔は、悠翔の首筋に顔を近づけた。
「次来たときも、ちゃんと開けとけよ。
鍵閉めてても、どうせ開けるけどさ」
深夜、浴室で血の滲んだシャツを脱ぎながら、悠翔は思う。
「兄は、俺の中にある“沈黙”の形を、完璧に知っている」
彼が置いていった空の煙草ケースの裏には、ひとこと、殴り書きされていた。
「また来る。そんとき“泣け”よ」