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#シリアス
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地下室での一件以来、伊織様の様子がさらにおかしくなった。
あの日を境に、伊織様は夜会へ出かける回数が極端に減り、夕食を家で食べることが増えた。
それどころか、私が家事をしていると、どこからともなく現れてはじっとこちらを見つめている。
「あの……伊織様? 何かお手伝いしましょうか?」
廊下で鉢合わせるたびに問いかけるけれど、伊織様は決まって顔を逸らし
「……別に。通り道だ」とぶっきらぼうに言うだけ。
でも、その耳はいつもほんのり赤い。
ある日の午後、私は伊織様に呼び出された。
向かったのは、あの地下の書庫。
今日は修復作業ではなく、整理整頓をしているようだった。
「紬。……これを持っていけ」
差し出されたのは、革装丁の小さくて可愛らしい本だった。
「これは……?」
「君、以前『実家では本が少なくて、同じものを何度も読んでいた』と言っていただろう。これは西洋の詩集を和訳したものだ。……言葉が平易だから、君でも読めるだろうと思ってだ」
伊織様は、わざとらしく棚の整理を続けながら、背中越しに言った。
私はその本を胸に抱きしめ、ぱあっと顔を輝かせた。
「……ありがとうございます! 私のために選んでくださったのですね。なんてお優しい……」
「書庫の整理をしていて邪魔だっただけだ。……ふん、どうせ難しい言葉は分からないだろうし、絵でも眺めて喜んでいればいい」
いつもの意地悪な言い方。
でも、私は知っている。
この本の栞が挟まれているページには、私が以前「好きだ」と言った季節の花の押し花が、そっと添えられていることを。
「伊織様。……やっぱり、素敵です」
「……何がだ。しつこいぞ」
伊織様の手が、ぴたりと止まった。
「ただ本を贈るだけでなく、私の好みを覚えていて、さりげなく元気づけてくださる。……そんな細やかなお心遣いができるなんて。伊織様は、本当の『紳士』なのですね」
私は一歩歩み寄り、振り返った伊織様の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「遊び人のふりをして、本当は誰よりも情が深くて、繊細で……。私は、そんな伊織様を、昨日よりももっと、尊敬してしまいます」
「…………っ!!」
伊織様の持っていた本が、音を立てて床に落ちた。
彼は目を見開き、まるで毒でも飲まされたかのように、胸を押さえてよろめいた。
「……つ、紬……君、それは……わざと言っているのか?」
「え? 嘘偽りない本心ですが……」
「……本心、だと……」
伊織様は顔を真っ赤に染め、わなわなと震えながら私に歩み寄ってきた。
逃げる間もなく、私は壁際まで追い詰められる。
伊織様の手が、私の横の壁をドン、と叩いた。
いわゆる「壁ドン」というやつだ。
「……いいか、よく聞け。俺は、君が思っているような高潔な男じゃない」
「……君にそんな、一点の曇りもない瞳で『尊敬します』なんて言われるたびに、俺の中の何かが……めちゃくちゃに掻き乱されるんだ!」
至近距離で放たれる、熱い吐息。
伊織様の瞳は、余裕たっぷりだったあの日とは違い
ひどく必死で、潤んでいるようにも見えた。
「尊敬なんて、もういい。……俺は、君に……」
「伊織様?」
「……あー、もう!! クソッ、なんでこんなに上手くいかないんだ!」
伊織様は叫ぶと、私を抱きしめるかと思いきや、そのまま自分の顔を私の肩に埋めてしまった。
「……お願いだ、紬。しばらくそのままでいろ。…今の君の顔を見たら、俺は……本当に、元に戻れなくなる」
「伊織様……?」
肩越しに伝わる、伊織様の激しい鼓動。
ドクンドクンと、まるで早鐘を打つようなその音は、私の胸の音と重なっているようだった。
「尊敬」という言葉が、どうしてこれほどまでに旦那様を追い詰めてしまうのか。
私にはまだ分からない。
でも、しがみつくような伊織様の腕の力強さに、私の心も少しずつ、ざわめき始めていた。