結局、日は地平の向こうへ飛び去って、女王のごとき夜の綺羅に世界は黒められた。時間はかかったが、ユカリたちは聖ジュミファウス図書館の前まで何の苦労もなくたどり着く。
とても東西に大軍で囲まれた戦時の街とは思えない雰囲気だ。再び戦争が始まって、まだ数日とはいえ、人々は昔から変わらず続く穏やかな夜を過ごしていた。
街を囲む城壁の上には歩哨が整列し、古の英雄たちを呼び起こす歌をうたいつつ、四方に絶え間なく視線を送り、外敵を監視している。しかし街を行き交う人々に来る戦を予感させるような悲壮感はなく、中層市民の多い屋台街は食事をしている者はいないが繁盛しており、酒を呷り、歌をうたっている。喧嘩の罵声や野次まで聞こえてきた。
一方、大図書館の周りは、城壁の上よりも厳重に密に衛兵が配置され、まさに厳戒態勢という様相を呈している。まるで図書館の中にこそ敵がいるかのようなありさまだ。
ユカリには分からなかったが、ベルニージュには見抜ける防護や罠の魔術が二重三重に施されている。ハウシグ王国歴代の知恵深き賢者たちが拵え、国主に奉った重要な魔術だ。
ユカリ、ベルニージュ、アクティアの三人は物陰に隠れて様子を見る。正面門には二人の衛兵が構え、鉄の門扉は固く閉ざされている。門衛所にも明かりが灯っているので、他にも人がいるらしい。
図書館自体は小さな燈火も音もなく、中に人がいる気配はない。
「できれば騒ぎを起こさずに入りたいところですが」ユカリは図書館やそれを囲む鉄柵を見渡しながら言う。「魔術は解けそうですか? ベルニージュさん」
「もちろん。時間があればね。問題はどうやって時間を稼ぐか」そう言ってベルニージュは王女の方をちらと見る。「でも、案外、殿下が命じればすんなり入れるかもしれませんね」
ベルニージュの物言いにユカリは冷や汗をかいたが、アクティアは特に気にしている様子もなく答える。
「分かりました。やってみせましょう」
張り切るアクティアを先頭にユカリたちは物陰から出て行く。門衛たちの前まで来るとアクティアは優美な微笑みを浮かべる。
「大変お待たせいたしました。門を開けてくださいますか?」
何のことか分からない門衛たちは目を細め、得物を構えないまでも警戒心を隠さない。
「何を言っている」と口髭の門衛が言った。「何人たりとも図書館に入ることは許されん。さっさと立ち去れ」
「おかしいですわね」と少しの焦りや緊張を感じさせることなくアクティアは演じる。「王女アクティアとそのお供が入館するということを聞いていないのですか?」
「アクティア王女殿下、ですと?」と顎髭の門衛が狼狽して言う。「確かに面影が、帰還の噂は聞いたが、しかし」
口髭の門衛の方が遥かに若いからか、アクティアの名を聞いても堂々たる佇まいだ。六年もの間、不在だったことで若い兵士には実感がないのかもしれない。
「いずれにせよ」と口髭の門衛が強い調子で言う。「王命です、殿下。お引き取りを」
「分かりました」とアクティアは答える。「あなた方の上官はいずこにおられますか? 確認を取っておきます」
「ああ、ちょうど門衛所に門衛兵長がいますよ」と顎髭の門衛は答える。「今、呼んできましょう」
そう言って、顎髭の門衛が門衛所に入るとしばらくしてさらに年嵩の門衛兵長が慌てた様子で出てきた。
「これはこれはアクティア王女殿下――」とまで言って門衛兵長は口を閉じる。
アクティア王女のそばに控えるユカリの体から力が抜け、ベルニージュが支える。口髭の門衛が怪しむ眼差しを送っているが気にせず、ベルニージュはユカリをおぶさる。
「えー。そうですな。話は聞いておりますぞ」と門衛兵長は言った。「もちろん。殿下がいらっしゃったわけですから。あー。門を開ければよろしいのですかな?」
そう言って門衛兵長はちらりと二人の門衛に視線を送る、特に顎髭の方を重点的に。
「もちろん我々にはそのようなことはできません」と顎髭の門衛が言った。「宮廷魔術師様を呼びに行かなくては」
ベルニージュに耳打ちされたアクティアが言う。「門衛所の方から入り、通り抜けましょう。そちらは薄いはずですからね。では失礼します」
顎髭の門衛は尋ねるような視線を門衛兵長に向ける。門衛兵長は、何も問題なしと身振り手振りで示す。
顎髭の門衛がおそるおそるベルニージュに尋ねる。「そちらのお嬢さんは大丈夫でしょうか?」
「ああ、気にしないで。ちょっと重いけどこれくらい平気」とベルニージュは冗談でも言うみたいに答えた。
門衛兵長がベルニージュを睨みつける。
三人の娘が門衛所に消え、しばらくして門の向こうに現れると三人の男は娘たちの姿が消えてなくなるまでずっと見ていた。
ユカリは自分の体が遠くへ運ばれていくのを不思議な気持ちで見送った。
ベルニージュの背中の揺れでユカリは目覚めるが、気づかれるまで負ぶさられたままでいることにした。人に負ぶさられるのはいつぶりのことか思い出そうとしたが、分からない。
ユカリは薄暗い視界に目を凝らす。図書館を囲んでいる鉄柵から離れていく。あの建造物の周りには庭園が広がっているらしいことはアクティア姫から聞いていた。すると今はそこを通り抜けて建物へ向かっているところだろう。
そしてユカリは、夜気とともに滴るような甘やかな香りが漂っていることに気づく。花の香りだ。それもただ一つではない。温かな布に包まれて抱き締められた時の香り。小川に飛び込んで全身が清められる喜びの香り。夜深くやにわに目覚めて怯えた子供を慰める香り。記憶にない想念が香りによって心の内に立ち上がる。
ベルニージュが立ち止まり、何事か呪文を唱える。すると大きく軋んで扉が開く。三人が潜り抜けると扉は再びひとりでに閉ざされた。
花の香りは追い出され、代わりに今度は本と埃のむっとするような臭いに包まれた。
ユカリはたまらず咳き込む。
「目が覚めた? ユカリ」とベルニージュが囁く。
「はい。今、ちょうど目が覚めました。眠ってたわけでもないですけど。ここはどこでしょうか?」
ユカリはベルニージュの背中から降りる。
「もう図書館に、聖ジュミファウス図書館に入ったよ」とベルニージュは悪戯が成功した子供のように楽し気に答える。
ユカリは閉ざされた扉を振り返って不安そうに呟く。「気が付いた門衛兵長が門衛たちとの食い違いに気づかないといいんですけど。一応さりげなく口止めしましたが」
「もしばれて彼らが入って来るにしても、人を集めてからだろうね」
どうやら窓に厚い窓掛でもかかっているのか、図書館の中に星明りすら入っていない。ベルニージュのかざす手の甲の魔法の炎だけが頼りだ。しばらく三人が手探りで歩き回ると、奥に小さな明かりが見えた。
「パーシャ様でしょうか?」とアクティアが囁いた。
「たぶん、ですけど気を付けてください」とユカリは答える。
三人はおそるおそる灯りの方へと近づいていく。
そこには分厚い甲板の机があり、何冊もの本が広げられている。灯をともした燭台があり、大きな羊皮紙の書物に若い娘が突っ伏して、寝息を立てて眠っていた。涎が本の大地の上に二本の大河を流している。
「これがパーシャ姫?」とベルニージュが呆れた様子で言った。
「ちょっとベルニージュさん。仮にも王女様ですよ!」とユカリはその娘を起こさないようにひそめく。
「ユカリさんもそこそこ失礼ですわ」とアクティアに言われて、ユカリは首をすくめる。「それはそれとして間違いなくパーシャ様ですわ。あの頃の面影がありますもの。とりあえず一度起きていただかなくては。本が傷んでしまいます」
涎をとくとくと流れ出させるままにする王女パーシャらしき人物の肩をアクティアが揺する。
「もし、もし。パーシャ様。アクティアですわ。お目覚めになってくださいませ。パーシャ様」
「ひぇ」と言ってその娘は目を覚まし、身を起こす。寝ぼけ眼で、信じられないものでも見たかのように目を泳がせる。
アクティアとは対照的にいかにもお姫様らしい煌びやかで贅美を尽くした着物を身に纏っていた。しかしアクティアとは対照的に、背が丸まり、両手のあるべき位置も分からずに慌てふためいている。
「うぅ……どうして? どうして人がここに? 自堕落なパーシャを懲らしめに来られたのですか?」
「いえ、そうではありません」とアクティアはきっぱりと否定する。「御久しゅうございます。パーシャ様。わたくしを覚えておいでですか? ハウシグ王国が王女アクティアです。実に六年ぶりでございますわね」
パーシャの見開いた瞳は、眉根が寄っていくと共に目尻を下げて、開きっぱなしの口を開閉しつつ慌てふためく。
「あ、あ、アクティア姫!? そんな、どうしてここに。パーシャは帰らないですよ!」
パーシャは勢いよく立ち上がると、暗闇の中へ全速力で逃げ出した。
「暗闇の中を走っては危ないですわ、パーシャ様」とアクティアが暗闇に呼びかける。
「ずっと幽閉されているから書棚の位置を把握しているんじゃない?」とベルニージュは呑気に言った。
しかし何かが何かにぶつかって、何かがどさどさと床に落ちる音がしきりに聞こえてきた。
「そうでもなさそうですね」とユカリは呟く。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!