『桜の向こうで、また。』
けたたましく機械音が鳴り響いた。
高音の電子音が、白い壁に反響する。
息を呑む音すら、空気に溶けていく。
――ピッ、ピッ、ピッ、ピ――――。
最後の一音が、まるで世界の終わりの鐘みたいやった。
「……やめてや、そんなん、嘘やろ……」
初兎は震える手で、ベッドの上の少女の腕を握った。
冷たくなっていく指先。
その温度を、どうしても手放したくなくて。
病室の窓の外では、春の風が吹いていた。
桜が満開で、花びらが風に乗って舞い込んでくる。
それがまるで、彼女を包み隠すように――やさしく、儚く、落ちていった。
「悠……うち、ちゃんと起きたら言いたいことあってん。まだ聞いてもらってへんのに……」
声が震える。
喉が痛い。涙が止まらん。
「なぁ、しょう。」
そう言って笑っていたのは、ほんの一週間前のこと。
あのとき悠は、ベッドの上で点滴の管を見ながら笑った。
「また来年、桜見に行こな」って、当たり前みたいに言うから。
「アホやなぁ、そんな先の約束して。春までに退院できるん?」
冗談めかして言ったけど、内心では胸の奥がズキズキしていた。
悠の病気は、進行が早い。
何度も手術して、何度も戻ってきて。
けど、もう医者が言葉を濁すようになっていた。
「できるよ、しょうと一緒に見たいもん」
悠は笑ってた。
細い腕でカーテンを開けて、光を見上げるみたいに。
その横顔を見た瞬間――うちは、あかんと思った。
「来年はもういないかも」って、悠はどこかで知ってる顔やった。
それでも、うちは信じたかった。
一緒に退院して、制服のまま桜の下で笑い合う未来を。
他愛もない約束を守れる日を。
毎日、病院に通った。
学校終わりに自転車を飛ばして、汗だくで駆けつけて。
「来たで」ってドアを開けると、悠はいつも嬉しそうに笑った。
「しょう、今日もはやかったな」
「うち、授業サボったんや」
「も〜、また先生に怒られるで」
そんなやりとりが、何よりも幸せで。
それが続くなら、どんな叱られ方でも構わんかった。
けど、昨日の夜。
悠の容態が急変したって電話が来た。
手が震えた。
制服のままタクシーに飛び乗って、病院に駆け込んだ。
「うちが……もうちょいはやく気づいとったら……」
悔しくて、泣きながら祈った。
あの笑顔をもう一度見せてほしいって。
神さまなんか信じてへんのに、なんべんも願った。
でも――朝を迎えた病室で、悠はもう動かなかった。
葬儀の日、空は晴れていた。
不思議なくらいに、青く澄んだ空。
春風が頬を撫でて、髪を揺らす。
白い花が並ぶ祭壇の前で、初兎は立ち尽くしていた。
悠の写真は、あの日の笑顔のまま。
「ずるいわ……そんな顔で笑われたら、ずっと忘れられへんやん……」
胸が痛い。
息が苦しい。
でも、涙はもう出なかった。
かわりに、そっと口の中で呟く。
「悠……うちは、まだ生きるで。悠のぶんまで」
声にならんほどの約束。
それだけが、今を繋ぐ糸やった。
――一年が経った。
春。
同じ道、同じ桜並木。
風が吹き抜けて、花びらが肩に落ちる。
初兎は立ち止まり、ふっと目を閉じた。
「悠……また咲いたで」
独り言みたいに呟いたそのとき――。
背後から、聞き覚えのある声がした。
「しょう」
初兎の心臓が、止まった気がした。
ゆっくり振り向くと、そこに――悠がいた。
真っ白なワンピース。
透けるような姿。
風の中に溶けるように、淡く光っている。
「……悠?」
「うん、うちやで」
微笑むその顔は、生前と変わらなかった。
でも、少しだけ、儚かった。
「なんで……うち、夢見てるんかな」
「夢ちゃうよ。……うち、来たんや。約束、守りにな」
悠はゆっくりと初兎に近づき、隣に並んだ。
桜の花が二人の間を流れる。
「来年、一緒に桜見よって言うたやろ? あれ、まだやってへんかったから」
「……バカやな、そんなもん、もう……」
言葉が詰まる。
胸の奥が熱くて、涙がまた溢れてきた。
「うち、ほんまに会いたかったんやで」
初兎の声が震える。
悠は優しく笑って、頷いた。
「うちもや。……しょう、泣かんでええよ」
「泣くに決まってるやん……! なんであのとき、もっと言われへんかったんやろ……悠のこと、好きやったのに!」
「知ってたで」
「えっ……」
「しょうがあんな顔して、毎日うちのとこ来てくれて。
“来年も”って、信じてくれて。……知らんわけないやん」
悠は笑った。
風が吹いて、彼女の髪が揺れた。
「ありがとう、しょう。うち、もう大丈夫や」
「行かんといて……!」
初兎が手を伸ばす。
でも、悠の体はもう透け始めていた。
「うち、ここにおったらあかんねん。ほんまはずっと前に行かなあかんかったけど……どうしても、この桜、一緒に見たかってん」
「そんなん……ずるいわ……」
「ずるくてもええ。……最後に、笑って」
桜の花びらが、一面に舞う。
風が吹き抜け、空がひらける。
悠の姿が、少しずつ淡くなる。
「しょう、来年もちゃんと見てな」
「うち、一人でも見るよ。けど……あんたのこと、忘れへん」
「うちも。しょうのこと、ずっと大好きや」
その瞬間、花びらが渦を巻いて――悠の姿が、光の粒になって空へと消えていった。
初兎はその光を見上げながら、涙をこぼした。
でも、今度は泣きながら笑っていた。
「……悠。うち、ちゃんと生きるで。
いつかまた、桜の下で会おな」
風が頬を撫でる。
あたたかく、優しい風やった。
その中に、確かに聞こえた。
――「うん、約束やで」
春の光が降り注ぐ。
満開の桜。
ひとひらの花びらが、初兎の手のひらに落ちる。
それはまるで、悠の笑顔の欠片みたいに、柔らかかった。
初兎はそっと微笑み、空を見上げる。
「また来年な、悠」
桜吹雪が、光のように二人の記憶を包み込んだ。
もうこの世にはいない少女と、まだ生きている少女。
それでも、約束は確かにこの空の下に残っていた。
――桜が咲く限り、二人の春は終わらない。
コメント
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は、儚い...感動...マジ普通にそういう本とか売ってそう()