テラーノベル
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「とにかく入りな」
正平に促されて家の中に入ると、広くて明るいリビングの真ん中にグランドピアノが置かれていた。そのときになって乃江は二人がグルだったことにやっと気づいた。
神原桜子が乃江の声を褒める。そして乃江の歌を歌いながら正平が乃江に近づき、乃江に歌っていた頃を思い出させて、その上であの言葉を言う。
「神原桜子に見込まれると、歌姫になれる」
まんまと二人の思う壺にはまったというわけか。我ながらマヌケで笑う気にもなれなかった。
「私は神原桜子。あなたのファンよ、乃江」
桜子が差し出した手を乃江は無視した。
「ファンですか? とっくに終わっている私にファンなんていませんよ」
「じゃあどうしてここに来たの?」
桜子の言葉に乃江は何も言えずに、ぐっと手を握り締めた。手のひらに爪が食い込んで痛かった。そんな乃江に桜子は続ける。
「確かにあなたは一度歌うことから離れた。でも歌うことが嫌いになったわけじゃない。心底嫌いになっていたら私が渡したものなんて破り捨てて、ここへは来なかったはずよ。あの晩の正平さんの話から、ここへ来れば歌うことになるのはわかっていたでしょう。私はあなたに注目していたのに、ちょっと日本を離れている間にあなたは歌の世界からいなくなってしまっていた。探すのに結構苦労したのよ。ねえもう一度歌ってくれないかしら」
桜子が鍵盤に触れてひとつ音出しただけなのに、乃江の腕には鳥肌が立った。ずっとこの音を乃江の耳は恋しく思っていたのだろうか。乃江の全身はスポンジになったように桜子が奏でるピアノの音色を吸収していく。吸って、吸って、吸い込んで。乃江の乾いてしまっていた心が潤されていく。すると今度は吸ったものを吐き出したくなる。乃江は思いっきり声を出した。ピアノの音色がいいせいだろうか。長い間、堪えていたものを解き放つように気持ちよく歌っていた。
「やっぱりあなたのファンよ、乃江」
桜子は満足したように微笑んだ。
コメント
2件
ありがとうございます
わあ、第6話…!乃江、ちゃんと二人の策略に気づいてたんだね。でも「マヌケで笑う気にもなれなかった」って、そこに彼女の本当の傷の深さが見えた気がした。それなのに、桜子のピアノの一音で鳥肌が立って、心が潤って、最後には歌い出しちゃうところ…もう、読んでるこっちの心もぎゅっとなった。乾いたスポンジが水を吸うみたいに、自然に声が出るって、やっぱり彼女は歌うことが好きなんだよね。桜子の「ファンよ」って言葉も、演技じゃなくて本心な気がした。続きがすごく気になる…!
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