彼のその問いかけで百子はますます訳が分からなくなり、カップを持ったまま動きを止めた。何なら涙も引っ込んでいる。
「東雲、くん……何を言って……」
百子は陽翔の言葉を頭の中で何度も反芻して、昨日の彼の行動と照らし合わせると、何となく彼の考えが分かりかけてきた。分かりかけてもなお、相変わらず自分の頭は出てきた回答を拒否しているが。
「俺にしろよ、百子。別に見合いなんてしなくても、相手ならここにいるだろうが。何なら来週百子のご両親のところに俺を連れていけばお前の懸念は解決するぞ」
百子はようやく陽翔の眼鏡の奥に真剣さと熱がこもっていた事に気づく。やっと気づいたというよりは見てみぬふりをしていたに近いが、それを受け止め切れなかった百子はふいと視線を彼から外し、カップをテーブルに戻す。カップを見つめながら、百子は首を振って告げた。彼女の膝に置かれた小さな手がぎゅっと握られる。
「そんなことしたら……何か私が東雲くんを利用してるみたいじゃないの……迷惑かけちゃうし、東雲くんの時間を奪っちゃうし……今も十分良くしてもらってるのに、これ以上甘えられないもの。私は東雲くんに何一つ返せてないのに」
陽翔はため息をつきたかったが、すんでのところで飲み込んだ。ここでため息なんてついてしまうと百子が萎縮してしまうと思ったのだ。
「まだそんなことを気にしてんのかよ。別に百子になら利用されたっていい。俺が勝手にやりたいって思ってるだけだ。俺がしたいからやってんだよ。それとも百子が俺と暮らすのが嫌なのか?」
百子は激しく首を振る。むしろ真逆で、陽翔と過ごしていると気を張らずに、素のままの自分でいられてそれが心地良いのだ。しかしそれでも自分の心に巣食う不安は一向に無くならない。それどころか、陽翔と一緒に過ごしたいと思えば思うほど、その不安はまるで心臓をコールタールが覆っているかのようなべったりとした感触で、じわじわと百子の心を蝕んでいくのだ。
「……裏切られたく、ないの……。東雲くんといると落ち着くし楽しいわ。でも……それが急に無くなるのは嫌。もう嫌なの……」
「なるほどだからさっきから俺を見ないのか」
低いながらも、やや哀しさを感じられる声音が聞こえたと思えば、百子の視界が陽翔の双眸を映す。陽翔の両手が頬を固定したので、その眼鏡の奥の強い光をまじまじと見る羽目になる。その力強さを灯した光は真っ直ぐに百子を見つめており、百子は彼の視線に絡めとられそうになった。
「百子、聞いてくれるか? ずっと言いたかったことがあるんだ」
百子の両目が大きく開かれ、僅かに顎が引かれる。陽翔の眼鏡の奥がより熱を孕み、百子を貫いた。
「好きなんだ、百子。結婚を前提に付き合ってほしい。お前のその心の重荷も俺に背負わせろ。何があっても守るから、俺の側にいてくれ」
(け、結婚……?)
好きだとは昨日も言われたものの、まさか彼が結婚まで考えているとは思わず、百子は狼狽して陽翔の喉仏辺りに視線を彷徨わせる。
「東雲くん……わ、私と……結婚……」
うわ言のように百子が呟き、顔どころか首まで赤くしている彼女を見て、陽翔は片手を彼女の肩に起き、もう片方の手で髪を梳く。
「大学の時からずっと好きだった。お前は彼氏のことを嬉しそうに話してたから、幸せになってほしいと思いながら見てた。だが百子が元彼に浮気されて悲しんでるところを見たら、何がなんでも俺が幸せにしたいと思ったんだ。一緒に住むようになったらもっとその気持ちは大きくなった。だから百子、俺の側にいてくれ」
百子の眉が下がり、みるみるうちに両目が潤んだと思えば、それらは雫となってはらはらと落ち、パジャマのズボンにしみをつくる。
「私……東雲、くんを好きに、なって、いい、の?」
「……! ああ! なってくれ……!」
彼女の涙を見てぎょっとしていた陽翔だったが、彼女の口から肯定的な言葉が出て思わず胸の奥が熱くなり、思わず彼女の両肩をつかむ手に力が入る。
「……きらいに、ならない……? 離れていったり、しない?」
「……っ!」
百子がそう言い終わらないうちに、気がついたら百子は背中に彼の両腕が回され、彼の胸板の熱さを感じていた。彼の体温に染まるがごとく、高鳴る胸は収まる気配をまるで見せない。
「離れるつもりも、離すつもりもねえよ……!」
百子がぎゅっと陽翔のパジャマを掴む。陽翔は滾る血潮に浮かされて、百子を少しだけ離したかと思うとその唇に口づけした。百子が少しだけ舌を入れてきたので、性急に自分の舌をするりと彼女の口に侵入させて絡ませる。ミントの香りと清涼感のためか、陽翔が舌のみならず、上顎や舌の裏まで丁寧に舌でなぞるので、百子は早くも力が抜けてしまう。唇が離れると、陽翔の胸にくったりと体を預けてしまった。
「俺もだ。一緒に料理している時とか、ご飯を食べてる時なんかは、本当の夫婦みたいだなと何度も思ってた」
「……私も、東雲くんと一緒にいるのが楽しい。また家とか……元彼のことで……色々泣くかもしれないけど……」
「別にいい。百子の傷が癒えるまで、いや、ずっと俺が支えるから。まだ傷が癒えてなくても、ここに百子を愛しく思う人間がいることは忘れないでくれ」
百子が頷くと、陽翔は彼女の涙を指で拭い、彼女の額にキスを落とした。そして彼女を抱き上げたかと思うと、部屋にあるベットにゆっくりと彼女を下ろした。
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