ベルニージュは毛長馬ユビスを駆り、銀灰の長毛を戦場の煙のように棚引かせる。サンヴィアの荒れ野を風よりも速く北へと走るその姿を見た狩人たちは様々に噂した。冬と共にグリシアン大陸にやってきた魔性が春の到来を前に帰って行くのだとか、《死》が新たな獲物を見つけ、喜び勇んで駆けて行ったのだとか。
己がサンヴィアの北の大地に不安を振り撒いているとは露とも知らず、ベルニージュは何度も何度も頭の中でクオルを追い詰める作戦を思い描く。その策に穴がないわけではないが、他により良い方法は思いつかない。
同時に南と西の二か所で文字を光らせ、北東方向にクオルを追い詰める。という作戦は言葉にすれば簡単だが、失敗の危険は多分にある。
同時に光らせるといっても、全く同じ瞬間である必要はない。最低でも、二か所を移動して光らせたとクオルに思われない距離をとれば、数日ずれても構わないくらいだ。それでもクオルには多少の恐怖を抱かせ、大きな焦りを生ませることができるだろう。
サンヴィアの北には北極圏に接する海が広がっている。工房馬車を捨てて海に出るはずもないので、ユカリが南に、ベルニージュが西に陣取ればクオルはサンヴィア北東へと向かうしかない。
元型文字自体は問題なく作れるはずだ。【穿孔】。対応する詩は”穴の底で”だ。穴の底に文字を書くほかない。それに嘴で断崖に文字を刻むよりは遥かに簡単だ。
あとは時間の問題だ。クオルがもし今、西に向かっていて、二か所で文字を完成させた時にすでにベルニージュよりも西にいたなら全ては水の泡だ。
西には十分移動したが、もう少し北へと進んでおきたい、とベルニージュは考えていた。万が一にも、北から回り込んで逃げようなどとクオルに思わせたくはない。
雲に透けた乳白色の太陽がささやかな温もりと幸いを供に南の頂へと至る少し前、白樺を主とする深い森に入ると、ベルニージュは妙な不安を感じた。人の道が確かにあり、足跡も見かけた。遠目に炊事の煙も見えた。それはこの土地では最も大きい宿場町から上がっている煙だ。
聞こえてきた水音が不安を増長させる。それは、長い人生を揺蕩う無力な人間を押し流す《時》の笑い声に似ていた。足を取る者の嘲りであり、立ちはだかる者の罵りだ。
クオルの工房馬車とは違うが新しい轍があった。いくつもある。舗装はないが、足と車輪によって敷かれた重要な道だ。
以前に買ったあまり正確ではない地図を取り出すことなく、ベルニージュは頭の中に思い浮かべる。この白樺の森は、向こう山地より西から東へ流れ来る暴れ川の両を挟むように広がっている。
ここへ至るまでに旅の交わった人々に聞いた話では、ベルニージュとユビスの行くこの道は人通りのある道であり、川には橋がかかっており、岬の町まで真っ直ぐに伸びていて、決してどこかで寸断されているわけではない。
どこかの誰かに聞いたその言葉を信じたかったが、《運命》はベルニージュを裏切り、崩れた石橋のたもとにわずかに残った欄干の上で行き場のない人間たちをせせら笑うように踊っている。人の嘆きに呼吸を合わせて、石橋を責めるように踏み叩く。川の流れに調子を合わせて、湿った空気を絡めとるようにくるりと回る。
ベルニージュは静かに荒れるユードル川を眺め渡す。増水しているせいで正確には分からないが、元はかなり大きくて長い橋がかかっていたようだ。岸には多くの旅人と付近に住む者たちが集まっていた。それは対岸でも同じようだ。
沢山の人々が不満げに濁った川を見つめ、幾人かは旅に困難は慣れたものと休憩し、談笑している。橋の修理など早くても数か月先の話だろう。
「ユビス。君、泳ぐのは得意?」とベルニージュはユビスに尋ねる。
言葉は通じないが、ユビスは訴えかけるような眼差しを向ける。
「分かってるって。仮に泳げたとしても、濡れれば走れなくなるしね」
ベルニージュがユビスを連れて、人々の元へ分け入ると途端に視線を一挙に集める。このように毛が長く大きな馬を見た者は一人としていなかった。無遠慮な子供の何人かが歓声を上げて走り寄り、しかし恐れをなしてユビスを遠巻きに眺める。
ベルニージュはユビスから距離を取るように離れていく旅人たちを分け入り、女性混じりの隊商らしき集団のもとへ向かった。焚火を囲む六人の人々が顔をあげてベルニージュを待ち受けた。警戒と好奇の入り混じった表情を浮かべている。
「すみません。少しお話よろしいですか?」と、ベルニージュは赤子を抱えた恰幅の良い女に話しかける。
「数ある旅人の中から我々を選ぶとはお目が高いね、お客さん」と軽口を言ったのは女の隣に座っていた髭面の男だ。
「馬鹿言ってんじゃないよ」と女は溌剌に言うがユビスから目を離さず、髭面の男に赤子を渡す。「どうかしたのかい? きっと困ってるんだろうとは思うけどね。見ての通り、今ここにいる人たちはあたしら含めてみんな大体困ってるからね。助けになれるかは分からないけど」
「いえ、ここでお休みになられているからには、川を渡る当てがあるのかな、と思いまして」
「ああ、もちろん橋が修理されるのはずっと先だよ。ここは神殿からも遠いからね。でも渡し船が下流から来たのさ」と言って女は対岸を指さす。確かに対岸にはそこそこ大きな帆船が三隻停泊していた。「いつもはもっと幅広の下流で商売している連中らしいがね。商魂たくましいことさ。どれも大きな船だけど待ってる人は多いよ。嬢ちゃんが乗る番はいつになるやら分かんないね」
「大体なんで三隻ともあっちに行くんだかね」と髭面の男が愚痴る。
岸辺で船を待つのは人間だけじゃない。荷物、馬、馬車。三隻の船が何度往復すれば全て渡り切れるのだろう。
「しかし分からんもんだ」と髭面の男が言う。「確かにここ数日、冬のサンヴィアにしては雨が多かったが、石橋を崩すほどユードルが氾濫するなんて聞いたことがない」
ベルニージュは隊商の人々に感謝して、川べりへと向かう。
茶色く濁ったユードル川にはいくつかの橋脚を除けば両岸に僅かの橋桁を残し、橋は完全に崩れ去っていた。確かに、頑丈そうな橋だ。とても水の流れだけで壊れたとは思えない。かといって悠久の時の仕業でないことは間違いない。
対岸から一隻目の船が発つ。橋脚の残骸に沿うようにして、こちらへと渡って来る。川の流れは少しばかり速いが、風のとらえ方が上手いのか優れた魔術師でも乗っているのか船は真っ直ぐに進む。
その時、ベルニージュの目の端に黒い影が映ったが対処する暇もなく、影は素早く船へと近づいて川面から飛び掛かった。その長く太い影は水飛沫を巻き上げつつ瞬く間に帆船に巻き付いて、枯れ葉でも握るように絞め潰した。その正体は人間など一口で丸呑みにする巨大な蛇だった。
哀れな旅人たちは川に投げ出され、渡し船はばらばらになってユードルに沈む。巨大蛇が再び川に身を潜めると、白樺の森が凍り付いたかのような沈黙が張り詰め、岸辺で事の成り行きを見た人々の悲鳴によって瞬時に叩き割られる。対岸の人々の悲鳴さえ聞こえてきた。
誰もかれもが川に隠れた蛇を恐れて逃げていく。今にも森から飛び出してくることを恐れているかのように。
ベルニージュは悲鳴の隙間に何か聞こえないかと耳を澄まし、水煙の向こうに何か見えないかと川面を睨む。
サンヴィアではつくづく蛇に縁がある、とベルニージュは思う。蛇使いの焚書官ルキーナの透明の蛇カーサ。その抜け殻。コドーズの蛇みたいな鞭。
ユビスは無関心に草を食んでいた。
「あんたも一飲みだって分かってる?」とベルニージュは呟くがユビスは聞く耳を持たない。「ああ、ユビスなら追いつかれることなく逃げられるか。まさかとは思うけどワタシを置いて逃げたりしないよね?」
ユビスはのんびりと草を食むばかりだ。
その間にも巨大蛇は折れた橋脚の一つに巻き付き、鎌首をもたげて獲物でも探すように両岸に眼差しを向ける。あの蛇に石橋を絞め潰す、なんて芸当ができるだろうか。ベルニージュは己が問いを否定する。木造の帆船とはわけが違う。
ふと川へと突き出された欄干の端、切断箇所に違和感を覚え、ベルニージュは壊れた橋を歩いて近寄って見てみる。他と同じく石でできた硬い欄干が捻じれている。そのような彫刻かとも思ったが、他にそれらしい彫刻は見当たらない。
橋を落とした者は何者なのか。少なくとも魔術を扱う者であることに間違いはない。
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