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『激情』
ああ、大地より玉藻の悲しみと苦しみが伝わりぬ。
玉藻よ、涙を禁じよ。
汝の哀しみを我が受け止めん。
玉藻の悲しみは我は受け入れた。
汝が涙を落とすのは全て杜若。
杜若が汝を苦しめていることなり。
疾く急ぎ。我が杜若を排撃しよう。
悪しき杜若よ、貴様はただの人の子。
取るに足らぬ。
我には四百五十万の人質がいる。
驚きのうちに屠ってやろう。
そして、杜若の首を持って玉藻を迎えに行こうぞ。
※※※
『それぞれの決断〜ゲッカビジン〜』
環を預けて俺はすぐに、準備を整えて車で大聖病院へと向かっていた。
環への思いに後ろ髪を引かれる思いだったが、気持ちを鎮めて少し時間が経ってから、車の中からルームミラーを見た。
ミラー越しに、俺が乗っている車を先頭に、後ろには数台の黒い車が土煙を上げて走っていた。
既に帝都全体に緊急事態が発令されている。
警察の協力もあって車の中から見える街の景色は、今のところ大きな混乱は見えない。
窓ガラスの向こうの街の人々は不安な表情を浮かべながらも、速やかに指定された避難場所に移動しているように見えた。
「杜若様。車で大聖病院までおよそ十五分ほど。今はこの大通りには大きな混乱は見えませんが、病院付近は混乱していると、梔子家からの伝達がありました」
車内に運転手の落ち着いた声が響く。
「被害状況は分かりますか?」
「先ほど起こった地震の被害はほぼ無いと思われます。しかし、現場の病院については不明です」
「他は?」
交差点を曲がるときに車の速度がゆるりと落ちて、外から「妖が現れた!」という、避難している人達の声が微かに聞こえた。
背筋を正して、自然に拳に力が入る。
「はい。緊急事態妖対策法に則り、帝都全ての大通りを緊急避難経路として経路確保の指示を発令済み。土蜘蛛発生の大聖病院は周囲五百メートル四方全て封鎖。その手前で車を止めます。そこからは関係者しか入れません」
「ありがとうございます。では、車で引き返す時に負傷者が居ればこの車に乗せても構いません。最優先で避難場所へと輸送を。また、車を破棄する場合は大通りに放置しない。私を下ろした後は、常に大通りなどの動線確保に努めてください」
帝都の大通りは人体で言えば大動脈。
ここが詰まってしまえば細部に支障が出る。避難と道の確保は最優先事項だった。
運転手は「はい」と返事をして、車の速度を上げた。
少しずつ病院に近づくたびに、逃げ惑う人々が多くなっている気がした。
日も落ちてきて夜が訪れてしまった。薄暗闇が余計に不安を後押ししていると思った。|街灯《がいとう》には明かりが灯っているが、全ての不安を払うには頼りなく。闇を濃く照らしているに過ぎない。
これは所謂、市街戦と変わりない。
さすがに戦争を体験したことはないが、土蜘蛛は本体の妖力が尽きぬ限り、幾らでも分身である幼生体を生み出せる。
本体より力は落ちるが、普通の人が敵う相手ではない。
多分、今は現場に一番に到着したであろう梔子家が足止めをしているはず。
その間に仕留めないと何千匹、下手をしたら何万匹の土蜘蛛が帝都に|蔓延《はびこ》ることになる。
「そんなこと絶対にさせるか」
握り締めた拳を解く。
懐から白い手袋を出して嵌める。
そのとき、白いハンカチが膝の上に落ちた。そのハンカチには血の染みが付いていた。
それは環の傷付いた指先に俺が巻いたものだが、環の指から抜け落ちて、俺が回収したものだった。
赤い染みを見て心が痛くなる。
「環……」
環は前世を|白面金毛九尾《はくめんこんもうきゅうび》の狐の生まれ変わりだと告白した。
否定するにはその人目を引く容姿。
炎を扱うこと、土蜘蛛に狙われていること。
最初に環と出会ったとき、環は自ら九尾だと告白していたことなど──様々な記憶が蘇った。
それに帝に言われた言葉もある。
「けど、俺が| 阿倍野晴命《あべのせいめい》だとは思えないな……」
その部分だけは|懐疑《かいぎ》的だったが、環の前世の告白は『そんなバカな』という気持ちすら、湧くこともなく。
──そうだった。
環の前世は九尾だ。
そんな素直な感覚に包まれた。
驚きもあったが、落ち着いた心で受け止められた。
だが前世が何者だろうかなんて、俺に確かめようが無い。
環が九尾だろうとなんだろうと関係ない。
環は俺の妻だ。
その環が土蜘蛛に狙われたことで、迷惑を掛けると泣いた。
九尾だから俺に嫌われたくなかった、嫌われるのが怖かった。
一人で悩んだ挙句、人に迷惑を掛けたくないと、たった一人で土蜘蛛をなんとかしようと思った女を──愛しいと思った。尊いとすら思った。
そんな環を土蜘蛛などにくれてやるわけがない。
ハンカチを懐に戻して、ギリっと奥歯に力を入れたとき。
窓の向こう側から、大きな喧騒が聞こえたかと思うと、車がギュンッとブレーキを踏んだ。
そしてすぐに俺の体全体に、ぐんっと前に押し出されるような力がのし掛かり、手を前に突き出して体を支えた。