コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
空が淡く群青に染まり始め
喫茶 桜の裏庭には
何処か冷えた空気が
満ち始めていた。
舞い散る桜の花弁は
夕闇の中でぼんやりと浮かび
濃淡のある紅が
土に溶け込んでいる。
時也は静かに袖を翻し
指先に挟んだ数枚の護符を
軽やかに宙へと放った。
護符はふわりと風に舞い上がり
淡く紫がかった光を帯びながら
空中で桜の花弁へと変わる。
花弁は静かに舞い踊りながら
ソーレンの身体を絡め取る
枝へと降り注いだ。
しゅるり──。
花びらが触れた瞬間
桜の枝は音もなく裂け
まるで溶けるように千切れていく。
絡みついていた蔓が
するすると解け
最後には全てが
静かに土へと還った。
ソーレンは解放されると
地面に軽く着地し
無造作に首を鳴らす。
「はぁ⋯⋯」
その小さな吐息を漏らしたのは
レイチェルだった。
藍色の着物の裾に手を添え
ふらりと身を揺らすと
その身体は
ゆっくりと変化し始める。
黒褐色の髪は
次第に黒髪へと戻り
凛々しかった面立ちは
柔らかく幼さの残る顔立ちへと
変わっていく。
藍色の着物は
いつもの喫茶 桜の制服に戻り
エメラルドグリーンの瞳が
何処かほっとしたように細められた。
「⋯⋯戻れた⋯⋯」
か細く呟いた声は
自分が〝自分〟である事を
確かめるようだった。
擬態の解除は
まるで溺れかけた後に
漸く水面に顔を出したような
感覚に陥る。
「全く⋯⋯
外が騒がしいと思って来てみれば。
お二人とも
怪我が無くて⋯良かったです」
時也は穏やかに笑い
僅かに肩を竦める。
けれど、その声音には
軽く咎めるような
響きが混じっていた。
「ふん。怪我なんてするかよ」
ソーレンは鼻を鳴らし
背中を乱暴に払う。
埃を散らしながら
彼は片手に斧を担ぎ上げ
レイチェルを見やった。
「レイチェルの擬態で
コピーされた能力は
半分程度ってとこだったからな」
「⋯⋯半分、ですか」
時也が目を細め
思案するように呟く。
その声は柔らかだったが
僅かに冷えた響きが混じっていた。
「ですが
貴方を倒すくらいは
半分程度でも余裕でしょうね?」
「⋯⋯は?」
ソーレンの眉が
僅かに顰められる。
時也の口元には
優しげな笑みが浮かんでいた。
けれど
その言葉の裏にある鋭い皮肉は
鋭い棘となって
ソーレンの耳に突き刺さる。
「僕に擬態するのは
正解でしたね。
ソーレンさんが二人だったら
今頃お店はどうなっていた事か⋯⋯」
「はっ⋯⋯言ってくれるじゃねぇか」
ソーレンの口元が歪み
わざとらしく咥えた煙草を
火のついていないままに
咥え直した。
「事実を言ったまでですよ」
時也は相変わらず
穏やかな笑みを崩さない。
その笑顔のまま
静かに着物の袖を整え
視線をレイチェルへと向ける。
レイチェルは震えていた。
冷たい夜気が
肌を刺している訳ではない。
けれど
先程の自分が
〝時也〟となった記憶が
今でも鮮やかに
脳裏に焼き付いていた。
「⋯⋯夜になり始めましたね」
時也がふっと夜空を見上げ
静かに微笑む。
「中に入りましょうか」
その声は
今までの静かな威圧感とは
まるで違った。
優しく、どこまでも温かく。
夜風が吹き
紅く染まった桜の花びらが
ふわりと舞い上がる。
その花弁が
次第に夜の闇へと溶けて消えていくのを
レイチェルは
ぼんやりと見つめていた。
「今日は⋯⋯お先に失礼しますね」
リビングに戻ると直ぐに
レイチェルの声は掠れ
震えていた。
彼女の顔は青ざめ
唇の色まで薄くなっている。
ソーレンが
「おい、大丈夫か?」
と声をかけるよりも早く
レイチェルはふらつくように足を運び
居住スペースのリビングを出て
階段へと向かった。
彼女の後ろ姿は
どこか頼りなく
消え入るようだった。
「⋯⋯なんだ、アイツ?
真っ青だったが⋯⋯能力の影響か?」
ソーレンは片手で頭を掻きながら
時也の方を見た。
「彼女は、僕に擬態して
⋯⋯僕の記憶を見てしまったようですね」
時也の声は淡々としていたが
その声音の奥には
僅かに苦みが滲んでいた。
「お前の記憶、か⋯⋯」
ソーレンは眉を寄せ
面倒事だと言わんばかりに
おおきな溜め息を吐いた。
「なら
あーなっちまうのも⋯頷けるな」
時也は静かに目を伏せ
ソーレンと共に
階段の方へ視線を向けた。
階段の上
レイチェルが消えた扉は閉じられ
静寂が戻っていた。
カチ⋯⋯。
アリアのカップが
静かにテーブルに置かれた。
彼女は
これまで閉じていた深紅の瞳を開き
無言のまま
階段の先を見つめる。
その視線は
何も語らぬはずの彼女の表情に
僅かに憂いの色を浮かべていた。
⸻
レイチェルは部屋に駆け込むと
崩れ落ちるように
ベッドに倒れ込んだ。
震える手でシーツを引き寄せ
そのまま包まるように
身を丸める。
「⋯⋯時也さん⋯⋯っ」
その声は
しゃくり上げるように掠れ
次の瞬間
瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
視界が滲み
呼吸がうまく整わない。
擬態の最中
時也の思考と記憶が
入り込んできた。
「⋯⋯時也さん⋯っ
なんで⋯⋯っ!」
レイチェルはシーツを握り締め
喉の奥から漏れ出る嗚咽を
堪えようとした。
けれど
胸を締め付ける苦しさは消えず
ただ涙だけが
止めどなく溢れていく。