テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
【仕事で失敗したら】
パソコンの画面に表示されたエラーメッセージを見つめたまま、指先が冷たくなっていく。
今日のプレゼン資料、データが一部消えてしまった。
会議まであと30分。どう頑張っても、間に合わない。
「……やっちゃった」
喉の奥が詰まり、視界がぼやける。
そんな時、後ろから低くて落ち着いた声がした。
「お前、顔色悪いぞ。何があった?」
振り返ると、吉沢亮──私の直属の上司が立っていた。
スーツの襟元から、ほのかな香水の匂いが漂う。
必死に笑顔を作ろうとするも、うまくいかない。
「資料……一部消しちゃって……もうダメです」
声が震え、情けなさで涙がにじむ。
吉沢さんは何も言わず、私のデスク横に腰をかけた。
「……おいで」
そう言って、私の頭を軽く引き寄せ、肩に手を置く。
「失敗なんて誰でもする。俺だって昔、もっと酷いのやったし」
耳元で低く囁かれる声に、胸の奥がじんと熱くなる。
「でも……」
「でもじゃない」
吉沢さんは私の目を真っ直ぐ見つめ、少しだけ口元を緩めた。
「お前の頑張り、ちゃんと俺が見てる。だから一緒にやり直そう。
……俺がついてる」
その一言で、胸の重石が少し軽くなった気がした。
震える指でキーボードを叩くと、隣で吉沢さんが静かに笑った。
「そう、それでいい。ほら、もう一回勝負しよ」
会議室に向かう時、隣を歩く彼の横顔がやけに頼もしく見えた。
会議は、想像していたよりもずっと穏やかに終わった。
吉沢さんが要点をまとめ、私が説明しやすいようにさりげなくフォローしてくれたおかげだ。
「お疲れ」
会議室を出た瞬間、彼が紙コップのコーヒーを差し出してくる。
まだ湯気が立っていて、手の中がじんわり温かくなった。
「……ありがとうございます」
「俺がいなかったら今頃灰になってただろうなw」
少し意地悪そうに笑うその顔に、思わず視線を逸らす。
そのまま定時を過ぎ、オフィスには私たちだけが残った。
蛍光灯の光が少しだけぼんやりしていて、静かすぎる空気に心臓の音がやけに大きく響く。
カタカタとキーボードを叩く音が止まり、吉沢さんが椅子をくるりとこちらに向けた。
「……泣きそうな顔してたのに、よく頑張ったな」
「泣きそうじゃなくて、泣いてました……」
「知ってる」
くすっと笑うその声が、胸の奥をやさしくくすぐる。
「俺、ああいう時放っとけないんだよ。特に、お前のことは」
一瞬、時間が止まったように感じた。
彼の視線が、真っ直ぐ私を射抜く。
何かを返そうと口を開きかけた時──
「……あ、また赤くなってる」
吉沢さんは立ち上がり、私のデスク横に近づく。
そして、軽く私の髪を撫でながら低く囁いた。
「安心しろよ。これからも、何があっても俺が隣にいる」
その距離の近さに、顔がますます熱くなる。
キーボードを叩く手はもう完全に止まってしまった。
外の夜景が滲むオフィスで、二人きりの残業時間は静かに過ぎていった。
残業を終え、エントランスを出ると、夜の空気がひんやりと頬を撫でた。
街灯の下、ビルの影が長く伸びる。
「送ってく」
吉沢さんが当たり前のように言う。
「えっ、駅まで一人で大丈夫ですから」
「俺が大丈夫じゃない」
その即答に、心臓が一気に跳ねた。
二人並んで歩く帰り道。
昼間のオフィスでは感じなかった静けさが、妙に落ち着かない。
信号待ちで立ち止まったとき、ふいに彼がこちらを見る。
「……○○」
名前を呼ばれた瞬間、足元から熱がこみ上げてくる。
「さっきの会議……お前、最後まで諦めなかっただろ」
「……でも、私、途中でミスして……」
「それでも立て直したのは○○だ」
真っ直ぐな声が夜の空気に溶ける。
胸の奥がじんと熱くなり、視線を落とすと、指先に柔らかい感触が触れた。
──吉沢さんの手。
驚いて顔を上げると、彼は少しだけ視線を逸らしながら口角を上げた。
「寒いだろ。……ほら」
握られた手から、じんわりと温もりが広がる。
街灯の光が二人の影をひとつに重ねた。
駅に着くまで、私たちは手を繋いだまま、何も言わなかった。
でも、その沈黙は不思議と心地よかった。
駅前の人通りが少ない路地で、私たちは足を止めた。
改札の向こうには、いつも通りの帰り道が待っている。
でも、今夜だけは、この瞬間がずっと続けばいいと思った。
「じゃあ……今日はありがとうございました」
少し名残惜しさを押し隠して頭を下げる。
吉沢さんは「ん」と短く頷くと、ふいに私の方へ一歩近づいた。
その距離は、手を伸ばせばすぐに触れられるほど。
「……○○」
低くて落ち着いた声が、耳の奥に直接落ちてくる。
思わず顔を上げると、彼の瞳がまっすぐに私を見つめていた。
「今日、すごく頑張ったな」
「……でも、失敗も……」
「そんなの関係ない。お前は俺の自慢の部下だ」
その言葉に胸が熱くなった瞬間、彼がさらに顔を近づけてきた。
そして耳元で、吐息混じりに囁く。
「……おやすみ、○○。ちゃんと休めよ」
頬をかすめる声と温もりに、全身が一瞬で熱くなる。
彼はそれ以上何も言わず、軽く手を振って背を向けた。
去っていく背中を見送りながら、私はしばらく動けなかった。
改札を通って電車に乗っても、心臓の鼓動はなかなか落ち着かなかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!