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酒井はふらつく足取りのまま、精神科の待合室へ入った。
「酒井さん……?」
大輝が横で怪訝そうに俺を見る。
いつもなら、俺の腕を支えるようにそっと触れるのに、今日は触れてこない。
それが逆に気に障った。
「なに?」
「いや……なんか、今日、酒井さん変っすね」
「いつも通りだろ」
「……そうすか」
大輝はそれ以上何も言わなかった。
けれど、その視線の先にあるものを俺は知っていた。
袖口から覗く無数の傷痕。
昨日の夜、気づけばカッターを握っていた。
ほんの出来心だった。
最初の一本だけのはずだった。
なのに、気づけば何十本も増えていた。
それだけじゃない。
昨夜、俺は120錠の薬を飲んだ。
何の薬だったのか、もうよく覚えていない。
手元にあったものを、ただ口に放り込んだだけだ。
苦い味と、喉にひっかかる感覚だけが記憶に残っている。
待合室の椅子に腰を下ろす。
体が、鉛みたいに重い。
視界が滲んでいる。
隣にいる大輝の顔が、さっきからぼやけて見える。
それでも、大輝は何も言わない。
「酒井さん?」
ふいに、目の前に白衣の男が立っていた。
主治医だった。
「診察室へどうぞ」
椅子から立ち上がる。
世界がぐにゃりと歪んだ。
眩暈がする。
足元が頼りなく、前に進もうとするたびにふらつく。
「酒井さん、手貸します?」
大輝が腕を差し出してきた。
今更かよ、と思ったけれど、何も言わずにその手を取る。
大輝の手は、少し震えていた。
診察室に入る。
ドアが閉まると同時に、医者の顔が険しくなった。
「酒井さん、何をどれくらい飲みました?」
……ああ。
やっぱりこいつには誤魔化せない。
「……さあ」
「ふざけている場合ではありません。意識が朦朧としているし、歩行も不安定だ。目も焦点が合っていないし、動きが鈍い。それに……」
医者の目が俺の腕に向いた。
袖をまくる。
新しい傷が、赤黒く腫れている。
「これも、昨夜ですか?」
「……かもな」
「すぐに救急搬送します」
「は?」
「これだけの量を飲んで、今ここにいるのが奇跡です。心電図を取らないと、いつ心停止してもおかしくない」
「……そんな大げさな」
「大げさじゃない。酒井さん、自分が今どういう状態かわかってますか?」
医者の言葉が、遠くで響いているようだった。
俺はただ、呆然と大輝を見た。
大輝は、俺をじっと見返していた。
「……なんで何も言わねえんだよ」
俺が絞り出した声に、大輝は小さく笑った。
「言ったら、酒井さん、逃げるでしょ?」
「……っ」
「だから、医者の前まで連れてくるのが最優先だったんすよ」
大輝の手が、そっと俺の手を握る。
「ちゃんと助かってくださいよ」
俺は、それに何も返せなかった。