何が何だかユカリには分からなかったが、自分で取り返す他ないことは分かった。このまま合切袋がユカリのもとから離れれば、生まれた時から共にいた魔法少女の魔導書『我が奥義書』だけは秘められた魔法によって手元に戻って来る。残り三冊の内、一冊はベルニージュに預けたままなので、二冊は何が何でも取り返さなくてはならない。
男達の姿が貧民窟に消え、さらにしばらくして予兆も何もなく初めからそこにあったかのように魔導書が一冊、ユカリの手の内にあった。ベッターはユカリの知らない魔法で合切袋の中に魔導書を隠したのだ。ユカリは悔しさを胸に抱えながらも自信に満ちた『笑みを浮かべる』。
寒さを退ける菖蒲色の外套と秘密を隠す狩り装束とが、魂の隣で輝く光に飲み込まれる。弓の撓りに恋焦がれる指先から旅路に傅く指先まで、その肉体の重ねた齢が封じ込められる。組紐に綴じられた影の如き髪は桃の花色に包まれて束の間解き放たれ、光背を宿すが如く五芒星の髪飾りを戴いた。
紫だつ輝きの糸は薄桃の布地を織り、幼い少女の身も心も装束に包む。幸福を秘めた柔らかな縁飾は驚喜を兆す豊かな綾織と共に魔法少女とその使命を軽やかに祝福する。知恵者の象徴たる金の糸は若々しく優雅に捻じれる蔦模様の刺繍を施した。あどけない飾紐が彩った靴は行き先を寿ぎ、一歩、二歩と踏み出せば、その身に浴した栄光を地に刻む。細く嫋やかな指が硝子細工の如く繊細な杖をしっかりと握り、その強い意志を示すように紫水晶が辺りに閃く。
ユカリは杖の石突を砂地に差して、強く念じると跳躍し、噛み締めた【歯を少し開く】。
すると杖から地面に向けて激しく空気が吹きつけ、砂埃が吹き荒れた。引き絞った弓から放たれた矢のように、杖が空中へと放たれ、その力につかまる魔法少女ユカリもまた空へと舞い上がる。
それはグリュエーに押され、引かれ、導かれるように流されるやり方とはまた別だ。この魔法は何もかもを腕の中に引き入れようとする重力に対する拒絶であり、矮小な人間に一瞥を送ることもない天の御許へ突き進む意志だった。
一息に貧民窟の上空へと位置したユカリは、男たちの姿を、とりわけベッターの姿を探す。中心街の方は緑の屋根に覆われているが、貧民窟はまるで錆びた鼠のような色合いだ。そこに住む者たちの衣服もまた似たような風体で、人の行き来は貧しい街の淀んだ血流のようだ。
ベッターは間違いなく魔導書に気づいていた、とユカリは確信する。それでいて仲間たちに話さなかった。それは避けられない変化のとば口であり、あのごろつきたちに必ず不和をもたらすはずだ。
ユカリが最初に見つけたのはベッターで、幸いにも彼は既に決断していた。仲間の元を離れ、時折背後を振り返りながら一人きりで西へ向かって走っている。貧民窟の曲がりくねった道を、あるいは苫屋と賎屋の隙間を、まるで身の丈に合わない財宝でも守るようにユカリの合切袋をしっかりと胸に抱え込んで、何かから逃げるように走っていく。
杖から噴き出す風の塩梅に気を揉みながら、ユカリはしっかりとベッターに狙いを定める。獲物を見定め、弓引く狩人のように、爪剥く猛禽のように。
魔導書を二冊持つ魔法使いと真正面から戦って勝てる目はない。一瞬の内に近づいて、奪い取らねばならない。
ベッターの行く先に少しばかり広い通りがある。そこへ出た瞬間に小さな盗人は一度気を緩め、再び気を引き締めるはずだ。その隙を突こうとユカリは待ち構え、余裕をもって斜め方向に落下し始める。ベッターの走る速さと通りまでの距離を目測と目算でつかみ、徐々に速度を上げる。
しかし何に勘づいたのかベッターが振り返り、空中のユカリと目が合う。気が付くとユカリの目の前に壁が現れ、減速する余裕はあったが十分ではなかった。衝突し、杖を放し、空中に放り出される。ユカリは意地でも意識を失うまいと心を奮い、再び紫水晶の杖をつかむと何とか体勢を立て直しつつ落下の勢いを殺す。しかしそれでも地面に叩きつけられてしまった。背中を強く打ち、さっき以上に意識を手放しそうになるが、何とか堪える。
ユカリの目の前に現れた壁、そこに聳えていたのはベッターそのものだった。まるでヘイヴィル市の双子の女神像の如く巨大な姿に変じている。それはかつて王国を追放された小人が唯一つ携えた魔法に由来する。一つきりの餞に数え切れぬ侮蔑が絡み合って生まれた魔術だ。それは決別の証だとされており、呪いの体系と隣り合うものだ。
魔導書の力のために意図した以上に大きくなってしまったらしいことは、ベッターの困惑する様子からユカリにも察せられた。しかし巨大な盗人はすぐさま気を取り直し、蟻の如きユカリから守るように合切袋を抱える。
ユカリは大きくなった自身の合切袋を見上げる。ベッターの持っている物、身につけている物は全て大きくなっているが魔導書は例外のはずだ。どのような魔法であっても、魔導書を触媒とした魔法であっても、破壊を含め、魔導書に変化をもたらすことはできない。
ベッターが靴紐の千切れた革の長靴を振り上げ、ユカリは反射的に駆け出して、家屋と共に踏み潰される前に再び杖と共に舞い上がる。地面にいては地上の被害が大きくなりそうだった。
魔導書を二冊持つ魔法使いと真正面から戦って勝てる目はない。しかしベッターは魔導書を盗まれない魔術を使ったわけではない。一瞬の内に近づいて、奪い取る。それは何も変わらない。今この一瞬が勝機であり、時を待たずに喜びに輝く《勝利》の手を取らなければ、その気まぐれな女神は刻一刻とユカリの元を離れていく。
廃れた鐘楼の如き巨大な長靴をかわし、古ぼけた館の如き合切袋の底へと突っ込む。そこには小さな、今では巨大な穴があって、ユカリはそこから合切袋の内部へと突入する。思った通り、そこに巨大な魔導書などない。であれば小さな魔導書は必ず物の隙間を通って合切袋の底に落ちているはずだ。
ユカリが合切袋に入り込んだことに気づいていないベッターが困惑している内に、魔導書を見つけだし、確保した。アルダニ地方で見出した『七つの災厄と英雄の書』だ。しかしもう一冊の姿がない。
合切袋が半分に縮む。それでもまだユカリにとっては広すぎるくらいだが、ベッターに危機感をもたらし、ユカリの企みを察するには十分だったらしい。
合切袋が食べ物を嚥下したばかりの怪物の胃のように荒れ狂う。ベッターがめちゃくちゃに振り回しているのだった。水筒や麻布がユカリにのしかかってくる。その上、さらに巨大な五つ首の怪物が空から侵入してきた。ずんぐりとしていて綺麗に爪の切り揃えられたベッターの右手だ。五つ首ながら一つの目もない怪物はユカリを求めて暴れまわる。
怪物から逃げ回りながら、ユカリはもう一冊の魔導書を見つけた。今まさに穴から落ちた。ユカリもまた飛び降りる。そして落下しながら、杖から風を吐き出してゆっくりと回転し、魔導書の姿を探す。確かに落ちたはずだ。しかしベッターはまだ小さくならない。ベッター以外の誰かが手に入れなければならないのだろう。
ユカリは灰色の街と乳白色の空の間で大きく流されていく魔導書に気づく。杖から放った空気で魔導書が吹き飛ばされてしまったのだ。
ベッターの手もまたそちらへ伸びている。己のへまを呪いつつもユカリはあらん限りの空気を放出し、最高速度で推進する。ベッターの五つの指が立ちはだかるも、その隙間を抜けてユカリは魔導書をつかんだ。サンヴィアにてベルニージュとレモニカ、あとサイスたち焚書官の協力を得て手に入れた魔導書『さい強マ法文字の本』もとい『禁忌文字録』だ。
ベッターの体が急速に縮んでいくことも確認し、魔導書を、魔導書使いから取り返したのだという実感を得る。
喜びの声を出そうとした瞬間、急速に血の気が引く。杖から空気が出ない。全て使い切ったのだ。不便なことに魔法少女の第五魔法は第四魔法と同時に使えない。つまり空気を吸いながら吐くことはできないということだ。考えてみれば当たり前のような話だが、ユカリの思考はめちゃくちゃに変転する。
今から空気を吸って、ぎりぎりのところで吐き出すしかない。とにかく【吸う】。【吸う】。【吸う】。
いったい十分な空気の量とはどれくらいなのか。勢いを殺せる十分な高さとはどれくらいなのか。今どれくらい吸えているのか、一度にどれくらい吐き出せるのか。いつまで吸って、いつから吐き出せばいいのか。ユカリは把握していなかった。経験が足りなかった。
もう吐き出していいのか。早すぎるのか。限界が分からない。地面が迫る。死が迫る。
意識を失いかねない恐怖に抗するように全力で空気を放出する。死はまだそこにいて、両腕を広げている。衝撃に備える。
気が付けば無意識に、ユカリは叫んでいた。
「グリュエー!」
数瞬の後、衝撃は訪れなかった。ユカリの足はゆっくりと地面に立ち、しかし膝から崩れ落ちる。震える両手を見つめて、ユカリは呟く。
「グリュエー?」
「どうしたの? ユカリ?」グリュエーはユカリの冷や汗を拭うように優しく吹きつける。
「助けてくれてありがとう」
「え? 何のこと? 今戻ってきたばかりなんだけど」
自分で助かったのだった。
ユカリは魔法少女の杖を握りしめてグリュエーのいそうなところを目掛けて振り回す。
「死ぬところだったんだよ! どこ行ってたの!?」
「ごめん。ユカリ。ほら、例のもう一人のグリュエーの気配を感じて、ついそっちの方に行っちゃって」
ユカリは押し黙る。前にもう一人のグリュエーに出会ったのはアルダニ地方でのことだった。結局グリュエーともう一人のグリュエーは、少なくともユカリと話した限り全く区別のつかない性格、喋り方だった。そして気が付けばグリュエーはまた一人になっていた。その後グリュエーの力が増したことから二つの風は融合したのだろうと一応の結論を出したのだ。
使命とやらに縛られ、その使命の正体さえはっきりしない自分のことを知りたいと思うのは当然だ。ユカリもまたよく分かっていた。
「分かったよ。だけど次からは声をかけてね。寝てたら起こして良いし、ついて行くから」
「ありがとう、ユカリ。本当にごめんね」
「いいよ。それよりもう一人のグリュエーは見つかったの? また力が強くなった?」
「ううん、届かなかった、と思う」
「そっか」
ユカリはベッターの消えた方へ急ぐ。グリュエーに、ついて来てと言わずに。
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