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芙月みひろ
92
#王子
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その頃。土曜日の静まり返ったオフィスで、俺(王子谷)は資料の山に埋もれていた。
(……やべえ。絶対に勝てる気がしねえ……)
週明けには北条コーポレーションへのプレゼンが控えている。老舗のチョコレートメーカーである我が社が、彼らの運営する駅直結の超一等地のショッピングモールへの出店を勝ち取れるかどうかの瀬戸際だ。ライバルは、潤沢な資金を背景に世界中から誘致される外資系高級ブランド。ブランド力で真っ向から殴り合えば、こちらの予算が先に溶けるのは目に見えていた。
「……そもそも、高級感(ラグジュアリー)一点張りじゃ勝負にならねえ。何か、圧倒的に『化ける』要素がないと、門前払いで終わるのがオチ……」
思わず漏れた独り言が、誰もいないフロアに虚しく響く。俺が机で頭を抱えていた、その時だった。コツン、という硬い靴音。
「あら。休日までご苦労様。……随分と、余裕のない顔をしてるわね」
思わず、息を呑んだ。そこにいたのは、忘れ物を取りに来たという雨宮主任だった。
柔らかなグレーのニットに、ネイビーの花柄のAラインのスカート。襟元から覗くから覗く鎖骨の白さ。ふわりと漂うのは、どこか温かみのある花の香り。いつもの鉄壁なパンツスーツの武装を解いた彼女は「一人の女性」だった。
(……反則っすよ、それは)
心臓が、叱責を受けた時とは違うリズムで激しく跳ねた。俺は動揺を隠すように、資料を差し出した。主任は資料を一瞥し、深い溜息をついた。
「王子谷。あなたは『売る瞬間』のことしか考えていないわね。……いい?お客様と信頼関係を築くのには1,000時間かかる。そして、その信頼をブランドとして守り抜くのには、10,000日の積み重ねが必要なのよ」
「一万、日……?」
「高級チョコを買う『特別な日』なんて、人生に何度もないわ。本当に大切なのは、残りの何でもない日常をどう豊かにするかよ。……もっと想像しなさい。その店を日常の中で使っている人たちの姿を。『生活の隙間』を埋めるのは何かをね」
「……そうか。贅沢品じゃなく、『救い』なんだ……」
俺は夢中でキーボードを叩いた。ターゲット層である20代後半から40代の女性。買い物、育児、家事、仕事。彼女たちが一息つける場所。チョコの香りに包まれたイートインスペース。親子でも利用できるような……。
かすかな花の香りに、目を覚ました。
「……? これは?……」
いつの間にかデスクで寝落ちしていた俺の肩には、厚手のひざ掛けがかけられていた。主任がいつも愛用しているものだ。
さらに、机の上には缶コーヒーと、ビターチョコ。
そこには、付箋に走り書きされた彼女の言葉があった。走り書きですら、凛とした品格を感じさせる文字。
『あまり根を詰めすぎないこと。もう8割は出来てるわ』
俺はひざ掛けを握りしめ、そこに残る彼女の香りと温もりに、思わず顔を埋めたくなるのを必死で堪えた。