テラーノベル
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僕の先生は、いつも明るくて太陽みたいな人。
「純さん!」
元気に駆け寄って来る姿は子犬みたいだけど。
前に高峰先生が「司は大型犬だな」って言ってた。優しくてあったかいからその通りだと思った。
「今日も頑張ろうね! って冷たっ⁉︎」
「先生の手あったかい」
先生の手はいつもあったかい。平熱が37℃あるって教えてくれる前から、スケーティングを教えてくれる時や隣に座ってくれた時にそれは感じていた。先生はきっと、僕の低い体温を引き上げるためにあったかく生まれてきてくれたんだろう。
一番好きなのは、後ろから抱きしめて手を握ってもらうこと。背中もあったかくて、先生に大事にされてる感じがして安心する。今日も出番までやってもらおう。
「忘れ物ない?」
「大丈夫。ちゃんと靴はシングルのだから」
「……それ掘り返さないでよ!」
最近聞いた話だ。先生は現役時代、シングルとアイスダンスを掛け持ちしていた。この二つはスケート靴の種類が違っていて、シングル用は高いジャンプに耐えられるように、アイスダンス用はスケーティングに重きを置いて作られている。特にアイスダンス用でジャンプを飛ぶと、ほんの少し雑に着氷しただけでブレードが耐えられなくなってしまう。
だから、ありえないのだ。シングル用を忘れたからとアイスダンス用の靴でシングルの大会に出て、あまつさえ完璧にプログラムを滑り切って優勝してしまうなんて。
「忘れてたんだよ……」
「二つ出るって分かってたのに?」
「……はい」
多分、当時も高峰先生とかに同じように怒られたんだろう。ぺたんと下がった犬の耳が見えるくらい先生はへこんでいた。
「それだけじゃねぇぞ。そいつ一級の頃、自分の忘れて貸靴で大会優勝しやがったんだ」
「ちょと誠二さん⁉︎」
そこに新たな情報提供者として現れたのは、確か愛西ライドFSCのコーチ。先生とほぼ同世代のシングルの選手だった人だ。
「俺は出てなかったが、明らかに貸靴で他の選手が動揺してた。お前あれ作戦だったのか?」
「な訳ないでしょう! 俺が一番動揺してましたよ!」
「あれだけ完璧に滑っといてかよ」
どうやら先生の破天荒エピソードはまだまだ未発見のものも多いらしい。先生のことなら全部知りたい。
「本当?」
「う……本当です。絶対間に合わないって分かってたから無理言って貸してもらって……」
「優勝したんだ」
「たまたまね! 演技より転ばないことに必死で……」
あからさまに視線を泳がせる先生は、それでも僕の手をしっかりと握ったままだった。追求からは逃れたいだろうに、僕の手を温めるのをやめようとはしない。
「つかお前ら、いつまでそこにいる気だ?」
「はっ! そうですね、純さん行こうか」
あ、手離された。まだ冷たいのに。
愛西のコーチを睨むと、向こうはちょっと驚いた顔をした。それから逃げるようにそそくさと去って行く。
「荷物、持つよ」
「いい」
「……不安なので何か手に持ちたいです」
「うん、いいよ」
全く不思議な先生だ。あれだけ一緒に練習して、何回も僕の演技を見ているのに、本番になるといつも選手より緊張している。もちろん僕は緊張なんてしないので、他の出場選手と比べて、ということだけど。
「僕が転ぶと思ってる?」
「転ばないよ。純さんは本番に強いから」
それなのに、僕が転ぶ心配はしていないらしい。しかも気を遣って安心できる言葉をくれているのではなく、本当にそう思っているのだからますます分からない。
「じゃあなんでそんなに緊張してるの」
僕の演技に心配してないなら、どうして。不安はなかったけど、単純に疑問だった。
「……演技以外にも、心配したいことはいっぱいあるよ。でも純さんは心配しなくていい。それは俺の仕事だからね」
だから演技に集中して、大丈夫だよ。
きっと僕にそんなことを言ってくれるのは、この先生だけだ。だから先生以外いらない。僕はスケートをして、それを見ていてくれる先生がいればそれでいい。それだけで。
「さ、公式練習行こっか」
「うん」
僕を励ます時だけは、緊張も不安も何一つ感じさせなかった。何だか分からないけど、僕にはそれが強さに見えた。
*
「純さんお疲れ様! すごく良かったよ!」
演技が終わり、リンクサイドに上がるとすぐに先生が声をかけてくれた。演技前までの緊張はどこへらや、興奮した様子でエッジカバーを手渡される。
「ステップシークエンスレベル4確実だよ! でも冒頭の4回転フリップいきなりコンビネーションにしたよね⁉︎」
「うん」
「勝手に構成変えないで! びっくりするでしょ!」
「でもできた」
「それは本当にすごいけど!」
僕は今日、勝手に演技構成を変えた。最初の4回転フリップを、単独から2回転ループを付けてのコンビネーションジャンプにした。このコンビネーションは練習ではもう何度も成功していたが、2回転とはいえ4回転後のループジャンプは足への負担が変わるのと、基礎点が十分だという先生の判断で使わないようにしていたものだ。
「足、大丈夫? 痛くない?」
「疲れた。先生後でマッサージしてよ」
「え、うん……俺で良ければ……?」
会場全体もざわめいていた。そりゃそうだ、ジュニアで4回転のコンビネーションを跳ぶ選手なんていない。
けれど僕の隣に先生がいるのを見ると、ある程度の観客たちは僕の演技の衝撃から静かな納得に変わる。
あの・・明浦路司の教え子なら、こういうことをしても不思議ではない、と。
「何でジャンプ変えたの? 本番で跳んでみたかった?」
「うん、最後だったし」
僕の答えを聞くと、先生はそっか、と頷いた。
今日は全日本選手権のフリースケーティングだった。年が明けてから世界ジュニアもあるが、国内大会としてはジュニア最後の大会だった。だから最後に跳んでやろうと思った。
何だか最近、またクラブ移籍の話が上がってるみたいだし。
「……先生」
「ん? 何……あ、得点出るよ!」
そんなの見るまでもなくシーズンベストで一位に決まってるのに、先生は食い入るように点数が表示されるモニターを見ていた。無意識に僕の手を握っている。
そしてアナウンスと共に表示された点数は、予想通りで。
「やったー! すごいよ純さん!」
「うん」
先生は我が事のように喜んで僕を抱きしめた。あったかい。僕だって演技直後で少しくらい体温が上がっているはずなのに、先生の熱には敵わない。
ほら、見なよ。僕がこんなにも身を預けられるのは先生だけなんだ。先生の体温だけが、僕を温めてくれる。
「また泣いてる」
「うぅ……だってぇ……ずっと頑張ってきた純さんを知ってるから……」
涙脆い僕の先生は、僕が優勝する度に泣いている。そんなんじゃ干からびちゃうよ、と思うくらい毎回号泣してるからちょっと心配になる。感情表現豊かなところは先生の長所だけれども。
「そんなに嬉しい?」
「嬉しいよ! GOE+5じゃ足りないくらい!」
今日の先生はいつも以上にテンションが高い。同じ金メダルのはずなのに、シーズン最初だからとか国内ジュニア最後だからとか、先生は何かにつけて喜んでくれる。僕が何とも思わない代わりのように。
「まだ優勝決まってないよ」
「えっ⁉︎ ど、どうしたの純さん、そんなこと言うなんて……」
「──ははっ」
最終滑走じゃないから当たり前のことを言ったまでなのに、先生は爆弾でも見つけたような驚き方をする。
僕が優勝するのを微塵も疑っていないから。
ああ、気分がいい。ねぇ、先生、ずっと僕だけ見ててね。よそ見なんてさせないから。だから、ずっと僕だけの先生でいて。
そう言ったら、きっと先生は笑って頷いてくれるんだろう。
おまけ
「先生、ショートのジャンプ全部失敗したことあるって本当?」
「また匠先生に聞いたの⁉︎」
何であの人全部言っちゃうのかなあ⁉︎ と頭を抱える先生。それはいいから早く教えてよ。
「失敗と言いますか……両足着氷と回転不足と片手ついたのをそれぞれ一回ずつ取られた時はあったかな」
ショートプログラムの要素にジャンプは三回しか組み込めない。それぞれ、と先生は言っているので三本全部で減点されたということだろう。つまるところ失敗だ。
幸いにも回転不足を取られたジャンプはコンビネーションの二回目だったらしく、他のジャンプは回転数は足りていたので基礎点は入ったらしい。
「でも一位だったんでしょ?」
「そりゃジャンプ全部失敗したらその他で点取るしかないからね」
男子シングルのショートプログラムに必須の要素は、アクセルジャンプ、ステップからのジャンプ、ジャンプコンビネーション、フライングスピン、スピンコンビネーション、ステップシークエンス、足変えスピンの七つ。当然ながら基礎点が高いのは三回(コンビネーションを一回と数えて)のジャンプである。その数少ない得点源であるジャンプ全てで減点を喰らった先生はどうしたのかというと、これまた単純な答えだった。
「スピンとステップでレベル4取って、後は表現力で……」
「力技だね」
どれだけ練習で完璧にできていても、一回の本番でミスをしてしまったらその演技は完璧ではなくなる。一つのミスから崩れる選手はシニアにも多い。当時の先生も、ジャンプは最初のミスを引きずってそうなってしまったのだろう。
けれどそれだけで終わらないのが僕の先生だ。
「演技やり直したいとはずっと思ってたよ。でもやり直すことはできないし、諦めることもできなかった」
本番は一度きり。競技である以上やり直しは認められない。だから失敗したら、諦めるか諦めないかの二択になる。先生には諦めるという選択肢はないようだけど。
「それで結局、ショート一位で優勝したんだ」
「運良くショートで一位取れたから、フリーは硬い構成で行ったんだよ」
先生は謙遜するけど、ジャンプが全て減点になったら簡単に一位は取れない。本来リカバリの効かないジャンプの失敗をスピンとステップと表現力だけでカバーするなんて、やっぱり先生は人並外れていると思う。
だから、僕がどれだけ高難易度の演技を完璧に披露したとしても、過去の先生の衝撃には及ばない。多分、これからずっと。
「……勝てないな」
その言葉が嬉しさと共に出て来ることを、僕は初めて知った。
おまけ2
俺が初めて持った生徒は、とにかく優秀だった。匠先生から基礎を教わった直後とは思えないほど綺麗なスケーティングをするその子は、ストイックな選手だったが一人ぼっちの子供だった。
子供は教えなくても勝手に自分の悪い所を把握して修正してしまう。コーチなんて完全にお飾りだった。それでも彼は庇護すべき子供で、だから特に気を配った。先生に「贔屓し過ぎるなよ」と言われたが止められなかった。
「純さん」
最初は見向きもされなかった。
「純さん、一緒にウォーミングアップしよう」
いつだったか、目の前でステップを踏んで見せた時から少しずつ態度が変わっていった。
「……ねぇ」
初めて向こうから声をかけられた時は号泣して引かれた。
「あのさ」
しばらくするとリンクの外でも話しかけてくれるようになった。
「先生、見てて」
「うん、ちゃんと見てるよ」
そして今では天才と呼ばれている彼の専属コーチとなっているのだから、時の流れは早いものだ。
何度か他のクラブへの移籍の話が持ち上がったりもしていたが、本人はそんな気配を微塵も見せずに毎日リンクへやって来る。そうして俺が見ている前で黙々と練習するのだ。
俺は純さんの方からクラブを移りたいと言い出されない限りは、この子のコーチであろうと決めた。スケート選手としての彼には教え導く人なんていらないのかもしれないが、それでもまだ子供の純さんには大人が必要だと思った。だから、こうしてお飾りのまま彼の滑りを眺めている。
「……今のアクセル、どう」
そしてごく稀に、純さんは俺に意見を求めて来る。
「……締めるタイミングは完璧。でも、少しだけ体が内側に流れてるかな。前を向くんじゃなくて、こう、背中を押されるようにまっすぐ前進する感じを意識して」
「うん」
そして、決まって答えは「うん」と、それだけ。どれだけ短くても、長くても、純さんは一つ頷くだけでそれ以上の反応を返したことはなかった。
すぐにリンクサイドを離れ、スピードに乗ったところでトリプルアクセル。俺が指摘したところを完璧に修正した、美しいジャンプだった。
「……純さん、俺の意見って何か間違ってた?」
練習後、スケート靴の紐を解いている純さんの隣に座って、そう問いかけた。
「……何で?」
手を止めてこちらを見た純さんは年相応の子供に見える。いや、氷の上以外だといつもそうなんだけど。
「いや……純さんってさ、自分の動きが見えてる・・・・よね? だから誰に言われなくても動きを修正できるんだろうなぁって思ってて」
俺と同じで、とは言えなかった。素質としては同じだろうが、その使い方は純さんの方が段違いに上手い。修正のためのお手本はどうやって作り上げているのか分からないが。
「俺がアドバイスしてもしなくても一緒なんじゃないかな……と」
言葉にしてから、それがコーチとしてあるまじき発言だと自覚する。
「あっ……その、求められればいくらでも言うけどね! でも純さん、完成形は頭の中にあるだろうしっ、それと俺のアドバイスがズレてたら、自分を優先して欲しいっていうかっ……!」
慌てて言葉を追加するが、言えば言うほど俺はいらない存在のような気がする。でも言わないと。俺の考えなんかより、純さんの中にある美しい形を優先して欲しい。きっとそれが彼の強さなのだから。
「えっと……純さん?」
「……ふ」
「え? 何で笑っ……」
「合ってるよ」
吐息を溢すような音がして、それで彼が笑ったのだと分かったけれど、その理由は分からない。
それより、「合ってるよ」? 何が?
「それってどういう……」
「僕の考えと同じ」
「え……」
それだけ言って、純さんは手早くスケート靴を脱ぐと荷物を持ってその場を後にした。
取り残された俺は、彼の言葉を必死に噛み砕いた。
同じ。同じ、か。ということは今までのアドバイスは悪い方向には寄与していないらしい。それは一つ安心した。
けれどもやはり、どうして彼が俺に意見を求めるのか、その答えは分からずじまい。
「……答え合わせのつもりなのかな」
俺が持っている答えも、完璧だとは限らないのに。
(※夜鷹は自分の考えが正解かどうかではなく、「司が同じことを考えているか」を確かめているだけです。執着かな……^^)
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