来週末に、各支社から事務の担当者たちを集めて、管理部主催の研修会が開かれることになっていた。新年度から導入する新たなシステムに関する内容が主だったが、せっかくの機会だからと、事務フローなどについての勉強会も併せて予定されている。ちなみに総務側の講師は今野が務める。彼にはその前の新システムの研修会にも参加してもらい、後日管理部の皆んなにフィードバックしてもらうことになっていた。
研修会の資料準備は総務課が担当する。それに加えて総務課としての資料の準備も必要で、手分けして作業を進めてはいたが通常業務もあるから、皆なかなかに忙しい。最終的な取りまとめは田苗、それをコピーして完成させるのは私、と仕事が割り当てられている。
そして今日になって、ようやく田苗の元にすべてのデータが集まった。あとはコピーをしてまとめるだけだ。
そんなわけで、私はコピー室にいた。ここはオフィスと繋がった小部屋になっていて、コピー機二台と作業台などが置かれている。
コピー機は、動き始めて最初のうちは、順調に紙を吐き出していたのだが、残りあと数セットという所で紙詰まりを起こしてしまった。
「あと少しなのに。最近調子が悪いのよね……」
ぶつぶつと文句を言いながら、コピー機の引き出しの前にしゃがみこむ。手順に沿ってコピー機のあちこちを開け閉めしては中を確認する。白い紙の端が見えて手を伸ばした。
「なかなか取れないな……」
私は目の前に作業に集中していた。だから気づかなかった。自分の真後ろに太田が立ったことに。
「笹本」
その声に全身が緊張で強張った。
すぐそこには皆んながいる。大丈夫――。
オフィスの賑やかなざわめきを耳にしながら、私はのろのろと立ちあがった。固い顔つきで太田を見る。
「電話もメッセージも、どうして無視するんだ」
低い声で問う太田を怖いと思った。しかし、私は喉の奥で止まりそうになる声を励まして答えた。
「会社で今話すようなことじゃないでしょう」
「笹本が俺のことを無視してるからだろう」
「だって話しても平行線だし、私、太田さんのことが怖いんですもの」
太田は私の言葉に、目元をぴくりとひくつかせた。
「怖い?どうして?俺は笹本のこと、心から愛しているのに」
「愛してる?太田さんの愛し方、私にはただただ怖いだけ。だから別れるって言ったんです」
太田は額際を抑えてため息をついた。
「困ったな……。俺は笹本と別れたいなんて思ったことがないのに」
やはり互いの意思が交わることはない――。
私は唇を噛んだ。
「とにかく、今はそんな話をしてる暇はないので」
私は話を無理やりに終わらせて、再び作業に戻ろうとした。
しかし太田はなおも言う。
「もう一度話し合いたい。今夜、仕事が終わったら部屋に行くから」
私は彼の顔を見ずに言う。
「私、今、友人の家にお世話になっているから、あの部屋にはいません。それに話し合うと言っても、私の気持ちはもう伝えてある。変わることはない。だからもう諦めて下さい」
「待てよ、友人って何?」
太田は鋭い口調で言いながら、私の肩に手を伸ばす。
びくっと身をすくませた時、拓真が入って来た。
「笹本さん、コピーどう?あぁ、太田さん、ここにいたんですか」
「北川……」
明らかに敵意が込められた不機嫌な声と表情の太田に、拓真はまったく動じた様子はない。
「経理課長が太田さんのことを探していましたよ」
「ちっ……」
太田は腹立ちを隠さず舌打ちする。
「笹本、話はまた今度」
私には猫なで声でそう言い、拓真に対しては憎々しげな視線を投げつけて、太田は足早にコピー室から出て行った。
私は大きく息を吐いた。
「ありがとう」
「いや。あの人に何もされなかった?」
心配を隠さない拓真に、彼を安心させようと私は小さく笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。すぐそこには皆んながいるわけだし。だからそんな顔しないで」
「大丈夫なんて、うそじゃないのか?顔色が悪い」
「これは……」
私は頬を手で覆った。
「もう一度話したいって言われて、それでまた不安になってしまって」
「……やっぱり君のこと、諦めてはいないんだな」
私は肺の深い所からため息を吐き出した。
「いつまでこんな風に避けて、逃げ続けてなきゃいけないんだろう……」
拓真の表情が曇る。
そこへ斉藤が入って来た。
「笹本、コピーは終わったか?」
斉藤は私たちの深刻な表情に気づき、戸惑った顔をする。
「どうした?何かあったのか」
すぐに適当な言い訳が思いつかず、私は曖昧な顔をした。しかしその隣から、拓真が困ったような顔を作り斉藤に言った。
「笹本さんを手伝うつもりできたら、コピー用紙が詰まってしまっていて。なかなか取り出せなくて、困っていたんです。ね、笹本さん?」
「えぇと、そうなんです。最近このコピー機、調子が悪くて」
「またか」
斉藤は私たちの言葉を聞いて、コピー機の前にしゃがみこんだ。開けたままだった扉の奥を覗き込む。
「こいつも古いからなぁ。近いうちにメンテ来るから、その時見てもらうか」
腕まくりをした斉藤がコピー機の中に手を突っ込む。
私と拓真は一緒になって、斉藤が紙を取り出すのを見守った。
それから数日後の午後、予定通り研修会が開催された。
本社の周辺県にある各支社から、代表して事務方が一人ずつと支社長またはその代理の社員が集まった。本社からは経理と総務の課長、それぞれの課の講師役がその研修会に参加することになっている。とは言え、希望があれば誰でも参加可能だった。ただその内容については、後日今野が説明してくれることになっていたから、少なくとも総務課からの希望者はいない。
システム関係の話が終わった頃合いになって、田中が戻って来た。席に着く前に拓真の傍で足を止め、声をかけている。
せっかくの機会だ、勉強会の方に参加をしたらどうか――。
そう言っているのが聞こえた。
拓真はちらと私を心配そうに見たが、参加することにしたようだ。筆記用具を手に席を立った。
彼が出て行ってから一時間ほど経過した。勉強会の内容は、経理から総務へもうバトンタッチした頃だろうか。
終わったら後片付けに行かないと――。
そんなことを考えながら、残りの仕事を片づけるべく取り組んでいたら、田中から声がかかった。
「笹本さん、悪いんだけど、これを資料室に戻してきてもらえないかな?」
見れば、田中の机の端にファイルボックスが三つほど置かれている。
「分かりました」
「悪いね」
「いえ」
手掛けていた作業がちょうど終わるところだった。
「じゃあ、これだけやってから……」
私は出来上がったデータをフォルダに保存する。周りの皆んなにひと言断りを入れて、椅子から立ち上がった。田中の机まで行き、ファイルボックスをまとめて抱え上げた。
「行ってきます」
廊下の方へ足を向けながら、私は太田の席に目をやった。休憩かそれとも所用で離席しているのか、彼の姿はない。
念のため聞いてみようか――。
私は経理課で仲のいい先輩社員の所に寄って行き、そっと訊ねた。
「太田さんって、今、休憩か何かですか?」
「外出してるよ。会計事務所に届け物があって」
「そうなんですね」
「何か急ぎの用?」
「いえいえ、全然」
「メモでも置いとく?」
「大丈夫です、ほんと」
「そう?」
彼女は不思議そうな顔をしたが、それ以上は特に突っ込んでくることはなかった。
「お邪魔してすいませんでした」
私は彼女にそそくさと頭を下げて、急ぎ足で廊下に出た。資料室に向かいながら、拓真の忠告をふと思い出す。
一人にならないように――。
それが最善なのは分かっていたが、これくらいのことで忙しい他の誰かに一緒に行ってもらうわけにはいかない。それに、社内だ。先日のコピー室のように、仮にどこかで二人きりになったとしても、嫌なことやしつこいことを言ってくるくらいだろう。それくらいなら、反論も我慢もできる。とにかくさっさと用事を済ませて席に戻って来ればいい。それに、外出中というのなら大丈夫だ。
自分を励まして私はきゅっと唇を引き結び、廊下を進んで行く。
資料室の前に着くと、ファイルボックスを抱えたまま社員証を手に取り、センサーにかざしてロックをはずした。ドアを開けてすぐの所にある電気をつけて中に入る。ドアが締まったことを確かめて、歩を進めた。
田中から戻すように頼まれたボックスの中身は、ファイルの背中を見る限り、もともと同じ棚に置いてあったもののようだ。
部屋を入って右側の棚に足を向けて、すぐの所にある小さな台の上にいったん箱ごと置く。ボックスの中からファイルを取り出し、順繰りに棚に戻していった。
「よし、終わった……」
ひとり言をつぶやき、踏み台を戻そうとした時だった。ドアの開く音がした。誰だろうと思い首を巡らせ、私はひゅっと息を飲んだ。太田だった。
彼は私のいる方へ真っすぐに歩いてきた。
「手伝おうか」
「大丈夫です。もう終わりましたから」
私は全身に緊張を漲らせながら言ったが、太田は足を止めない。
外出って言っていたのに――。
私はごくりと生唾を飲んだ。
「何か用事があって来たんですよね?私はもう戻りますから。失礼します」
そう言って太田の傍を通り抜けようとしたが、行く手を阻まれた。
「用事があって来たには違いない」
つぶやくようにそう言うと、太田はゆらりと動いて棚の奥の壁に私を押し付けた。
「何するんですか!」
「だから、用事は笹本にあるんだよ。外出先から戻ってきた時に、ちょうどお前がここに入るのを見かけてさ。やっと二人で話せるチャンスが来たと思った。さて、本題だ。結論から言うと、俺はお前とは別れない。特にあいつ、北川なんかには絶対に渡さない」
太田に両の手首をつかまれて、壁に押し付けられた。さらに脚の間に膝を入れられて、私は身動きが取れなくなった。それでもなんとか逃れようと私はもがこうとした。
太田の手が首に触れる。出張前のあの日、首を締められたことを思い出して、息が苦しくなった。
「なぁ、笹本、ほんとに好きなんだよ。だから俺と別れて、他の男の所に行くなんて言わないでくれよ」
私は太田から顔を背けた。
「前にも言ったけれど、私、もう太田さんとは一緒にはいられないの。好きだと言う気持ちは微塵もない。あなたに触れられたくない。嫌なの」
「絶対に別れない」
手首をつかむ太田の手に力が込められ、彼の顔が近づいてきた。
逃げよう、抵抗しようと思っても動けなかった。顔を背けたその目の前に、太田の腕があった。ささやかな抵抗をと考えた私は必死にそこに噛みついた。思ったほど手応えはなかったが、次の瞬間その腕が離れ、少し遅れて頬に鋭い痛みが走った。
「俺に噛みつくなんて……」
太田の目の色が変わったと思った。
私に痛い思いをさせるのは何とも思わないのに、自分は嫌なのね――。
「私に噛みつかれて痛いって思ったの?今くらいので?あなたなんか、嫌がる私のこと、さんざん噛んだりしたじゃない。痛いって言ってもやめてくれなかった。今だってこんな風に叩いたりして」
「うるさいっ」
同じ側の頬に、もう一度太田の平手が飛んできた。その勢いに負けて、頭が壁にぶつかってくらりとする。それなのに、太田はやめるどころかますます激した顔つきで、私の肩をぎゅっと掴んで壁に押しつけた。
「っ……」
「お前は黙って俺の言う通りにして、俺だけを見てればいいんだ。そうすれば、嫌っていうくらい優しくしてやる」
太田は自分が叩いた私の頬を、今度は壊れ物でも扱うような優しい手つきで撫で始めた。
全身が粟立つ。
「だから、別れるなんて言うなよ」
その時ドアがバタンと荒々しく開き、足音高く入って来た人がいた。
「碧!」
拓真だった。
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