テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
準備万端で迎えた研修会当日は、各支社の代表として事務職が一人ずつと、支社長あるいはその代理職の社員が集まった。
本社からは主に、経理や総務をはじめとする各課の課長と講師役の者が、研修会に参加することになっていた。希望すれば誰でも参加可能だったが、総務課からは今野以外の参加者はいない。事務関連についてはもともとこちらが教えるような側だし、システム研修については後日その内容を今野が説明してくれる予定だ。そのため、管理部では私を含む他の一般社員たちは、わざわざ参加する必要を感じていないようだった。
システム絡みの研修が終わり、田中が戻って来た。拓真の前で足を止めて声をかけている。せっかくの機会だから、後半の研修会に参加したらどうかと言っているのが聞こえた。
拓真は心配そうに私をちらと見た。
その合間にも田中は拓真に強く参加を勧めている。
後半の部分は主に、経理や総務業務に関わる内容についての説明だ。田中が言う通り、拓真も参加した方が勉強になるかもしれない。私は目元を緩めて、大丈夫だと言うように彼に小さく頷いて見せた。
私の表情を見て、拓真は参加を決めたようだ。筆記用具を手にして席を立ち、その場にいる私たちに断りを言ってオフィスを出て行った。
彼が出て行ってから一時間ほどが経過した。研修会はそろそろ総務課の内容に移る頃だろうかと思いながら、私は残りの仕事に取り組んだ。
「これでよし」
手がけていた仕事に一段落ついてほっとする。そこに田中の声がかかった。
「笹本さん。悪いんだけど、これを資料室に戻してきてもらえないかな?」
田中の机の上を見ると、ファイルボックスが三つ置かれていた。
「分かりました」
「悪いね」
「いえ」
田中の机まで行き、ファイルボックスをまとめて抱え上げる。
「行ってきます」
田中と周りの同僚たちに断りを入れて、廊下の方へ足を向ける。途中、太田の席に目をやった。休憩か、それとも所用か、離席中なのか彼の姿はない。
念のため聞いてみようと思いつき、経理課で仲のいい先輩社員のもとへ行く。
「お疲れ様です。先輩、太田さんって今、休憩か何かですか?」
「お疲れ様。太田さん?会計事務所に届け物があって外出中よ」
「そうですか」
「何か急ぎの用なの?」
「い、いえ、全然」
「メモでも置いとく?」
「いや、大丈夫です、ほんと」
「そう?」
先輩は不思議そうな顔をしたが、それ以上は特に突っ込んで訊いてくることはなかった。
「お邪魔してすいませんでした」
彼女にそそくさと頭を下げて、足早に廊下に出た。
拓真の忠告がふと思い出される。
一人にならないことが最善なのは分かっている。しかしそれが難しい時もあるのだ。たかだかこれくらいのことで、忙しい他の誰かに一緒に着いてきてもらうわけにはいかない。頼まれたのは私なのに、それをさらに他の誰かに頼むようなことだってできない。
資料室に向かいながら、社内だから大丈夫だと自分に言い聞かせる。先日のコピー室での一件のように、仮にどこかで二人きりになったとしても、しつこく何かを言ってくる程度だろう。それくらいなら反論も我慢もできるし、いざとなったら逃げればいいのだ。それに、さっき聞いた先輩の話では、太田は今、外出中だという。速やかに用を済ませて席に戻れば大丈夫だ。
自分に言い聞かせながら廊下を急いで進み、資料室の前に着く。ファイルボックスを一度床に置いて、社員証をセンサーに近づけてドアのロックをはずした。ドアを開けてすぐの所にあるスイッチを押し、電気をつけて中に入る。ドアが閉まったことを確かめて、奥に進む。
田中から戻すように頼まれたボックスの中身は、ファイルの背表紙を見る限り、もともと同じ棚に置いてあった物のようだ。
部屋の右手に並ぶ棚に向かい、手前に置かれた小さな作業台の上に箱ごと置く。ボックスの中からファイルを取り出し、踏み台を使って一冊ずつ棚の上の方に戻す。
「よし、終わり」
ひとり言をつぶやき、踏み台から降りた時、ドアが開く音が聞こえた。誰が入って来たのかと首を巡らせた次の瞬間、私はひゅっと息を飲んだ。太田だった。外出だと聞いていたのに、と唇を噛む。
彼は私がいる方へ真っすぐ向かって来る。
「手伝おうか」
「だ、大丈夫です。もう終わりましたから。失礼します」
小走りで太田の傍を通り抜けようとした。しかし行く手を阻まれる。
太田はゆらりと動き、奥まった壁の方へ私を追い詰めた。
「そんな、逃げるようにしなくたっていいじゃないか」
「用が済んだから戻るだけです。太田さんも用があって来たんでしょう?私に構っていないで、自分の用事、済ませてください」
「用事?用は笹本にあるんだよ。外出先から戻ってきた時に、ちょうどお前がここに入るのを見かけたから、やっと二人だけで話せるチャンスが来たと思ったんだ。さて、ここからが本題だ。結論から言うと、俺はお前とは別れない。特にあいつ、北川なんかには絶対に渡さないからな」
言い終えるなり太田は私の肩をつかみ、壁に押し付けた。脚の間に膝を入れて、私の動きを封じる。
私は身動きが取れないながらも、なんとかして太田から逃れようと必死にもがいた。
「なぁ、笹本、ほんとにお前が好きなんだ。だから俺と別れて、他の男の所に行くなんて言わないでくれよ」
「前にも言ったけど、私、もう太田さんとは一緒にはいられないの。好きだという気持ちはもう微塵もない」
「嫌だ。俺は絶対に別れない」
肩をつかむ太田の手に力が入った。私を押さえつけるその力は強く、動けない。
「痛い!離してよ!」
私の声を聞き流し、太田は無理に私の唇を塞ごうとした。
それを避けて私は顔を背けた。その時目に入った彼の顎の辺りに、思いっきり歯を立てる。
「くっ……!」
太田はくぐもったうめき声を漏らして私から離れた。
次の瞬間、バシンッと音がして頬に鋭い痛みが走る。
「何すんだよ!」
太田の声には怒りが混じっていた。
しかしそれに負けじと、私はキッとした顔で彼を睨みつける。
「痛いって思ったの?たったそれだけで?あなたなんか、嫌だって言っている私にさんざん噛みついたじゃない。今だってこんな風に叩いたりして。他にもあなたにはひどいことをたくさんされたわ。でも、自分がされるのは嫌なのね。うぅん、普通は誰だってそうよ。嫌なことや痛いことをされたい人なんていない」
「うるさいっ」
先ほどと同じ側の頬に、太田の平手が再び飛んできた。その勢いに負けて、頭が壁にぶつかる。くらりとめまいがした。太田はますます激した顔つきになり、私の肩をさらに強くぎゅっと掴んで壁に押しつける。
「っ……」
「お前は黙って俺の言う通りにして、俺だけを見てればいいんだよ。そうすればいくらだって優しくしてやる」
太田の手が私の顔に伸びた。頬を優しく撫でながら甘い声で囁く。
「だから、別れるなんて言うなよ」
その声音と太田の手の感触とに全身が粟立つ。
ドアが荒々しく開く音が聞こえた。私の名を呼びながら足音高く入って来る者がいる。拓真だった。
私がいる方へ真っすぐに歩いてくる恋人の顔を目にして、私は心の底からほっとした。