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「実は、十月から、鷹取さんには、ラブメイクのメイン担当をして貰いたい」
会議室に入るなり、挨拶もそこそこに提案され、驚いた。
ラブメイクといったら超有名なプチプラコスメブランドで。ちょっと前に、蒔田一臣が上司役のシリーズが放送され、反響を呼んだ。あの、ラブメイクを、わたしが?
疑問が顔に出たのだろう。すこし笑って広岡さんは、
「鷹取さんと一緒に仕事をして一年近くになる」と事情を説明する。「鷹取さんは、いまは、アシスタント業務を主に行って貰っているけど、それじゃ、勿体ないなと、感じた。鷹取さんがすごく優秀なのは分かっているから、もっと、主担当として活躍して欲しいと思ったんだ。
どうだろう。してみる気はあるかい?」
「も、勿論です……!!」即答していた。まさか。多忙で、打ち合わせがめちゃめちゃ多くて定時内に自席に着くことが珍しい広岡さんが、そこまで見てくれているとは思わなかった。素直に嬉しかった。「でも。わたしなんかがいいんですか? ラブメイクってご新規ですよね?」
「うん。いま、導入に向けて準備をしているところだ。稼働は十月からだからそのタイミングでと思って。
むしろ、鷹取さんほどの実力者だからこそ、お任せしたい。
……あ、これは内示の段階で、まだみんなには言わない。
ラブメイクは、営業も巻き込んで、七名ほどのチームになるかな。鷹取さんは、フルタイムでの勤務も希望しているよね? だからちょうどよいと思って」
光栄だ。「ありがとうございます」とわたしは頭を下げた。
会議室を出てからも、ルンルンだった。嬉しいな……わたしは、社会人経験は豊富だし、事務のスキルも低くはないと自負している。
ただ、体調を崩し、ブランクがあるがゆえになかなか就職先が見つからなかった。いくら事務経験が十年以上にのぼるとはいえ、明確なエビデンスはないし。やっとこさ書類選考を通ったと思ったら、ブランクがある理由を必ず突っ込まれた。
正直に答えるのも馬鹿かな、とは思ったけど、嘘をつくのは心苦しくて正直に答えたらやっぱり落ちて。……なんだ。正直者が馬鹿を見る世の中なんてク◯だと思った。
いまは、転職活動を出来るくらいに回復しているが、ただ、毎回面接でコロナ鬱のことを話さなければならず。マイナスポイントばかり深堀りしてくる面接だらけで、うんざりした。
そんななか。
「鷹取さんは、事務の仕事を長くされているんですね」
「長く事務を続けるにあたって気をつけているポイントはありますか?」
「お仕事をする際になにを大切にされていますか?」
やっと。
ようやく、わたしの頑張ってきたところを見てくれる会社が現れた。それが、いまの勤務先である、ここちよくカンパニーである。
うちの会社は、主にコンサルティング業務を行っている。といっても、一般的なコンサルティング業務とはちょっと違い、お客様の職場環境をよくするのをメインの仕事としている。
うちの会社もそうなのだけれど、お客様の会社で、若手やベテランが多くて、中間層が欠けているという問題がある。そこを、うちの会社から現場に入る社員を入れたりし、働きやすい環境を整える。上と下とのコミュニケーションに問題があったりするなら、どうすれば意思疎通がうまく行くかを考え、提案し、実践する。
そんなに堅苦しくない業務も行っている。例えば、お客さんの会社でのフリースペースをリフォームして、より、映える、快適な環境にする。休憩スペースがおしゃれだと社員の士気はあがる。セキュリティが厳しい会社でもフリースペースだけは写真撮影を許可させたり。
そして一階にコンビニや、社員以外も入れるカフェなんかを作ったりもする。これは結構メディアで特集されたし、SNSで写真を投稿するひともあまたいたから話題になった。なお、面接の際、わたしはそこには触れなかった。……相手もうんざりするだろうから。別の切り口で攻めた。
ラブメイクに関しては、ディテールは正式にメンバーとして入ってから説明されるが、今回は職場環境改善全般を行うとのことだった。社内外に新しくカフェも作るらしく、聞くだけで楽しみだ。こころが弾む。
転職にあたってはつくづくブランクがダメージであり。いやこんなことなら休職すればよかった、でも前の会社は休職する社員を長く雇うだけのスタミナはなさそうだしな……後悔しても遅いのだが、大手には大手のよさがあるのだと改めて感じた。
ひとの異動――部署異動も頻繁にあるし。裏を返せば、仮に合わない仕事があったとしたら、配置転換は可能だということだ。
前の会社はオーナー企業ということもあり、なんでも自由にやれるのはいいのだが、……しかし火急の仕事でもなんでも引き受けるがために、突然終電まで残業しなければならない日もあったりと。苦労した。保育園にいきなり延長保育を申し込んだり、夫に午後半休を取れるかお願いしたり。
大手には大手のよさがあり、小さい企業なら小規模企業なりのよさがある。大手と違って規則がないところも多いし、割となんでも、フレキシブルに対応してくれる。例えば、あの備品が業務に必要だから、と社長に相談するとすぐ購入してくれた。大手だと申請をしたり、上司の承認が必要で、また、物が届いても一旦は総務が預かるのでタイムラグが生じたりする。
昇給も、前の会社は結構、一年〜二年に一回は大きい金額の昇給はあったから、やりがいはあったけれど、いまの会社で昇給があったとしても微々たるものだ。だから、どちらがいいかはそのひと次第なのだろう。
ともあれ、大好きなコスメブランドである、ラブメイクに関われるなんて! こんな嬉しいことはない!!
しかも、上司は、ちゃんと、わたしの仕事ぶりを見ていてくれた……認めて貰えるのはやっぱり嬉しい。いましている業務も、それなりにやりがいはあるけれども、確かに。アシスタント業務と言われればそれまでだし。
早速帰って子どもや、後、残業して帰宅した夫に話しても、ピンとこないようだった。「でも結局契約なんだろ? 意味ねえじゃん」
……昇格に近い配慮を頂いたのにその言い方。ムッとしたけど、黙っておいた。いまどき、派遣や契約社員なんて珍しくないのに。前の会社では正社員だったけれど、小さい会社だから不安定だとか、特にひとが体調を崩して働けなくなったときに、ぶぅぶぅ言っていたくせに。
結局あのひとはなにをしても文句を垂れるのだ。自分より、妻が劣っていないと気に食わないのだ。そういうひとだ。だからこそあんな――。
ひとが、生きているだけでやっと。
起き上がることすらままならず、死んだように寝たまま、ほぼ寝たきり状態でずっとずっとCDを聞いていたあの地獄。ひとがあんな地獄にいたときに、あのひとは……。
許す気はない。
大手企業への就職を目指したのは計画のひとつだ。ちゃんと、自分で稼いで生きていけるようにしてから、将来のことを決めようと思っていた。
さっさとこんな男は。捨ててしまえるくらいの経済力を、身につけてから。
* * *
それにしても、男ってなんなのかな。
と思える出来事が相次いだ、この夏。
世界はすこしの平和を取り戻したかのように見えた。感染症の不安はあれど、マスク無しで、旅行も、行きたいところへ。フェスへ。海へ。キャンプへ。
好きなところに自由に行ける日常が戻りつつある。
しかし、ここのところのわたしの悩みは……。
「ふごっ」いびきを立てておいて、豚鼻とか、なんなのだろう。気持ちよく眠る隣人。言っておくが、仕事中である。
彼は、わたしより数ヶ月先に入った先輩社員である。おそらく障害者枠。で同じ契約社員。
話しやすくてフランクないいひとではあるが。……ご病気や副作用もあるのだろうけれど。
だからといってなにをしても許される、そんな不文律がまかり通るはずがない。体調を整えるのも社会人の大事な仕事だ。
わたしは転職を複数回しており、いろんなひとを見てきた。鬱も、薬の副作用で、眠たくなるひとも珍しくはない。わたしも副作用のある薬を飲んでいるし、毎回薬局で薬剤師に眠気のことは聞かれる。つまり、それだけ強い薬を飲んでいるということだ。
けども、どんなに息子が粘っても毎日23時には絶対寝るし、先ず21時にはデジタルデトックスをし(電子機器を一切触らないという意味。入眠前のスマホは脳を興奮状態にさせ、安眠を妨げるとは言われている)、それから健康のためにストレッチや運動をする。仕事に支障をきたさないよう修行僧のように気を払っている。だから、なおのことカチンと来てはしまう。
こちらの前野《まえの》さんに関しては、……1日中眠っているというレベルだ。がーごーいびきを立てて。
寝ているのは前々から気になってはいたのだが、五月までは高さのあるパーテーションがあったし、座席も隣ではなかったしここまでとは知らなかった。六月に入ってから、このひと、……一日一時間働けてるのかな? ってレベル。いくらなんでも、これじゃ給与ドロボーだ。
例えば、まぁ、副作用で、朝や、午後一は眠くなります、ってパターンなら見たことがある。珍しくはない。
前野さんに関しては、もう、ひとに声をかけられるときに、起きてるのかヒヤヒヤする。心臓に悪い。ふと見ると必ず寝ている。いい加減ストレスになってきた。
転職して互いに一年足らず。契約社員がどういう立ち場なのか大体分かってはきたし(そりゃ、プロパー=正社員のほうが上)、そんな気を緩ませている場合ではないのに。……てか、そんな余裕どこにあるんだ? あそこまで行くとアウトプットも相当少ないだろうに。
ちょうど、ラブメイクの話も出て、士気もあがっているタイミングなだけに、なおのこと前野さんにイラついた。
たぶん、ほぼ同じ待遇。彼がフルタイムでわたしが短時間勤務をしてはいるが、……そして彼は後から入ったわたしに声をかけて、親切にしてはくれた。決して、関係にヒビを入れたいわけではない。
かつ、コロナ禍のさなかでも、飲みに行ったりしてる様子で嬉しそうにその話をする。価値観が合わないなぁ……と感じてはいた。まぁ気楽な独身男ですよねって話。
後で彼がほぼ同年代だと知って驚いた。よくも悪くももっと若い印象があったのだ。気軽に友達と飲みに行く言動からして。
そして打診を受けた翌週、わたしはとうとう耐えきれず、上司である広岡さんにメールをした。
――前野さんが毎日爆睡されてて、すみません、限界です、と。
*