雪は途切れることなく降りしきり、夜の闇に混じって地面を覆っていた。
アメリカは分厚いフードを深くかぶりながら、吹きすさぶ風に顔をしかめる。吐き出した息は白く、すぐに霧散した。
「……なあ、ロシア。本当にここなのか?」
視線の先には、黒ずんだ建物がぽつりと佇んでいた。
雪に埋もれかけたコンクリートの塊。窓はすべて鉄格子でふさがれ、扉は錆に覆われている。まるで長い眠りに沈んだ墓のようだった。
「ここだ。」
ロシアは低く答えると、雪を踏みしめて前へ進んだ。
彼の歩調は落ち着いていて、寒さすら意識していないかのように見える。
アメリカは慌てて後を追った。
「ちょっと待てって! こんな廃墟、調べて何になるんだよ。
そもそも……ここ、ソ連時代に閉鎖されたって噂の場所だろ?」
ロシアは返事をしない。代わりに厚い手袋越しに扉へ触れた。
冷え切った金属が、かすかに軋む音を立てる。
「……誰もいないはずだ。」
その言葉に、アメリカは一瞬安堵しかけた。
だがすぐ、心臓を掴まれたような不安に飲み込まれる。
「……“はず”って言ったよな。」
風が一瞬止む。
耳を澄ませると──建物の奥から、確かに“音”がした。
重たく、規則的な、足音のようなもの。
しかも二人分ではなく、もっと多い。
「っ、な、なぁ今聞こえたか!?」
アメリカが叫ぶと同時に、扉が軋みをあげて開いた。
錆びた蝶番が抗議するように悲鳴を上げ、冷たい闇が口を開く。
ロシアは迷いなく一歩踏み入れた。
アメリカは凍りついた足をどうにか動かし、その背中を追う。
中は想像以上に広く、天井は高く、冷気が淀んでいた。
壁のペンキは剥がれ落ち、床には割れたガラス片と何かの器具の残骸が散らばっている。
古い蛍光灯が何本も並んでいたが、当然電気は通っていない。
アメリカは懐中電灯を取り出し、震える手でスイッチを押した。
細い光が闇を裂き、錆びついた廊下を照らす。
「……最悪だな。
ねぇ、俺ら本当にここを全部調べんのか? 幽霊でも出たらどうすんだよ……」
軽口を叩いてみるが、声は震えていた。
ロシアは振り返らず、奥へ歩を進める。
その背中に続こうとした時──アメリカの耳に、かすかな声が届いた。
──「Я здесь」
(私はここにいる)
脳天から足先まで冷水を浴びせられたような衝撃。
アメリカは振り向いた。
背後には、吹雪の入り口しかない。誰もいない。
「ロ、ロシア! 今、声がした!」
慌てて叫ぶと、ロシアがわずかに足を止めた。
だが振り返ることはしない。
「……何も聞こえない。」
「いや、確かに……!」
アメリカは光を辺りに向けた。
その時、壁に赤黒いものが浮かび上がった。
血のように見える染みで書かれた文字。
読めない……いや、ロシアには読めるはずだ。
「おい、これ……ロシア語か?」
ロシアは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
その瞳がわずかに揺らぐ。
「……“Я здесь”。」
「は? どういう意味だよ?」
「……“私はここにいる”。」
沈黙が落ちた。
アメリカは無意識に喉を鳴らした。背筋が粟立ち、懐中電灯を持つ手が震える。
「……っ、やめようぜ。なぁロシア、マジでヤバいって。
こんなのただの落書きじゃねぇよ……!」
だがロシアは動かない。
何かを思い出そうとするように、壁を見つめ続けている。
そして──遠くからまた、足音が響いた。
今度ははっきりと。重く、ゆっくりと、確実にこちらへ近づいてくる。
アメリカは息を詰めた。
光を廊下の奥へ向ける。
……何もいない。
けれど音は止まらない。
心臓の鼓動と重なり、胸を押し潰す。
「ロシア……俺ら以外に、誰かいる……」
その瞬間、照らした先に“影”が立っていた。
人の形をしている。
だが輪郭が揺らぎ、顔が黒く塗りつぶされたように見えない。
アメリカは叫び声をあげそうになり、必死に口を押さえた。
ロシアは、影を凝視したまま動かない。
「……ソ……連。」
低い声が震えた。
影は一歩、こちらへ踏み出した。
足音が、廊下に重く響いた。
アメリカは全身の血が凍りついたように固まった。
ただ一つだけ理解できた。
ここには──“死んだはずの誰か”が、まだいる。
影が一歩を踏み出した瞬間──
アメリカは反射的に懐中電灯を振り上げた。
「なっ、なんだよあれ! ロシア、見えてるか!?」
だが次の瞬間、光が揺らいだだけで、廊下には誰もいなかった。
足音も、影も、跡形もなく消えていた。
「……っは、はは……俺の幻覚かよ……」
アメリカは自分を誤魔化すように笑った。
けれど喉は乾ききっていて、笑い声はかすれて震えていた。
ロシアは無言のまま、再び歩き始める。
足音が静かな廊下に響き、その後をアメリカが慌てて追う。
中は迷路のようだった。
長い廊下が何本も交差し、扉が左右に並んでいる。
番号が振られたプレートは錆びて判別できず、地図も何もない。
「なぁ……なぁロシア。ここ、何の施設だったんだ? 研究所って言ってたけどさ……」
「……人を造る場所。」
「っ!? ちょ、ちょっと待て、それどういう意味!?」
ロシアは答えなかった。
ただ懐中電灯に照らされた壁を見つめる。そこには剥がれたポスターがあった。
色褪せた紙には、笑顔の兵士が描かれ、ロシア語で大きくこう書かれていた。
「未来を築け、祖国のために」
アメリカは鳥肌を覚え、思わず視線を逸らした。
二人がさらに奥へ進むと、かすかな物音が耳に届いた。
ぽたり、ぽたりと、水滴のような音。
アメリカは顔をしかめた。
懐中電灯を向けると、天井から冷たい雫が滴り落ちている。
……ただ、それは水ではなかった。
赤黒く、どろりと粘り気を帯びていた。
「……血……?」
息を呑む声が廊下に響いた。
だがロシアは表情を変えず、その下を通り抜けた。
まるで見慣れているかのように。
一つの扉を押し開けると、中は研究室のようだった。
机や棚が散乱し、壊れたガラス瓶が床一面に広がっている。
割れた瓶の中からは、何か保存されていた液体の匂いが立ちのぼっていた。
アメリカは鼻を押さえ、顔をしかめる。
「くっさ……これ、まだ腐ってんじゃねぇのかよ……」
ロシアは机に積まれた古い書類を拾い上げた。
文字はほとんどかすれていたが、辛うじて読める部分がある。
──《実験体 17号 意識の分離は未成功》
──《強制投与により、暴走》
ロシアの指先が止まった。
その紙は震えていた。
アメリカが不安げに覗き込む。
「……なにそれ、研究の記録か?」
ロシアは黙って書類を破り捨てた。
その音だけが部屋に響く。
部屋を出ると、また長い廊下が続いていた。
奥の暗闇は果てしなく、懐中電灯の光を飲み込んでいる。
アメリカは思わず声を落とした。
「……なぁ、俺ら……本当に帰れるんだよな?」
ロシアは答えない。
ただ歩みを止めず、奥へ奥へと進んでいく。
その背中に、アメリカは言いようのない不安を覚えた。
──まるで、ロシアは何かに導かれているように。
しばらく進むと、扉のない部屋が現れた。
中は暗闇に沈んでいたが、壁に一面だけ違和感があった。
アメリカが光を向けた瞬間、息を呑む。
そこには、壁いっぱいに爪で引っかいたような跡が刻まれていた。
何百、何千という線が重なり、血が染みついたように黒ずんでいる。
中央には、たった一行だけ。
──「Я хочу выйти」
(私は出たい)
アメリカの膝が震えた。
「ロシア……これ、どう見ても……」
だがロシアは、その文字をじっと見つめたまま動かない。
目の奥に影が差し、唇がわずかに動いた。
「……あいつの声だ。」
アメリカはぞっとして後ずさった。
「や、やめろよロシア……そんなわけねぇだろ……! ソ連はもう──」
その瞬間、遠くの廊下からまた足音が響いた。
今度は一人分。
だが確実に、二人のほうへ近づいてきていた。
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