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井野匠
さくらぶ
27,672
通された部屋に足を踏み入れると、目の前に東京を一望する景色が広がっていた。
百平米はあろうかと思われる部屋には、毛足の長いモダンな絨毯が敷かれ、巨大なマホガニーデスクの前に、これも巨大なイタリア製のソファが置かれている。
そのマホガニーデスクに、一人の若い男が座っていた。
この部屋の主である若い男は、オレンジのネクタイにピンクのシャツ、ブルーのスーツを粋に着こなし、頬杖を突きながらじっとこちらの様子を窺っている。
僕は、若い男には目もくれず、東京の街並みを眺めながらソファに腰をおろす。
雨森老人は、「やっと座れるわい」と嫌味を言いながら僕の隣に腰をおろした。
若い男は、おもむろに立ち上がると、ゆっくりとソファまで歩いて来て、「お久しぶりです」と言ってから、向かいのソファに腰掛ける。
しばらく見詰め合っていたが、僕の方から先に口を開いた。
「ハビーデスチャンネルに雨喰いのお守り袋と、最近の白川家は何がしたいのか分かりません。
どうして、こんな幼稚な悪戯を仕掛けてくるのですか?」
僕の疑問に翠雨が笑い声を上げる。
「何でも、お見通しだと思っていましたが、時雨兄様にも分からないことが有るんですね」
僕は、勿体ぶった翠雨の嫌味を無視して、同じ質問を投げ掛けてみる。
「白川家は一体何がしたいのですか?」
「そんなに焦らないでくださいよ。と、言っても無理か…
じゃあ、正直にお答えします。
この世界の雨量を増やしたいのです」
ここで、雨森さんが驚きの声をあげた。
「う、雨量を増やすじゃと…」
僕にも意味が分からない。
「白川家は、長年の活動で莫大な財産を得て、今なお、グループ全体が様々な方法で巨額の利益を生み出しているはずです。
これ以上何を望むというのです」
僕の言葉が、翠雨の感情を一瞬で冷たいものに変えた。
「白川家に経済的な危機感など有りません。
白川家は、千二百年もの長きに渡り、王家としてこの国を支配してきたのです。
多くの民に傅かれながら、時には、その霊力が尊敬や畏怖の対象になってきました。
それが今や、ただの金持ちに成り下がってしまったのです。
馬鹿な政治家からは、ぽっと出のIT長者と同列に扱われ、経済界の中には、私達を怪しい宗教団体だと思い込んでいる輩までいる。
悔しいとは思いませんか?
こうなってしまったのは戦後の経済復興から、この国が偽善と欺瞞に満ちた政策をとってきたからです。
人々は優しい振りをして、競争は駄目だ、格差は悪だと弱者救済に走った挙げ句、全ての強者を駆逐してしまった。
そうやって、必要以上に雨を追いやった結果、自らも弱者に成り下がったのです。
しかし、いくら綺麗事を並べても社会には雨が必要です。
もし、人が邪な心を持たなければ、簡単に騙されてしまうし、金持ちになりたいという欲望がなければ、成功など絶対に掴めない。
この世界で最も大切な競争力を失うのですよ。
時雨兄様も分かっているはずだ。
雨が降らない国は衰退してしまう」
この勝手な言い分に、僕は大きな溜息を吐き出した。
「だから白川家は、この国に再び多くの雨を降らせ、混沌とした世界に変えようというのですか?
そうすれば、再び、白川家に尊敬が集まると本気で思っているのですか?」
翠雨は、まるで自らが英雄だと言わんばかりに、胸を張って大きく頷いてみせた。
「世界の混乱に乗じて、現状変更を成すのはテロ行為と同じです。
千二百年続いた白川家も、遂にテロリストに成り下がってしまいましたか…」
翠雨は、諦めたように首を振る。
「頭の固い時雨兄様に、理解してもらおうとは思っていません」
僕も、翠雨と同じように首を振る。
「でも、僕が許せないのは、白川家の大それた野望や、汚い政治活動ではありません。
白川家が己れの秘密を守る為に、雨音の小さな幸せを奪ったことです」
広い部屋に、翠雨の冷たい笑い声が響き渡る。
「だから頭が固いといわれるんですよ。
大きな目標を達成するには、時に、小さな犠牲を受け入れなければならない。
いつまでも小さな犠牲に捉われていたのでは、大事を成すことなどできません」
僕の口からも、小さな笑いが漏れる。
「小さな幸せを大切に出来ぬ人間が、大事を語るなど笑止千万です」
「そんな大口を叩いて、時雨兄様に白川家を止めることが出来るのですか?」
「試してみますか?」
この言葉に、翠雨が乾いた笑い声を上げる。
「どこまでもお人好しなのですね。
私達が、時雨兄様をここから無事に帰すと思っているのですか?」
その言葉が言い終わらない内に、背後の扉からドカドカと人が入ってきた。
僕が振り向くと、金髪の白人が二人と黒人が一人立っている。
どれもゴリラのような体格に、はち切れそうな黒いスーツを纏っていた。
隣に座る雨森老人が苦笑いを浮かべながら、「なっ?言った通りになったであろう?」と言ってから、「年寄りの言うことは聞くもんじゃ…」と溜息を吐き出した。
この男達の所属は分かっている。
名目上は、セキュリティ部門の警護課に所属しているが、実際は、アメリカの民間軍事会社から派遣された白川家専属の傭兵達だ。
思った通り、男達はスーツの内側に吊るしたホルスターから拳銃を引き抜いた。
どの男も、アメリカの捜査機関が使う九ミリのグロッグを握っている。
当たり前の話だが、その辺りのヤクザみたいに安っぽい銃は使わない。
「私は、時雨兄様を侮るほど馬鹿ではありません。
父様でさえ、時雨兄様と霊力で対等に渡り合うことなど出来ないのですから…」
僕は、半ば呆れた表情で翠雨を見詰めていた。
「貴方達は、何も分かっていないのですね?」
この言葉に、翠雨が初めて不審な表情を浮かべる。
「私達が、一体何を分かっていないと言うのです?」
「白川家の人間なのに、白川流の本当の力が分かっていないと言ったのです」
僕の言葉に、また、乾いた笑いを発した翠雨が「まだ、強がりが言えるとは…」と吐き出そうとした言葉が、途中で途切れてしまう。
部屋全体がビリビリと震え出したのだ。
ガラステーブルに置かれた重い灰皿が、カタカタ揺れながら右に移動し始める。
そして、巨大な窓ガラスがキイキイと奇妙な声で哭き始めると、僕の背後で銃を構えていた黒人が、突然ガクッと膝を突いた。
そこで、我に返った翠雨が「撃て!撃て!」と連呼するが、残る二人の銃は、狙いが定まらないほど揺れている。
男達の目は充血して、震える顎からは大量の汗が滴っていた。
それを見た翠雨が、「な、何をしたんだ!」と僕に向かって叫んでいる。
「三人の男に雨を降らせました。
大丈夫です。しばらくは動けませんが、死にはしません」
しかし、その言葉に翠雨の驚きは更に広がっていく。
「呪い詞を唱えず、雨乞印も結ばず、雨(う)さえ使わないのに、人間の雨(あめ)を操れるというのか…」
翠雨の疑問に答える義務はないが、弟に対する最後の授業だと考えて口を開いた。
「呪い詞や雨乞印はきっかけに過ぎない。
その方が患者に負担を掛けないから使っているが、相手の負担を無視しても良いのなら、無理矢理こじ開けることも出来るんですよ。
それに、雨(う)を使わなくても雨(あめ)には触れる。
僕達は、離れているようで離れていない…
空気という物質で繋がっているんですよ」
「な、何なんだ、アンタは化け物なのがっ…」
途中で言葉を詰まらせた翠雨は、唸り声を発しながら身体を弓なりにのけ反らせた。
翠雨は、僕が降らせた体内の雨に抗おうとギリギリと歯軋りを繰り返しているが、その意思に反して体内の雨はどんどん大きくなっている。
そして、苦しみが徐々に身体をのけ反らせていった。
雨森老人が、「おい!」と叫んで僕の腕を掴んできたが、僕はその制止を完全に無視した。
「僕は、白川家を許さない。
世界には様々な国が有って、様々なモラルで動いている。
そこには善も悪も存在していない。
モラルの違いは悪ではないからだ。
しかし、自分のモラルが正しいと主張して、他のモラルを駆逐するのは間違いなく悪なんだよ。
そして、白川家の秘密を守る為に、白川流を使って佐々木さんを殺したお前は、白川流によって処罰されなければならない」
翠雨は、僕の言葉を最後まで聞けなかっただろう。
今は、ソファの背もたれに身体を預けて、大きく口を開いたまま、虚な目で高い天井を見上げている。
すると、僕の腕に手を掛けたまま、金縛りにあったように動けなかった雨森老人が、大きな溜息を吐き出した。
「ワシは今まで、白川家という大昔から日本に巣食う得体の知れない化け物を恐れていたが、その化け物でさえ、お主に比べれば可愛い仔猫みたいなもんじゃ。
ワシは今、生まれて初めて恐怖を感じておる。
小便を漏らさんかった自分を褒めてやりたいくらいじゃ…」
僕は、雨森さんの言葉を全て無視して、ゆっくりと立ち上がった。
今は、いくら悲しくても、この結末しか選択肢が無かったと思い込むしかない。
遠くで、小さな頃の翠雨が「時雨兄ちゃん!」と、元気な声で呼んでいる。
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