大学の講義棟は朝からざわついていた。春の新入生歓迎行事が近づき、サークル勧誘のビラや立て看板がキャンパスのあちこちに立ち並んでいる。人の声、笑い声、足音――そのすべてが、まだどこか遠く感じられた。
悠翔はいつも、教室の後方、窓際の席を選んでいた。視線の交差が少なく、出入りも静かに済ませられる場所。誰かと目が合うのが怖いわけではない。ただ、ほんの一瞬の「気配」にさえ、心臓が跳ねる癖がまだ抜けなかった。
「ねえ、ノート見せてもらってもいい?」
背後から不意に声をかけられて、手がびくりと震えた。咄嗟に振り返らず、まずは息を整える。その一拍の間に、自分がまだ何を怖がっているのかを自覚する。
ゆっくりと顔を上げた先にいたのは、同じ講義を受けている女子学生。柔らかい茶髪をひとつにまとめていて、悪意のない笑顔を浮かべていた。
「あ……うん。いいけど」
声が少し掠れていた。彼女は悠翔の差し出したノートを受け取り、簡単な礼を言って席へ戻っていった。それだけのやり取り――なのに、背中がじんわりと汗ばんでいる。
(こんなことで……こんなことで反応するな)
自分を叱るように唇を噛んだ。何もされていない。誰も怒鳴っていない。命令されてもいない。ただ普通に、話しかけられただけなのに。
講義が終わり、廊下を出たところで、数人の男子学生が肩をぶつけあいながら笑い合っていた。そのうちの一人が軽く悠翔の肩に触れ、「あ、ごめん」と言った。
「っ……!」
その瞬間、肩に痺れのような感覚が走った。視界の端がにじみ、意識が一瞬だけ遠のいた。
謝罪の言葉が本物だったことも、ぶつかったのが偶然だったことも、理屈ではわかっていた。だが、身体のほうが別の記憶で反応してしまう。
視線を落とし、誰とも目を合わさずに足早にその場を去った。
学食は、少し混み始めていた。人混みを避け、隅のカウンター席を選ぶ。持参したパンを机に置き、ふと周囲の笑い声に耳を澄ませる。誰もこちらを見ていない。それでも、自分の食べる姿が「見られている」ような気がして、手 の動きがぎこちなくなる。
それでも、空腹には勝てなかった。パンの甘みと卵の柔らかさがじんわりと口の中に広がる。
(……自分のために、買ったんだ)
その思いが、一瞬だけ胸を温めた。そして、同時に突き上げてくるような自己嫌悪がこみ上げる。
(何してるんだろうな……俺、ひとりで……)
だが、その「ひとり」が、どれほどの重さを持つかを知っているのは、他でもない自分だ。
誰も命令しない。誰も壊さない。誰も、嘲らない。
だからこそ、この静けさが、ひどく痛い。
午後の講義へ向かう途中、風が頬を撫でた。桜はすでに散り始めていて、空にはまぶしい光があった。
その光の中、ふと“あの声”が、遠い記憶の底から浮かび上がる。
「おまえは、ひとりじゃなきゃダメなんだよ」
脳裏に、陽翔の声が滲む。その一言が、背骨の奥で鈍く疼く。
――でも。
でも、と悠翔は心の中でそっと呟いた。
それでも、俺は。
その続きを言葉にすることはできなかった。けれどその思いだけが、彼の歩みを止めずにいた。