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 王太子とシルヴィーとの婚約が報じられてからしばらく、聖堂は異様な空気に包まれていたが、今では平常運転に戻りつつある。 最初こそエメリアに同情する声もあったが、取り分け平民の間では王太子が平民出身の聖女を選んだことを支持している。

 貴族の中には侯爵家に恥をかかせるとは如何なものかと疑問を呈していた者達も、シルヴィーに会えば一変して態度を変えた。

 もう誰も、シルヴィーを止める者はいない。


「またエメリアの所へ行くのか?」

「うん。美味しいチョコレートを手に入れたの。その後お祈りをしたらすぐ寝るから、マルスはもう休んでて」


 チョコレートが入った小さな箱を手に、ティナーシェはエメリアのいる部屋へと向かって行った。

 エメリアはシルヴィーと揉めたことで、数週間の謹慎処分を言い渡された。その処分も今では解けているのだが、部屋に引きこもったまま出てこない。

 かつて自分を虐めていた相手のことなど放っておけば良いものを。ティナーシェは何かと理由をつけてはエメリアに会いに行き、その後礼拝堂で祈りを捧げている。


 舞踏会があった日よりも前、ティナーシェが自分を殺そうと、睡眠薬を盛ったことには気づいていた。

 人間に効く睡眠薬など悪魔のマルスにはさほど効果はないのだが、敢えて眠ったふりをした。


 ティナになら、殺されてもいいか。


 他の誰かと番になる気などないマルスは、それでもいいと思えた。

 この長く激しい渇望感から解放してくれるのがティナならば、と。


 だが結局ティナーシェは、自分に手をかけてはくれなかった。

 咽び泣くティナーシェの声に比例するように、渇きだけが増していく。

 欲しいものが目の前にあるのに手に入れられないもどかしさと、焦燥感。


 ティナーシェは側に居るだけでは駄目なのかと言ってきたが、それはマルスを拷問にかけるのと同じ事だ。

 番が見つからない状態と、番がいるのにお預けされている状態とでは全く意味が異なる。この感覚はきっとどれだけ言葉を砕いても、人間のティナーシェには決して理解できないだろう。


  

 マルスが自分の部屋へと帰ろうと廊下を歩いていると、ワインボトルを手に持ったシルヴィーが反対側から歩いてきた。

 そのまますれ違うかと思ったが、シルヴィーはマルスの前で歩みを止めた。


「お仕事は終わったのかしら?」

「終わりましたので、部屋へと戻るところです」

「一杯一緒にいかがかしら? 今日は一人で飲むには寂しくて。誰かと一緒にいたい気分なの」


 廊下の窓から射し込む月明かりが、シルヴィーを妖艶に映し出している。

 上目遣いに見つめられたマルスは、小さく頷き返した。


「なら一杯だけ頂きましょう」

「嬉しいわ」


 シルヴィーの部屋へといざなわれ中へと入ると、見事な調度品が部屋を埋めつくしていた。壁には絵画が掛けられ、床には上質なラグ、置かれているのは猫脚のチェストに天蓋付きのベッド……まるで貴族の屋敷のようだ。

 香水のせいなのか、薔薇のような甘く華やかな香りが漂っている。

 ソファに座り部屋の中を見回しているマルスに、シルヴィーはワインをグラスに注ぎながら尋ねた。


「何か気になるものでもあったかしら?」

「いえ。ただ、ティナの部屋とは随分趣が異なると思っただけですよ」


 ティナーシェの部屋は簡素だ。

 伯爵家の娘ならそれなりのものを揃えたくなるだろうに、「私は給金泥棒だから」と言って必要最低限の物しか買わず、残った金の殆どを路地裏に住む貧しい人に渡す薬に費やしていた。


『聖力は誰にでも勝手には使えないし、かといって浄化の時には私、役立たずでしょ? こうする以外に方法を思いつかなくて』


 そう言ってティナーシェは力なく微笑んでいた。


「お気に召さないという意味かしら」

「いや。富を得たものが贅沢な暮らしをしても、なにも悪いことなんてないでしょう。美味いものを食い、宝玉で身を飾り、高い地位を得て好みの異性を侍らせる。誰もが夢見る理想と願望だ」


 マルスは以前の自分ならきっと、こう答えるであろう台詞を吐いた。するとグラスに口をつけ赤ワインを飲んでいたシルヴィーは、目を細めて薄く笑った。

 

「貴方とは気が合いそうで良かったわ。私のことを嫌っていると思っていたから」

「そのように感じましたか?」

「ええ。貴方がティナーシェを好きなことは分かっているけれど、何故私を嫌うのか不思議だったのよ。私、ティナーシェには親切にしてきたつもりよ」

「親切に、ねぇ」

「今夜私の誘いに乗ってくれたと言うことは、嫌われていた訳ではなかったと考えても?」

「誘いというのは? 俺はただ一杯、ワインを飲みに来ただけだが」


 するりと立ち上がったシルヴィーは、マルスが飲み干し空になったグラスに、もう一度赤ワインを注いだ。


「貴方、そんなに初心ではないでしょう?」

「へぇ、シルヴィー様は意外と積極的な方でらっしゃる」

「好みの異性を侍らせる。貴方が言っていた、正にそれよ。簡単には靡かない人ほど人は惹かれるものだわ。そして、秘密の関係って痺れると思わない?」

「あんたは王太子と結婚するのだろう? ああいう奴らは処女性を大事にするらしいが」


 人間の男――特に高貴な身の奴ほど、手にする女は自分が一番最初の相手であって欲しいと思うらしい。初夜に使った血のついたシーツを、城外に飾るなんて風習のある地域もあるくらいだ。

 特に純真で貞潔そうな女性がそうでなかった時の落胆は激しい。

  

「やだわ、マルスさん。私が聖力を使えること忘れているの?」


 くすくすと無邪気そうに笑っているが、実際にはその顔はひどく歪んでいる。

 

「聖力というのは修復と再生の力。いくらでも癒せばいいじゃない」


 そういう使い道があるのかと、呆れを通り越して感服した。邪の道をよく知るマルスでも、処女膜を修復するという使い方は思い付かなかった。


「なら遠慮なく喰い潰せるってわけだ」

「いいわよ。好きなだけ」


 シルヴィーの肩にかけていたショールが床に落ちた。

 マルスとの距離はあと数センチ。

 前かがみになった胸元からは、豊かな谷間が覗いている。むせ返るような薔薇の香りと、誘う唇。吐息が顔にかかったところで、マルスは瞳を閉じた。

 

「俺に触れるな」

「――?!」

 

 マルスの低く唸るような声に、シルヴィーはビクンッと身体を震わせた。


「やっぱりやーめた。 俺、ティナ一筋だから。だからお前の誘いには乗んない」

「なんで……」

「なんでかって? ははっ、教えてやろうか?」


 唖然とするシルヴィーに、マルスは意地悪く口角を上げて見せた。

 

「俺にお前のその力は効かないから」


 シルヴィーの部屋から出たマルスはドアの向こうから、グラスが叩き割られる音を聞いた。

 

 

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