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ようやく日常が戻ってきた。拉致されたのも含めると、およそ三週間は経っていた。
朝起きてから、下準備をし終えた後、朝食を作り、マーカスを送り出す。そしてパンを焼き、七時半になったことを確認してから、パン屋『ジルエット』を開店させる。
「よし。今日も朝から、無事に全部なくなった」
パンがなくなったと同時に、店仕舞いする。そこまでが、昨日と同じ作業だった。
いつもならここで、家事に取りかかったり、裏庭にある薬草の世話などをしたりするのだが、今日は別にやることがあった。
さっきまでパンが置いてあったトレイを持って、そのまま店のキッチンに入り、パン生地を再び作り始めた。これは昼用の下準備であって、そうではない。
午後、学術院へ持って行くためのパンも含んでいるのだ。
「パトリシアさんから誘われたのに、手ぶらで行くわけにはいかないからね」
生地をこねる手に力が入った。
ことの始まりは、定期的に学術院へ、神聖力の使い方を改めて習いに行き始めたことだった。仕事もあるため、毎日行っていたわけでなかったが、院内で偶然遭遇したパトリシアから、お茶会に誘われたのだ。
貴族のそれとは違い、ただお茶をするだけの、“二人”だけのお茶会、らしい。
パトリシアには聞きたいことや、護衛の人が本当にルカ・カリフなのかも確かめたい。チラッと見た時は、小説で読んだ特徴と酷似していた。けれど、言葉使いや仕草が、小説のルカとは違い過ぎていて、確信が持てなかった。
出来れば、何処でどのように出会って、今の形になったのか、聞いてみたいところだった。が、パトリシアもまた、やはりマーカスと血が繋がっているからか、初対面の時の意味ありげな態度もあり、少し怖かった。
そのための手土産。そのための賄賂である。
「多めに作って、団員の皆さんにも渡しに行こうかな」
飽く迄も、念のため。その準備として、用意しておくのだ。きっと、邪魔をしに誰かが来るだろうから。
***
そして、予想は裏切らなかった。
学術院の門を過ぎたところまでは順調だった。パトリシアが指定した庭園が一望できる場所が見えたと思ったら、仕事をしているはずのマーカスに呼び止められた。
もう驚かない。学術院に通い始めてから、こういうことはしょっちゅう起きていたからだ。
アンリエッタはニコリと、マーカスに向かって笑顔を作って見せた。
「仕事はどうしたの、マーカス」
「しているよ。ここが今日の担当場所だから」
百歩譲って、それはあるのかもしれない。が、アンリエッタが学術院に行く度に、このやり取りを二人は繰り返している。そのため、マーカスが何かしていることは明らかだった。
おそらく内訳はこうだろう。マーカスが担当の人間の弱みか何かを掴んで脅し、交替してもらったのだ。そうに違いない。
しかし、今日は神聖力の授業でも何でもない日だった。マーカスには、わざと伝えていなかった。なのに、どうしてここにいるのだろう。
そんなアンリエッタの心境などお構いなしに、マーカスは歩き出す。と同時に、アンリエッタの手から籠をさりげなく受け取った。
「今日はやけに多くないか」
「マーカスからしたら、このくらい重くないでしょ」
そういう意味で言ったんじゃない、といった表情をされたが、アンリエッタは無視した。
「それよりも、何で今日学術院に来ることを知っていたの?」
「どうしてだと思う?」
時々マーカスは、こうして質問を質問で返すことがある。先ほどの意趣返しか。
「……まさか、門番の人まで脅したの?」
院内を警備する人たちだけでは飽き足らず。
驚いた表情をしたアンリエッタに、マーカスは返答もせずに、ただ笑って見せるだけだった。
いつの間にか院内にいる自警団員を手中に収めているマーカスを見て、アンリエッタはあることを邪推した。
それは、中性的な容姿を武器に誘惑して、如何わしい取引を……!
「変なことを考えているようだが、違うぞ」
「まだ何も言っていないのに、否定するの?」
「俺は正攻法でやっているんだ。簡単に隙を見せている奴らの方が悪い」
……マーカス、それは悪人の台詞だよ。
「それに、今アンリエッタが想像した通りのことなら、今晩やってあげようか」
「何を想像したのか知らないのに?」
「大体想像はつく。ただアンリエッタが応えてくれるのなら」
「!」
一瞬体がビクッとなった後、顔が赤くなっているような気がして、咄嗟に俯いた。けれど、マーカスはアンリエッタの顔を覗き込みながら、わざと可愛く見えるように微笑んだ。
「! ……遠慮します」
本当にバレてる……⁉ けど、こんな風に院内の団員を掌握するのは、もしかしなくても、私のためだと、思っても良いのかな。
その証拠に、ご近所からマーカスに対する苦情や悪口は聞こえてこない。代わりに、褒め言葉をいただくほどだった。確かに、こないだの事件は、学術院で起きたことだけど、やり過ぎじゃない?
チッ、とマーカスが舌打ちする音が聞こえ、そっと顔を上げた。マーカスのやっていることは、あまり褒められたものではないが、巡り巡ると、ほんの少し罪悪感を覚えた。
だから、籠を持っていない腕に掴まり、体を寄せた。すると、マーカスが驚いた表情をしたので、アンリエッタは顔を背けた。
「どうせ、どこに行って、誰と会うのかも知っているんでしょ」
「さすがにそれは知らない」
「嘘」
「本当だ。だから、何で今日はこんなに多いのか分からない」
そういえば、籠を持ってくれた時、そんなことを言っていた。けれど、私は騙されなかった。団員たちを手中に収めるほどなのに、私が知らない相手に会おうとしていて、こんなに落ち着いているわけがない。
自意識過剰かと思われるだろうが、過保護と過干渉を前世で経験してきたのだ。ナメないでほしい。知らない、分からないというだけで、奴らはしつこいのだ。
「やっぱり嘘よ。あらかたフレッドさん辺りに聞いたんでしょう」
「じゃぁ、この荷物の量はなんなんだ? パトリシアに渡すにしても、可笑しいだろう」
どうもマーカスは、この手土産が気に食わないようだった。あっさりとパトリシアの名前を言ってしまう辺り、それを物語っていた。
全く、と思いながらも、こんなものにまで嫉妬する姿が、可愛く見えてしまうようになるなんて、とアンリエッタは苦笑した。しかし、今はまだ本当のことを言うつもりはなかった。だから、掴んでいる手を、マーカスの腕に回した。
「大丈夫。マーカスが心配するようなことじゃないから。それよりも、ちゃんと護衛して下さい、警備員さん」
「それを言うなら騎士じゃないのか」
騎士? 仕事は警備でしょ? よく分からない拘りに、アンリエッタは首をかしげた。それを見たマーカスが、さらに機嫌が悪くなったように感じるのは、気のせいだろうか。