「――一応聞いてみるんだが、その謝罪は何に対して?」
声音はとても穏やかで、決して詰問口調ではないのに、天莉は何故かやたらと緊張している自分に気が付いた。
メタルフレームの眼鏡越し。
まるで自分のことを品定めしているかのような尽の視線を受けていることが原因だろう。
本人にそのつもりはないのだろうが、天莉のような小者はどうしても尽が持つ上に立つ人間特有のオーラに気圧されてしまうのだ。
高嶺尽という男は、そういう気品のようなものを生まれながらに持っている人間な気がする。
彼の出自について天莉はよく知らないけれど、もしかしたら、元々庶民の出ではないのかも知れない。
だからといって、彼の雰囲気に呑まれて何も答えないことは、社会人として失格な気がした天莉だ。
(一人の大人の女性として、どんな人が相手でも自分の意見はちゃんと言える人でありたい)
博視に見限られてしまった今、天莉は一人で生きていくことを視野に入れなくてはいけないのだから。
そう考えた天莉は、ふぅーっと深く吐息を落とすと、体調不良と緊張とでとっ散らかった考えを懸命に整理した。
思いのほか近い距離から見下ろされているのが物凄く落ち着かないけれど、今思考を割くべき問題はそこじゃない。
「……謝罪したい点はいくつかあります」
天莉は尽からの視線を、目を逸らすことなく受け止めると、ゆっくりと自分の気持ちを整理するみたいに言葉を紡ぎ始めた。
身体をソファーに横たえたままなのが無礼に思えたし、様にならなくて気になったけれど、これは尽に起き上がるなと制されたことを守っているだけだから、と自分に言い聞かせる。
それに、下手に身体を起こしてまたふらついてしまってはそれこそ目も当てられないではないか。
「まず一つ目は高嶺常務のジャケットを落としてしまったこと。二つ目は体調不良を考慮せず急に起き上がろうとして常務のお手を煩わせてしまったこと。それから三つ目は……」
実際謝罪の言葉が口を突いた時にはそんなに深い理由はなかったし、正直自分でもなぜ謝ってしまったのかよく分からなかった。
だけど――。
冷静に考えてみたら尽には謝罪せねばならないことが山積みで、口を開けばあれもこれもとなってしまった天莉だ。
心の中で指折りひとつずつ数えながら声に出したら、尽が「いくつあるんだ」と、どこか呆れたようにつぶやいた。
「……キミは存外頑固で律儀な性格のようだね」
でも続けられた言葉と一緒に、ふっと微かに持ち上がった口角がどこか現状を楽しんでいるように見えたから。
天莉はコクッとうなずくと、そのまま言いたいことを全て言い切ってしまうことにする。
「体調管理が出来ていないせいで常務の貴重なお時間を奪ってしまったこと、深く反省しています」
天莉の記憶が正しければ、自分の意識が途絶えたのは、エレベーター内でだったはずだ。
でも、尽の個室で目覚めたということは、きっと目の前の男が自分をここまで運んでくれたに違いないわけで。
そう考えると、無性に恥ずかしくてたまらなくなってしまった。
それに――。
自分がここに居座っていては、現在進行形で尽の時間を奪い続けていることになるではないか。
(もう、私のバカ! 何をのんびりと休ませてもらってるの! 高嶺常務は分刻みで動いてるような忙しい方だわ。ここから早く出て行かないとっ)
業務時間内ならば大抵傍らに秘書を侍らせている尽がひとりでいることが、もしやプライベートな時間?と思って気になりはしたけれど、そうだったとしてそれこそ天莉には関係のないことだ。
天莉はソファーの上からソワソワと尽を見上げて、「あの、最後のは……まだ現在進行形でしたね。……本当にすみません。私、すぐにお暇しますので」と付け加える。
どのくらいここで休ませてもらっていたのかは分からないけれど、少なくとも倒れた時よりは回復しているように思えたから。
天莉はソファに手を突いて起き上がろうとして、尽に腕を掴まれて制されてしまった。
「こんな状態の人間を放り出すほど、俺は薄情な男に見えているのか? ――だとしたら物凄く心外だな」
「あ、あのっ、決してそう言うわけではな、くて……っ。ただ、私……っ」
「いいから……。少し黙りなさい」
その言葉と同時。ダージリンティとウォーターリリーの、洗練されたシャボンのような華やかな香りが鼻腔を掠めて。
「ふ、ぇっ⁉︎」
天莉は少し遅れて、尽の長い人差し指がまるで『これ以上は何も言わせないよ?』と言うみたいに自分の唇を軽く押さえているのだと理解した。
「あ、あのっ」
唇を押さえられたまま。
戸惑いに揺れる瞳ですぐ眼前に迫る尽の顔をオロオロと見上げたら、眼鏡の奥で切れ長の目がスッと意味深に眇められたのが分かった。
「――これ以上まだ何か言うようなら別の方法でキミの唇を塞いでしまおうかと思うんだが……。ひょっとして、玉木さんはそっちをご所望かな?」
言うが早いか、掴まれた腕をそのままグッとソファに押さえつけられて、もう一方の手をソファの背もたれに突く体勢を取った尽の下。あっという間に馬乗りになられた天莉は、予期せぬ事態にただただ驚くばかり。
おかげで、尽から自分の名前を呼ばれたことへ『何で知って……?』と反応する間も与えてはもらえなかった。
期せずして尽の腕に閉じ込められてしまった天莉は、先程からちょいちょい感じていた華やかで清潔感のある、いかにも大人の男性といった上品な香りを嫌でも意識せずにはいられない。
そのことが、やけに恥ずかしく感じられてソワソワと落ち着かなかった。
博視は嫌味なくらいマリン系の香りを身にまとっていたけれど、尽の香りは博視のみたいに存在を主張し過ぎたりしない。
むしろ、こんな風に距離を詰めなければ感じられない程度の仄かな芳香だ。
なのに、ひとたび尽と接近しようものなら、今みたいに彼が少し動くだけで甘い香りにふわりと包み込まれてしまうから……。
一呼吸ごとに細胞のひとつひとつがその匂いに侵食されてしまうみたいな錯覚を覚えて、天莉は物凄く照れ臭くなった。
そうして、そのことは否応なく尽との距離を狭めているのだと天莉に自覚させるから。
息を吸い込むたび、全身に〝高嶺尽〟と言う男を受け入れているみたいで、何だかとてもいやらしく思えてしまう。
「た、かみ、ね常務……。ご冗、談は……」
天莉は正直な話、博視以外の異性とこんなに近付いたことがない。
仕事に対する時同様、真面目な性格そのままに恋愛に対しても真っすぐで実直な天莉は、彼氏以外の男性と肌を触れ合わせる距離になることを良しとしなかった。
当然浮気なんてしたこともない。
もっと言うと、生れて初めて出来た彼氏が博視だったから、彼以外の男性に対する免疫自体物凄く低いのだ。
気恥ずかしさに目を泳がせながら何とか言葉を紡いだらクスッと笑われてしまった。
「……さっき俺が言った言葉、覚えてる?」
そのまま柔らかな声で問い掛けられた天莉は、慌てて口をつぐんで。
「よろしい」
その言葉とともに押さえられていた手を解かれ、天莉の上から身体を起こしてくれたことにホッと胸を撫でおろす。
だが、即座に立ち上がってくれると思っていた尽が、そのまま天莉のすぐそばに浅く腰かけるから。
尽の重みで傾いたソファの座面に、そちら側へ身体が流れないよう必死で身体を突っ張る羽目になった。
そんな天莉の苦労を知ってか知らずか、尽がこちらに背を向けたまま言うのだ。
「玉木さん、キミは確か一人暮らしだったよね?」
突然問い掛けられた質問の趣旨が分からないまま、「……はい」と答えたら、少し考えるような間があいて――。
「だったら今夜はうちに泊まりなさい」
ややして告げられた言葉に、天莉は思わず「ふへ?」と間の抜けた声を出していた。
***
尽は先日、運転手付きの車窓越し。
接待で訪れていた高級ホテル前で、見知った男女三人が何やら立ち話をしているのを見かけた。
(あれはうちの社の……)
尽は業務の一環として、接点のあるなしに関わらず、社員の顔と名前は全て把握するようにしていたから。
それが営業企画課の横野博視と、総務課の玉木天莉、江根見紗英だとすぐに分かって。
(確か横野と玉木は同期で……恋人同士だったはずだ)
どこでどんな情報が役に立つか分からない。
社員らのゴシップ的なネタもある程度は把握している尽は、当然そのことも知っていたのだけれど。
(だったら江根見は何故あの場にいる? というか横野とのあの距離感)
すぐそばを車で通過しただけ。
ほんの一瞬見ただけで、何となく天莉の立ち位置を理解した尽だ。
(あの男……)
江根見紗英が、横野博視のいる営業企画課の上司――営業部長の一人娘なことは、社内の人間なら知らない者はいない。
そもそも〝江根見〟という苗字自体変わっているし、その名を冠した人物が縁者であることは誰にでも容易に推察出来ることだ。
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